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【浄土真宗】妙好人と学ぶ【信心獲得(決定)】

1 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 20:22:00 ID:z52DR1MP
真実信心について語りあうスレです。
(※特定の団体個人を叩くのは他の専用スレで)

2 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 20:48:20 ID:FZu3jxim
どもノ

3 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:08:21 ID:0BV0dC3l
スレたてありがとうございます!

4 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:20:15 ID:0BV0dC3l
早速ですが・・・妙好人さまへ
 親鸞聖人のお言葉に、
 「誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞。愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことをたのしまず。恥ずべし、いたむべし」とあります。
信心獲得した時の喜び、それは時と共に味わいが変わってくるのでしょうけれど、「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」
というような疑問が沸いてくるようなことはあるのでしょうか。その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、
どのような感じなのでしょうか?

5 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 23:30:05 ID:GIWbmUZl
また渡海難が荒らしに来るのか

6 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 01:03:52 ID:u0pd2ELf
>4
ある坊さんが、信心がないと悩んでいた。
そして、妙好人として名高い三河のおそのさんを呼び、
意見を頂戴しようとされた。
坊主「私は寺に生まれ乍ら、信心がない。
どうか、信心とはなんたるか教えてほしい」
おその「私にも仏法尊む心がない。
ないからこそ、必ず助けるという仏法様がうれしい」と。
坊主「あなたは妙好人と呼ばれるような人、
すなわち仏法を間違いなく領解している方でしょう。
そんな薄情なことを言わず、私に意見してほしい」
おその「私が仏法をちゃんと理解していると思っておられるのか?
先程、言ったことは嘘じゃない。私は、これっぽっちも、仏法を理解していない。
理解できない私だからこそ、仏さまに助けられるのがうれしい他ない」と。


7 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 03:00:26 ID:SyGI1ge2
知識で助かるわけではないが、知識がなしでは不安な私。
どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。
無限ループの繰り返し。他事を考えていても、いいとは思えず、仏法を考えても、無意味感に苛まされる。

8 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:15:19 ID:spwiENgR
・・・妙好人さまへ
って見てたらなんか昔のアニメの『お兄さまへ・・・』ってのを思い出してしまった。

9 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:38:22 ID:0zQrBclm
>信心獲得した時の喜び、それは時と共に味わいが変わってくるのでしょうけれど、「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」
というような疑問が沸いてくるようなことはあるのでしょうか。その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、
どのような感じなのでしょうか?

ここ3日間ほど回答させていただいているものです。
スレを立てていただいた方、お疲れ様でした。ありがとうございます。
また仏法(信心)のお話をできる場所を作っていただいて、とてもうれしいです。ほんとうにありがとうございます。
遅い時間ですが、寝る前に答えさせていただこうと思います。

>「自分は本当に信心決定しているのだろうか?」 というような疑問

そりゃ出ますよ。108個の煩悩の中に「疑う」という煩悩がありますから。わたしはなんでも疑います。
ただ、親鸞会では「本願への疑いは二度と出ない」と強調されていましたが、これもものすごく誤解を招くおそれがある表現だと思います。
私が親鸞会にいた時は、「本願への疑い(自力)が出ない」は、イコール=「つねに阿弥陀仏の本願が信じられる」というニュアンスで教えられました。
けど、「つねに阿弥陀仏の本願が信じられる」というのは、凡夫では無理です。それは悟りを開いた菩薩さまじゃないとできないことです。
それに「自分があのとき信心決定した体験」だって、もしかしたら夢の中のことかもしれない。ただの思い込みかもしれない。
そういう意味では、信心決定体験は、あやふやなものです
(もちろん、とんでもない驚き・感動はあるのですが、わたしの脳みそは夢の中のことを現実と思い込むことがあります。
 また、自分の過去の体験を、客観的に真実だ、と証明できないという特徴ももっていますし)。

じゃあ、未信のときとは何がちがうのか?
信心決定体験の時に、何が断ち切られるのか?何が出なくなるのか?
それは、『「本願を疑うこころ(こうすれば獲信できるのじゃないか?というこころ)」を「握りしめるこころ(執着・こだわり)」』を断ち切られるのです。
(たんなる煩悩の「疑い」ではない)
そして、本願を「聞ける」ようになる、ということです。
ややこしいとこですが、ここは誤解されている方が多いと思います。ええ、わたしもきちんと誤解してました。

10 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:39:36 ID:0zQrBclm
>その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、 どのような感じなのでしょうか?

わたしは、絶対に本願を聞かないもの・絶対に念仏を称えないものだ、という「確かさ」「間違いなさ」です。
これをきっちり教えてもらえば(思い知らされれば)、おのずと本願を聞かされます。
そして本願を聞くと、「浄土往生」「必堕無間」がハッキリします。
だって念仏がわたしの口から出ているんだから。
阿弥陀仏は、地獄に落ちるものに、必ず念仏を届けてみせる・となえさせてみせると約束なさって、その願いを達成なさったのだから。
(もちろんわたしがそこまでたどり着くには、獲信者による多くのアドバイスが必要でしたが。)

南無阿弥陀仏

11 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 04:53:50 ID:0zQrBclm
>どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。

これは・・・もっとも難関なところですね。ここがあるから、良質な獲信者によるアドバイスが必要となってくるのですが・・・。
とにかく、文章でなんとか答えさせていただきます。
おっしゃっておられるように、「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」というのは、根性でがんばる限り、当然無限ループに落ちます。
じゃあ、どうすればいいのか?
これは、求道者の求道の進み具合によって、答えが変わってきます。
なので、すみませんが、まず、7さんに質問をさせてください。

Q1、7さんは、無常を感じられますか?「もう、本当に今日死ぬ可能性をありありと感じられる。」という状態ですか?目の前に「死の穴」が見えますか?
   それとも「無常と聞いているけど、本心はあまり死ぬとは思えない・・・」という状態にちかいでしょうか?
Q2、7さんは、罪悪を感じられますか?「今日も鶏肉を食べた。これはもう、必ず因果の道理によって、必ずわたしが食べられる日が来る」という反省がありますか?
   また、その反省から、殺生をゼロにしよう!と思い、実行しておられますでしょうか?
   それとも「罪悪と聞いているけど、いくら罪だと聞いても、夕食には鶏肉をおいしく食べられるなあ・・・」という状態にちかいでしょうか?
Q3、7さんは、自分が後生の一大事を感じられますか?本当に地獄に落ちると思いますか?自分が落ちる地獄の業火が、目の前にありありと見えますか?
   それとも「後生の一大事と聞いているけれど、いくら後生は地獄と聞いても、本心では実感がない・・・」という状態にちかいでしょうか?
ちなみに、わたしは、恥ずかしながら、答えは全て後者です。

もしさしつかえなければ、お答えいただけると、なにか7さんの求道のお役に立てることを書かせていただけるかもしれません。


12 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 08:01:47 ID:z/yn+x2b
ご存知の方、教えてください。

■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」

疑問@ 根拠は何?
疑問A「自力一杯、もとめたことがある者に、自力無功と知らされる筈です。」といえるのか?

■『本願寺 なぜ 答えぬ 親鸞会 かく答える』(by顕徹)より
「仏教で修善をすすめるのは獲信の方便(因縁)に、ほかならない。
″獲信の因縁にならぬ諸善はなかりけり″親鸞聖人の、ご金言である。」

疑問@聖道門ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?
疑問A浄土宗ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?
疑問B秘事法門ですすめる修善は″獲信の因縁になる諸善″か?



13 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 08:39:15 ID:jOroAPwa
>>10
>>その内心で感じる「確かさ」「間違いなさ」というものは、 どのような感じなのでしょうか?

>わたしは、絶対に本願を聞かないもの・絶対に念仏を称えないものだ、という「確かさ」「間違いなさ」です。
>これをきっちり教えてもらえば(思い知らされれば)、おのずと本願を聞かされます。
>そして本願を聞くと、「浄土往生」「必堕無間」がハッキリします。
>だって念仏がわたしの口から出ているんだから。


う〜ん
昔、深沢七郎の「楢山節考」という小説を読んだ時の読後感を思い出した。

14 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 09:22:55 ID:rJuuVAR9
>>12の質問を教学論争ととるか、それとも信心についての純粋な疑問ととるか。
今後も出てくる質問の形式と思えるけど、本スレではどうだろう。


15 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 09:34:54 ID:PRn1yQEq
講師にでも聞けよ

16 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 10:44:47 ID:uvzViE5F
>>11
>どうすればいい?という心はいらないのに、どうすれば「どうすればいいかと思う心」を捨てられるだろうかと執心している。

この人は「自力一杯、もとめて」いるように思いますので、次の不審が
>■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
>「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」
>疑問@ 根拠は何?
>疑問A「自力一杯、もとめたことがある者に、自力無功と知らされる筈です。」といえるのか?
このスレとまったく関係ないようには思えなかったので質問いたしました。
邪魔ならおっしゃってください。

>おっしゃっておられるように、「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」というのは、
>根性でがんばる限り、当然無限ループに落ちます。

「どうすれば、どうすれば、どうすれば・・・」とは私を助けんがための
阿弥陀様の五劫の思惟・永劫のご修行のご苦労と聞かせていただけば、
こちらには用意はいらないと知らされますが、いかがでしょうか?

>>15
>講師にでも聞けよ

このご回答がこのスレの趣旨でありましたら、
ご遠慮いたします。

17 :妙好人さまへ:2007/10/08(月) 14:21:13 ID:RkcssVDi
前スレより参りました。レスありがとうございます。
>獲信体験は、合点の大きなものだとか、脳内作用だとかいう、いわば「相対的体験説」
>を主張する人がいますが、体験者として、これを明確に否定されますでしょうか?
>あくまで超越的な絶対的な体験なのでしょうか。この質問は、高森氏が「次第に」迷雲
>が晴れたことと絡んで大きな疑問です。

以上の私の質問に対し、以下のようにお答え下さいました。

>>906
>でも、そのドーパミンも後生にはたよりになりません。
>なので、もっと大事なのは、聞く(聞即信する)ことですね。

とのことですが、これは「相対的体験説」を明確に否定されていると解釈して宜しい
でしょうか?その場合、次のご発言との整合はどのようにお考えになりますか?

>>650(前スレ)
>ちなみに高森氏は獲信体験があったのだとわたしは推測します。
>ただ、もともとの気性が激しかったそうですし、信後の聴聞も怠ったのでは・・・?

それとも、「次第に迷雲が晴れ」ることも、

>>904(前スレ)
>「獲信体験」自体は、あらゆる種類があります。

の一つとして位置付けることは可能なのでしょうか?

18 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 14:27:40 ID:GpZIaesS
<重要なお知らせ>

ここは親鸞会とは無関係のスレです。
親鸞会の関係者は来ないでください。
親鸞会や高森顕徹氏の話題は親鸞会のスレでお願いします。
以後、これらの話題に触れるのは禁止です。

また、渡海難氏もこのスレには来ないでください。
来ただけで荒れる恐れがあるのでお願いします。

19 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 16:58:36 ID:gtK5vMGh
>>9
前スレより
>935 :神も仏も名無しさん:2007/10/07(日) 02:44:00 ID:AxpkBOoS
>凡夫は、憎しみに悩み、寂しさに悩み、くやしさに悩み、おだてられて有頂天になり、他人に勝とうと思う、というしょうもない心しかありあません(わたしの場合)。
>ですが、つらい時、苦しい時に阿弥陀仏の本願を聞けば、そういうときほど有り難い。
>「有り難い」なんて軽くいいますが、ほんとうにウルッと涙が出るんですよ。
>本当に孤独なんだなー、本当に死ぬ時って1人なんだなー、わたしの味方なんていないんだなー、と絶望するときに
>本願を聞けば、「ああ、世界一の応援者がいた!いつ死んでも必ず救うぞ、今死んでも必ず浄土につれていくぞ!」といってくださる方がわたしにいる。
>どんなに孤独でも、1人じゃない。だれが非難しようとも、阿弥陀仏だけは「おまえが可愛くてたまらん」とおっしゃってくださる。

>後生の苦はなくなるし、上に書いたような安心感はたくさんいただけるし。幸福感はムチャクチャ多いですよ。

と語っておられますが、道を歩いている時、電車に乗り遅れそうになって駆け出している時、会社で仕事に集中している時などでも、念仏を唱えるたびに
「有難い」という気持ちで胸が一杯になるのでしょうか?

親鸞聖人は歎異抄九条で
「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと・・・・・・・・・・
踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。」
と述べておられるようですが

20 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 18:03:15 ID:6Mbvddpg
>>656 :神も仏も名無しさん:2007/10/03(水) 09:08:56 ID:4TDRVsmv
>>「信後の聴聞」とは具体的に何かを指しますか?
>>たとへば、念仏・説法・聖教拝読・お勤めなど。
>>これらは「信後の聴聞」にならないのでしょうか?

>しっかり聞く耳を使う人なら、別に念仏やお勤めじゃなくても、目の前の食事が仏さまの説法として聞こえてくることもある。


獲信した後に会社や家族の身近な人々の存在や、
金銭などに対する価値観などに変化が生じたならば、
教えていただきたいのですが。

21 ::2007/10/08(月) 21:15:41 ID:SyGI1ge2
>>9-11 ご丁寧なレス大変ありがとうございます!感謝しています。

ご質問についてですが

Q1 無常について・・・明日、いや今日も死ぬ日かも知れないなぁ・・・というのはボンヤリと毎日感じます。死を思わない日はありませんが、今!まさに死!という切迫したものはなく、本心はのんきそのもの、大事なことは全て先延ばしなのです。

Q2 罪悪感について・・・魚を捌かれる、ああいつか自分もこう捌かれるのも仕方ないのかな、肉を焼けば、いつか自分も焼かれるのだなあ、と考えることはありますが、それでも食べているときはおいしいばかり。すぐに忘れておかわりしてしまいます。

Q3 自分の後生の一大事・・・死んだらどうなるんだろう?と考えればどこにも答えと確信できるものがなくて、暗い気分にはなりますが、地獄の業火が目の前にありありと見えることはありません。自分の未来がどんなものか、はっきりと何かを感じたことがありません。

今週、お勧めの本をいくつか入手するために京都へ行きます。仕事のついでなので聴聞してまわることは出来ませんが、もしかたら獲信者の方にお会いできるかもしれないとワクワクしています。ボンヤリと自身の問題を放置する期間はもう過ぎたと感じています。
もう無駄足を恐れていても、仕方ないですから。。

22 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:35:01 ID:0zQrBclm
>と語っておられますが、道を歩いている時、電車に乗り遅れそうになって駆け出している時、会社で仕事に集中している時などでも、念仏を唱えるたびに
「有難い」という気持ちで胸が一杯になるのでしょうか?

念仏となえるたびに有り難い気持ちで一杯になる・・・、うーん、わたしもそういうイメージを持っていましたが、実際はちがいました。
念仏をとなえるたびに、ではなく、「聞く耳を使うたび」(=聞即信するたび)に有り難い気持ち&申し訳ない気持ちになります。
それで、聞く耳を使うと、お念仏が出ないわたしから、お念仏が出てくださる。
なので、念仏というよりも、まず阿弥陀仏の本願を聞くことが大事ですね。

これを聞かなかったら、自分の口から出ている念仏の意味が分からない。
言い換えると、生きたお念仏に出会えない。お念仏が「本当に阿弥陀仏からの最高のプレゼントだった」ということが分からない。
俗っぽく言うと、いちばんおいしい部分が味わえないわけです。

>親鸞聖人は歎異抄九条で
>「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと・・・・・・・・・・
>踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと云々。」
>と述べておられるようですが

これは、その通りでしょう。「わたしは、仏法に対して喜びの心もあります。はやくお浄土に行きたいです」なんて言う人は、
凡夫というより悟りを開いた菩薩です。
でも、仏法を喜ぶこころがまったくないわたしの後生をかならず救う、という本願は、
仏法を喜ぶこころが自分にはまったくない、ということが思い知らされると、
とてつもなくありがたい・申し訳ない・うれしい・たのもしい。
親鸞聖人も、念仏をとなえていながらも喜べない自分を発見されて、とても阿弥陀仏の本願がありがたかっただろうな、だと推察します。
だって、後生の地獄を救う功徳がつまった念仏をとなえていても喜べないような人、こそをかならず救う、というのが阿弥陀仏の18願ですし。

ちょっと中途半端ですが・・・すみません。

23 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:47:07 ID:0zQrBclm
>獲信した後に会社や家族の身近な人々の存在や、 金銭などに対する価値観などに変化が生じたならば、
教えていただきたいのですが。

うーん、基本的に変わってないです。わたしの本性には変化なし。
お金は欲しいし、家族にも腹は立つし・・・。

ただ、そういうしょうもない煩悩しか持ってないわたし、その煩悩で罪ばかりつくってあとは地獄に落ちるのを待つばかり、
という状態のわたしの後生をかならず救う、という阿弥陀仏の本願を聞くと、感謝と懺悔の念が生まれます。
こんな感謝と懺悔の念なんて、わたしの本性から言ったら、絶対生まれるはずないんですよ。
でもね、聞けるはずのない本願を聞かせていただくと、生まれるはずのない感謝と懺悔が生まれる。
そして阿弥陀仏は、わたしの後生をかならず救う、とおっしゃってくださっている。

本性は変わらないし、他人を殺してでも自分が生き延びたい、という人でなしのわたし。
そのわたしの後生を救う、と聞くと、不思議なことにありがたい。
ありがたいから人にも伝えたくなる。人に仏法を伝えるこころなんて全くないわたしが。

で、仏法伝えたいから、友達に家族にやさしくしよう、という気持ちも生まれる。
本心から友達や家族にやさしくしよう、なんて思わない私が。
お金も、なるべく無駄使いせず、仏法を広める活動資金にあてよう、と思う。仏法が尊いなんて、まったく思ってないわたしが。

うまくいえませんが、このような変化はありました。
自分中心(いわゆる自己中)でしかモノを考えない本性は、まったくそのまま存在していて変化はゼロでしたが・・・。
本性が変わらない、という点では、浄土真宗の教えを聞いても「いいひと」にはならない、といえると思います。

24 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 22:53:00 ID:0zQrBclm
>21 今週、お勧めの本をいくつか入手するために京都へ行きます。仕事のついでなので聴聞してまわることは出来ませんが、もしかたら獲信者の方にお会いできるかもしれないとワクワクしています。ボンヤリと自身の問題を放置する期間はもう過ぎたと感じています。
もう無駄足を恐れていても、仕方ないですから。。

求道を本格的に開始されたのですね。うれしいです。
たしかに獲信者の数はとても少ないですが、ていねいに探していけば、必ず出会える程度には存在します。
このように足を踏み出す方(後生を自分の問題ととらえている方)は、絶対に聞かせてもらえます。
どうぞ、あせらず、変な組織や個人には気をつけながら、求道なさってください。
でも、うーん、いや、ほんとにうれしいです・・・・、
こういう真摯な求道者がおられるから、わたしも本願を聞きつづけさせていただけるのだと思います。

南無阿弥陀仏

25 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:10:49 ID:0zQrBclm
>21

で、無常・罪悪・後生の一大事を、あんまり真剣に感じられない、とのことですが、
阿弥陀仏は「無常・罪悪・後生の一大事を、あんまり真剣に感じられないような人」をこそ救う、とおっしゃっておられます。
罪悪の重い人、どうしようもない人、仏法を求めない人、仏法が理解できない人、そういうダメな人こそ救うよ、と。
阿弥陀仏の本願(お約束)ですね。
つまり、阿弥陀仏は21さんの後生をかならず救うよ、とおっしゃっておられる、それが阿弥陀仏の本願。
21さんの口から、万善万行の功徳のかたまりである念仏を「なむあみだぶつ」ととなえさせて、それで21さんの後生を必ず救う、と。

「どうすればいいのか」というこころを、どうしても捨てられない21さんを救う、
「どうすればいいのか」というこころをどうすれば・・・というこころを、どうしても捨てられない21さんを救う、
・・・・・
21さんの全て(体の行いも、こころの行いも全て)を救う、というのが阿弥陀仏の本願。
なので、「どうすればいいのか、というこころも捨てられない」という21さんも、救いの対象なんです。
このように、「どうがんばっても、うまく求道できない自分」すらも救う、というのが阿弥陀仏の本願。
「どうがんばっても本願を信じられない・理解できない」という人を救うのが阿弥陀仏の本願なんです。

ここらへんが求道で、最も難関ではあります。
とにかく、出てくる自分の思いをいったん認めて、でも
「そういう思いがでてくる自分の後生を救う、と阿弥陀仏はおっしゃっている」と聞いていく。くりかえし本願を聞く。

この「本願を聞いていく」という作業は、未信も信後もまったく同じです。
とにかく、くりかえし本願を聞く。
自分の思い(どうすれば・・・など)にとらわれずに、本願を聞く。
自分の思いにとらわれたら、とらわれたまま本願を聞いてみてください。


こんなことをオススメするのは、
わたしが聞即信にたどり着くのに、本願をくりかえし聞く(=何回も聴聞する)のが必要だったからです。

26 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:16:47 ID:DVdr9bRD
7さんこんにちは私も救われました。このような形で救われた方がおられる
ことを知り、うれしく思います。頑張ってください。

27 :神も仏も名無しさん:2007/10/08(月) 23:39:01 ID:u0pd2ELf
>16
>■『こんなことが知りたい』@(by顕徹)より
>「自力一杯、もとめたことのない者に、自力無功と知らされる筈がありません。」
>疑問@ 根拠は何?
横レスすみません。@根拠は、独自の三願転入観によるものかと思われます。
@第19願の実践。
「諸善万行ことごく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり」
『愚禿鈔』には、「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて、
以外の、大(乗)小(乗)・権(教)実(教)・顕(教)密(教)の
諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。
また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門
といふなりと知るべし。」とあります。「浄土回向発願自力方便の仮門」とは、
第19願・第20願のことを指します。第19願は、菩提心をおこして、
もろもろの功徳を修行して、心を至して、浄土に生まれようと願う者が
対象とされ、その者は、臨終に迎えとると言う誓いですから、
まずここから、実践しなさいというのが、親鸞会の考え方でしょう。
親鸞聖人は、『観経』の表向きの説き方は、第19願の諸善功徳を顕らかにしたもの
と、とらえていらっしゃる。親鸞会の考え方に沿えば、
『観経』に説かれるところの定散二善をまずやってみろと言うことになりましょう。
最終的には、定散の修習に耐えられない自分に気付き、
自身は下々品たる身と内省されると、そこに「具足十念 称南無阿弥陀仏」とある。
そこで、はじめて八十億劫の生死の罪を除くのは
「弥陀の名号を称えること」と知り、第20願に転入していく。


28 :22:2007/10/09(火) 00:05:51 ID:iHgMq0SW
>>23-24
「乗っていた飛行機に大穴が開いて落ちていくのだと思ったら、
実は阿弥陀様の手の上に乗って救われていたのだ」という感じがしました。

まだ実感が湧きませんが、なにかとても惹かれるものがあいます。

上のほうに書かれていた楢山節考の話なんかも面白かったです。
是非今後とも、いろいろと教えて下さい。
これを糸口に獲信者にお遭いすることが出来ることを願っています。

29 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 00:56:03 ID:VUakfL0T
>27続き
を書こうと思いましたが、億劫なので、江戸っ子的には、しゃらくせぇので、
真実義のみを書きます。つまり、19・20・18と、私の人生暗かったということです(古)。
親鸞聖人は、比叡のお山で常行三昧堂で修行されていたそうであります。
このことは、『恵信尼文書』が発見されるより、もっと以前より、
指摘されています。蓮如上人は、本願寺に常行堂を建立すべき
遺言を残されており、山科に、その後、建立されています。
この修行を第19・第20願修行時代と配当できないか?ということです。
常行三昧とは、90日間、念仏を称しながら、
阿弥陀仏像の周りを不眠不休不座で回る行を言います。
死者が相次いだため、江戸時代には封印されたと言う修行です
(酒井大阿闍梨が近年行っておられます)。
それこそ、命を懸けた求道でありましょう。
もし、親鸞聖人の体験(三願転入)を追体験するのであれば、
常行三昧をせよ、と言うことです。
口先だけの三願転入など、何の意味をもちません。
その後、親鸞聖人は吉水法然上人の許に参じ、
たちどころに他力摂生の旨趣を受得(『御伝鈔』)された。
親鸞聖人が勧められたのは、紆余曲折の自力行ではなく、
法然上人の許での、一切衆生を洩らさず救う、他力念仏のみ教えでした。
本師源空いまさずは
このたび空しくすぎなまし
出離の強力な縁も因も、他力念仏の他なし、と示されたのでした。
故に、お勧めはただひとつ、他力念仏に帰入せよ、であります。
しかしながら、今までの修行はムダだったのかと言うと、
さにあらず。これも、一切衆生が『平等に』救われる法に、
出遇わせて下さった阿弥陀如来のお手回しだったのだと、
そう読めば、第19願、第20願の役割が自ずと知れるわけです。


30 ::2007/10/09(火) 08:20:02 ID:OCt26LC+
親身に回答して下さり、本当にありがとうございます。
>>25・・・摂取不捨の光明に救い採られるには、調熟の光明によるお育てが必要、ということでしょうか。
何度も何度も聞かせていただきたいと思っています。

本願不思議の世界は未だ知らない世界ですが、そもそも自分が存在すること自体が今の自分には不思議極まりないことでして。
数多ある人生哲学、理念、宗教、の中で、浄土真宗に巡り合えたことも不思議です。
これこそ真実だと思うのは、無学で無思慮な自分の早とちりなのか、強縁によってそう思わさせていただいているのか?
考えるほど何がなんだか分からなくなってきますが、道を求めていきますね。

31 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 09:05:34 ID:8+0aZzDE
ならば、極楽浄土の存在を証明してみろ? 脳内でバーチャル極楽を作り、救われた気になってる奴はしあわせ。ないはずのものをあると思いこみ、死んでいける。また、それも人生なのかもしれぬのぅ。

32 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 09:41:16 ID:vERZKabd
>>31 極楽浄土の存在の証明が気になることはいいことかも。
面白いのは、極楽浄土を「ないはずのもの」と「信じている」という点。ないと思うものをないと証明することはとんでもなく難しいのに、ないと信じられる自分に何か疑問を抱きませんか?

僕は死後の世界が存在しないことが証明されるまでは不安が尽きない性分なんで仕方がありません。
自分自身だと自分が思っている自分というものが、この肉体がある間の化学反応の産物にすぎず過去世もなく未来世もなく、
心というものはどこまでも即物的なもので死と共に霧散し絶対に消え去るとハッキリ証明されたならどれほど楽チンだろう。
残念ながら科学はまだまだ不完全で、その基礎となる数学ですら証明など出来ない命題があることが証明されてしまった現在、
ただただハッキリしているのは「自分にとって」世界も自分も不確かで、これが答えだ!という証明が未だに僕は知らないということぐらい。


33 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 10:58:04 ID:VUakfL0T
(浄土)はあるのでもなく、ないのでもなく、他によって存するのでもなく、
自ずから存するのでもない、何によって存すると言えるのだろうか?
『中論』を著された龍樹菩薩ならば、そうお答えになられるかもしれません。
( )には、どのような語句を入れてもかまわないのですが。
有無の戯論は、縁起(相互依存・相依性)の道理によって、悉く破されます。
ただ、私たちは傷つけられれば、痛い、苦しい、「痛み有り」と
思うのです。それは縁起に依るからと頭では理解できても、
また『唯識』からすれば、ただ阿頼耶識に薫習された種子が現行した夢まぼろしに過ぎないと
理解できても、痛いものは痛い、そこに我々の現実があるわけです。
さて、いかにすれば、この繋縛された私たちを
寂滅たる、融通無碍たる、智恵円満たる悟りに導くことができるのでしょう?
浄土教家の方々は、得道の人(仏)の巧みなお手並みを、
念仏による往生浄土という教説に見いだされたのです。


34 :7:2007/10/09(火) 12:31:07 ID:vERZKabd
>>26さん 弥陀の本願を聞かれたのですか 今はただ凄いなぁとばかり思います。
 未信だからでしょうか 煩悩具足だからでしょうか 今は不安と迷いだらけですが 頑張りますね。
 ・・・とはいえあまり頑張っているという感じでは無くて ご縁を求めて彷徨っているようなものですが。

35 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 13:32:50 ID:8+0aZzDE
親鸞さん自身、800年前の科学がない時代の人だからね。今や、宇宙にロケット飛ばしてる時代ですよ? 極楽浄土など、時代錯誤の何物でもない。

36 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 15:53:14 ID:VUakfL0T
>85
科学が発達して、失ったものも数多いですね。いくらロケットを飛ばしても、
交通網が広がっても、生死を巡る苦しみが絶えないのはどういう訳でしょう?
果たして、800年前の人より、私たちは賢くなっているのでしょうか?
私は、逆に、叡智は見失われ、ますます個人が無力化される
体制になってきている気がします。ロケットを飛ばしても、
飛ばす人間が無力になっている所に問題を感じますが、いかがでしょうか?

37 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 15:55:02 ID:VUakfL0T
>36
アンカーミス、すみません。>35でした。

38 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 16:43:59 ID:8+0aZzDE
>>36 もっと科学を進めれば良い。クローン科学で人間が不死になった時、宗教の役目はすべて終了する。宗教はただの慰めであったと。

39 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 17:58:09 ID:vERZKabd
生・老・病・死、この全てを医学科学で解決できる日が来たら宗教などいらんかも知れんねぇ。
しかし、老化が防げるようになり、全ての病気も治療できるようになり、寿命も無限に延ばせるようになったとして、
思うようにならない人生という生の苦しみはどう解決するのかな?誰もが幸せになれる方法を、医学や科学は生み出せるのかな?
まぁ、無理やり薬や手術で脳内にドーパミンでも出させて多幸感を維持させるとかそういう力技はなしの方向で。

あと、寿命が無限に延ばせたところでいつか冷え切ってしまうこの宇宙で生命維持は難しいのでは。
それとも科学が進めば他の若い宇宙へ移行できる日が来るのかな。
いずれにしても、戦争一つ、隣人との喧嘩一つ解決できないこんな世の中じゃ、それは見果てぬ遠い夢のような。
今日明日死ぬかも知れない我が身というのが現実でしょ。
自分の人生に限って見つめていけば、自分の心の問題は科学の進歩をのんきに待ってはいられない。
今、何が出来るのか。今どう解決する道があるのか。求めずにおれないのも人生だと思うなぁ。

40 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 21:19:51 ID:Xr6L0yaH
ここ数日、回答させていただいているものです。

>30 数多ある人生哲学、理念、宗教、の中で、浄土真宗に巡り合えたことも不思議です。
>これこそ真実だと思うのは、無学で無思慮な自分の早とちりなのか、強縁によってそう思わさせていただいているのか?
>考えるほど何がなんだか分からなくなってきますが、道を求めていきますね。

うーん、かなり求道が進んでいるところにおられる感じがします・・・。
ぜひそのまま、繰り返し本願を聞いていっていただきたい、と思います。
30さん、かならず聞く耳いただけますよ。


41 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 21:20:24 ID:Xr6L0yaH
求道にかんして疑問のある方、おられますでしょうか?


42 :30:2007/10/09(火) 22:15:01 ID:vERZKabd
>>40 いつもご解答有難うございます。大変勇気付けられます。
 人生や死とは何か悩みぬいた高校時代、選んだのが仏教系の大学で、その学生時代に親鸞聖人のみ教えに出会ったまでは良かったのですが、
なんだかんだで某会とも疎遠になってかれこれ10年。もういい加減なんとかせねばと焦って古巣の様子を覗いてみましたが批判のための批判の繰り返し。
 嘘でもイイから「俺は獲信したぞー」ってな人はいないものかと絶望的な気分でした。
 まさか獲信について前向きに現実的にアドバイスしてくださる方が現れるとは、本当に不思議なご縁です。
 いよいよ、ネットだけじゃなくて、今週行ってきます。まずはいくつか書籍を求めてまいります。獲信者の方にもお会いできるかも知れません。
不安と期待が入り混じります。

最後にまた質問ですが、仏法を聞くときは「後生の一大事をこころにかけて」と言われますが、具体的にはどのような感じなのでしょうか。
後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ません。
また、聞法中の心得としてその他の気をつけるべき点はあるのでしょうか。ひたすら集中力を用いればいいのでしょうか。

43 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:07:38 ID:VUakfL0T
>38
それこそ、夢、おとぎ話ではないですか?極楽が有ると信念を持つのと
クローン技術で不死になるという予想も、あまり大差はないように思えますが。
生死の問題は、一般論や仮設では語れない、
今、私が死に直面している事実から出発します。
十年後、二十年後、私が生存しているという仮定は、
問題にならないと言うことです。
試しに、クローン技術で何万年の寿命を持ったとしても、
様々な苦痛が発生するでしょう。私たちに欲望がある限り。
源信和尚の『往生要集』に「天人五衰」という話があります。
膨大な寿命を有する天人は、死について考えることがなく、
楽しく何不自由なく生きていることが当然と疑わない。
ところが、いざ天人の寿命が尽きる時は、五つの衰弱相「五衰」が現われると言います。
頭の花が萎れ、生まれてから一度も汚れることのなかった衣服が汚れ、
体から死の臭いがするなどです。
一番の苦痛は、まわりの天人達が、この兆候が出始めた天人から
次第に遠ざかっていき、自らの万能の生活を壊さないために、
無かったことにするということでしょう。
死にゆく天人は、最後は誰ひとり共感する者も傍にはなく、
生まれてはじめて経験する孤独と万能感が崩壊していく苦痛の中、
命尽きていくということです。おとぎ話と言えば、それまでですが、
自分達の知恵・技術が万能と錯覚した現代人にも
何か共通するところはないでしょうか?
さて、私はどうか?ということです。
機会が有れば、仏教典籍など開いてみてもいいのではないでしょうか。

44 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:21:42 ID:VUakfL0T
>42横レス失礼します
いってらっしゃい。私は信一念体験説は採ることができませんが
(加茂和上という方の門下であったため)、
私も確固とした信心を求めていたので、大丈夫。
「もし菩薩、種々の行を修行するのを見て、善・不善の心を
起こすことありとも、菩薩(私は法蔵菩薩と読む)みな摂取せん。」
『教行信証』の結びです。
自由に大らかに仏法を聞き開いていけばよい。阿弥陀如来は、
みんなご存じです。有り難いやら、恥ずかしいやら。
南無阿弥陀仏


45 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:26:30 ID:Xr6L0yaH
ご質問ありがとうございます。つたない文章ではありますが、答えさせていただきます。

>仏法を聞くときは「後生の一大事をこころにかけて」と言われますが、具体的にはどのような感じなのでしょうか。

後生の一大事をこころにかける。
これは、わたしが死んだら、死後(後生)に一大事(地獄に落ちるという大変なこと)があるのだ、と、後生の一大事を自分の問題としてとらえる、ということです。
この後生の一大事を自分の問題だ、と思う人は、地獄に落ちるのが不安なので真剣な求道を開始します。
そして、後生が全然こころにかからない自分を発見していくことになります。
そういう意味で、30さんは後生をこころにかけた聴聞をなされていると思います。
そのまま、そのまま繰り返し本願を聞いていってほしいと思います。

>>後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ません。

「後生とも一大事とも思えず、ましてや他事ばかり考える自分のこころには全然かけることが出来ない」
ような人の後生を救うよ、というのが阿弥陀仏の本願です。

>また、聞法中の心得としてその他の気をつけるべき点はあるのでしょうか。ひたすら集中力を用いればいいのでしょうか。

集中力がないとダメ、というのはありません。リラックスしててもいいです。やる気なくてもいいです。本願を聞きたくないままでもいいです。
とにかく、くりかえし阿弥陀仏の本願を聞く。くりかえし聞く。聞きたくなくても聞く。
そして、本願を聴聞すると、おのずといろんな思いが出てきます。
「分からない」「後生が救われたという実感がない」「後生がこころにかからない」
「無常をとりつめられない」etc・・・という思いが出てくるようなものの後生を救うよ、という阿弥陀仏の本願を、再び聞く。
このくりかえしです。

聞いて聞いて聞いて聞いていくと、『「上に書いたような自分の思い(分からない、など)」にたいする執着』を離れて、聞即信できるときが来ます。
その時は、くりかえし本願を聞けばかならず来ます。
しかし、獲信体験までで止まってしまう人も多いです。
なので、聞く耳をいただいたら、ぜひ信後の聴聞もやってくださいね。

46 :30:2007/10/09(火) 23:48:15 ID:vERZKabd
レス有難うございます。
信後の聴聞をさせていただける日こそ楽しみです。そんな今の気持はまだ求道のしんどさも感じていない自分の宿善の薄さの表れかもしれませんが。
繰り返し、繰り返し、阿弥陀仏の本願を聞くことですね。アドバイス有難うございます。ひたすら聞いてみます。

47 :神も仏も名無しさん:2007/10/09(火) 23:55:36 ID:VUakfL0T
折角の妙好人スレですから、寝る前にひとつご紹介しましょう。
あるお同行と三河のおそのさんの問答。
お同行「あなたは真宗をどのように領解しておりますか?」
おその「(浄土へ)やってもらいますのー」
お同行「それではタノムが抜けている、それは南無がない四字安心と言うものだ。
もっとしっかり聴聞しないと、地獄に落ちることになりますぞ」
おその「ありがとうございます。うれしゅうございます」
お同行「あなたは地獄に落ちるのがうれしいのか?」
おその「落ちればこそ、(浄土へ)やってもらいますわいのー」
お同行「それでは、阿弥陀如来のご恩を尊めますか?
お慈悲ありがたいという日々を送れますか?」
おその「ご恩やお慈悲はなんともない、
毎日、火事の炎燃え盛る真っ最中にいるようなものだのー」         お同行「それでは、信心頂けたのか、疑い晴れたのか、
弥陀をタノミ奉ったとは言えないではないか!」  おその「私は、阿弥陀如来の必ず参らせてやるの仰せのほかには、
後にも先にも何も存じません。」
タノムは、まさに姿(相)であって、自覚意識ではないということです。
仏の「あなたを苦痛の世界、迷いの世界に留めておくことは、
何が何でも出来ないぞ、故に必ず浄土へ連れて参る。
何故なら、お前は私の一人子だから。人間の親とは違う、
仏の真実心の親心ゆえ、救わずにはおられんのだ。」
この仰せ・命令だけだったということです。
それを受けた姿(相)が信心なのであって、
私の中に確固たるものが出来上がったものは、所詮、凡夫の築いた自力信。
すなわち、ガラクタと言うわけです。
我となえ、我聞くなれど、
南無阿弥陀
つれてゆくぞの親のよび声


48 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:08:45 ID:HOSJVhbo
あまりにくだらない。800年前の迷信を現代に適応させようなど、時代錯誤も甚だしい。ちなみに私は親鸞会に出入りしたいたことのある人間です。聞いて、聞いて、聞いて、聞いて、得られるものは洗脳しかない。

49 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:12:58 ID:HOSJVhbo
何が後生一大事か? 人間が死ぬのは生物学的に見て自然なことです。死にたくない、だから、宗教は死後の世界を勝手に作った。当然、そんなものは創造の産物でしかない。

50 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 07:16:33 ID:HOSJVhbo
クローン科学による永遠の命が出来た時、宗教は役割を終える。また、仏教でいう悟りも脳科学で完全に解明されることになる。その方が私は分かり易く、面白いと考える。今時、極楽浄土なんていっても幼稚園児でさえ信じないよ。

51 :暇人:2007/10/10(水) 07:18:27 ID:QXGhIVQK
カルトの親鸞会と 念仏を混同するなんて

くそと 味噌を いっしょにするようなものだ

52 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 08:25:38 ID:HOSJVhbo
>>51 どっちも一緒だよ。800年前の迷信。

53 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 09:21:37 ID:C7Shl8Jo
>>51
このスレは親鸞会とは無関係。

54 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 09:40:17 ID:g07rLagz
>52
価値観の問題なので、あなたはそれでいいのではないかと思いますが、
ちなみに、私は後生の一大事を死後大変なことがある
こととは考えたこともありませんでした。
しかしながら、自他分別をし続け、各自の欲望と欲望との対立が止むことがないならば、
争いとそれが生み出す苦しみも、止むことがないと思いました。
その繰り返しを、私たちはいつまで続けていくのでしょうか。
クローン技術ができたところで、我々の自己中心的欲求をもって、
それを用いれば、苦しみの果を生み出す新たな装置が発明された
という結果に終わることも大いにありうると言うことです。
私は、そのクローン技術とやらの恩恵を受けられそうですかね?
あと何年で不死の人間とやらはできるんでしょうかね。
有りもしないものに希望を抱き、その完成を信じながら死んでいくなど、
私にはできそうもありませんが。

55 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:07:23 ID:HOSJVhbo
>>54 ありもしないものとは極楽浄土の方ですよ。当然、阿弥陀仏も存在しません。それと、あなたも私も生きているうちに不死の恩恵を受けるのは無理です。だから、いいんじゃないですか、自分は極楽浄土に行くと思いながら、死んでいって。

56 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:17:27 ID:SBTGVERW
 
質問です
 
親鸞会スレではsageてばかりだったのに自分のスレ建った途端age進行するのは何でですか?
 

57 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 10:36:55 ID:g07rLagz
>55
死を恐怖するものと考え、極楽を仮設するのも、クローン技術を仮設するのも、
本質は同じと言うことですね。死を恐怖することがなくなれば、
生への執着を離れれば、極楽もクローン技術も、もはや無用の長物。
私たちにとって何ら必要ないものと化すと言うことです。
でも、私は浄土に参らせていただくそうです。何故なら、
私の願いではなく、戯論の寂滅した仏が願ったことだからです。
浄土が有るのか無いのか、そんなことわしゃしらん、仏に聞いてくれ、
と言うことです。

58 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 11:07:04 ID:JCzeJjgU
>>57

生への執着は親鸞さんでも捨てられなかったのでは? 仏を持ち出すことを
思考停止という。悟りを脳科学で解明できる日が楽しみです。目指すものが
明確になる。

59 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 12:22:15 ID:HOSJVhbo
神秘体験、宗教体験も脳科学で解明できるようになる。親鸞さんに起こった脳内現象ですね。宗教は文化として触れるだけのものになる。それも致仕方ないことでしょう。

60 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 14:42:00 ID:g07rLagz
>59
研究して成果を出せたらそれは素晴らしいことですね。頑張って研究して下さい。応援しています。


61 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 15:32:12 ID:HOSJVhbo
>>60 信心決定するのは恐ろしいほど簡単です。仕事以外の時間を、すべて親鸞の読み物に捧げればいい。そうすれば、脳内に親鸞しかいなくなる。

62 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 17:13:55 ID:g07rLagz
>61
仮説や推測なら、いくらだって立てられますから、
実際に実験してみるといいですね。
方法論的には易しいようですし。
脳内を親鸞の教説で満たしたら、信心決定ということが
成り立ちうることを確認すればよいでしょう。
ただし、脳内を親鸞の教説で満たすと言う条件自体、
何を基準とするのか?その基準・立脚点が間違いないと何故言えるか?
前提条件の正当性を一つ一つ、築きあげていくことだけでも、
非常に困難な作業と言わねばならないでしょう。
個人的には、様々な人々とかかわり合いながら、苦を乗り越え、
生き死んでいくそうした営みにとって、こうした箱庭の中の談義は
さして重要事のようには思えませんが。
もう一点、あなたが親鸞会で学んだことが本当に仏教なのかどうか、
再確認していただきたいと言うことです。少なくとも私の学んでいる仏教は
仮説なき実際の事を相手にしています。過去でも未来でもない
現今の私が対象なのです。
故に、三世十方を貫く真理だから信ずる、というような
仮説された概念に対しての信念を基準とするものではありません。
神経細胞が作り上げたものである私と言うのも、また概念規定に他ならない
と言うことです。概念規定の前に、私は現在しているのですから。
そう言った意味においては、あなたの思考法は、親鸞会のそれと
本質的には大差なく、未だ束縛されている感がありますが、
如何でしょうか?

63 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:28:27 ID:mGry1KBB
ここは妙好人と呼ばれる方々がたくさんいるスレですね

64 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:31:39 ID:HOSJVhbo
だって、聴聞を繰り返せということが脳内に極楽浄土を作るということでしょうが。(キリスト教徒が毎回の日曜日に聖書の話を教会に聞きに行くのと同じ。)

65 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 18:41:53 ID:HOSJVhbo
私の学んでいる仏教は仮説ではないとおっしゃるなら、極楽浄土や阿弥陀仏の存在をあなたが証明できなければならないでしょうが。親鸞さんは、あの時代だったからこそ、宗教として確立できたのであって、現代人には適応しないと私は考えます。

66 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 21:27:09 ID:DF9r209O
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

求道にかんして質問のある方おられますでしょうか?

67 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:07:08 ID:g07rLagz
>64
聴聞とは、名号のいわれを聞かせていただくこと、
広義で言えば、それを勧めて下さる方のお話を聞くことです。
つづめれば、五逆十悪の罪人も必ず救うと聞かせていただくことに極まります。
繰り返し聞き、洗脳されることでも、
頭の中に概念を構築していくことではありません。
「必ず救う」、ただこの事を今聞かせていただくだけです。
聴聞を繰り返しせよ、と言うのは、信心を獲るためではありません。
もし、聴聞を繰り返したことによって、信心決定・浄土往生が定まったとするならば、
自分の聴聞の功を認めることとなり、自力信と言わねばなりません。
必ず浄土へ参らせるに疑いがないという
如来の真実心を聞かせていただくのです。
こちらの意を運んで向かっていくのではなく、如来の真実心が私に間違いなく、
疑いなく向かっている事を聞かせていただくのです。
握った信心は必ず変わっていきます。私の心が絶えず変化し続けているからです。
如来の「必ずタスケル」の心だけが変わらないのです。
故に、聞くことが即ち信心だと言うのです。聞いてわかったが、信心ではないのです。
>65
私は現代人ですが、仏さまがいつも、お前が必要だ、大事だ、
故に必ずたすけるぞ、と仰って下さるのを聞きながら、
おかげさまで生活させていただいております。毎日、煩悩に焼かれる
生活ではありますが、決して捨てないと聞かせていただきます。
取るも取らぬも、みなさま方のおはからいでしょう。
私にとっては、時代錯誤ではなく、今ただ今です。

68 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:21:32 ID:Gyksn47R
以前ある団体で親鸞聖人の話を聞いていましたが、
その団体を離れ、現在は仏教とは無縁の生活を送っています。
今の所は、仏教を聞く気にはなりません。

ただ死後に地獄へ落ちてしまうのではないかという不安があります。
今後、仏教とは無縁の生活を送ろうとしている私は、
死んだら地獄に落ちてしまうのでしょうか?

69 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:32:18 ID:DF9r209O
>ただ死後に地獄へ落ちてしまうのではないかという不安があります。

これは「後生不安なこころ」とも「宿善のある人」ともいわれます。なんせ、凡夫が後生を気にかけているのですから。

>今後、仏教とは無縁の生活を送ろうとしている私は、
>死んだら地獄に落ちてしまうのでしょうか?

うーん、すみませんが、あなたの死後はわたしには全然断言できません。
わたしは自分の死後さえ、断言できない。
ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。そして、その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。
わたしの死後を断言している阿弥陀仏のおっしゃっていることを「聞いた」わけです。

また、68さんは「今の所は、仏教を聞く気にはなりません」とおっしゃってますが、この掲示板にこのような質問をなされていること自体、
一種の聴聞になっていると思います。宿善のあるなしで言えば「大アリ」の人です。
質疑応答のない、聞きっぱなしの法座に行くよりも、こちらの方がはるかに求道はすすんでいると思いますよ。

70 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 22:51:39 ID:DF9r209O
68さんののぞむ答えとはちがったかもしれませんが・・・、これを回答とさせていただきます。
68さんはほかに質問はございますでしょうか?

また、他の方で求道にかんする質問のある方、おられますでしょうか?

71 :神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 23:50:51 ID:Gyksn47R
先ほど質問した68です。

>うーん、すみませんが、あなたの死後はわたしには全然断言できません。

たとえ獲信しても、人の後世については判らないということですね。
親鸞聖人と同じ信心ならば、聖人も人の後世については判らなかった
ともとれますけれども、少し混乱しています。

>ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。
>そして、その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。
>わたしの死後を断言している阿弥陀仏のおっしゃっていることを「聞いた」わけです。

この時点で「後世への不安がなくなった」ととれますが、

>わたしは自分の死後さえ、断言できない。

の部分に、頭をかかえこんでしまいます。

でも、70さんのような方にお遭い出来て本当に良かったです。

72 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:12:05 ID:0Lvau7EM
>>67
>故に、聞くことが即ち信心だと言うのです。

 聞きに来なくなったら、信心はなくなったということでしょうか

73 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:25:31 ID:0Lvau7EM
>69
>これは「後生不安なこころ」とも「宿善のある人」ともいわれます。

 宿善のある人?。気に病んで不安になっているだけだと思いますけどね。
 不安を抱えて生きていく方は苦しいと思いますよ。

>ただ、わたし自身は必ず地獄におちる、と聞きました。

 そのようなことを、だれが言ったんですか?
 聞き違いではありませんか?

>その地獄におちるわたしを阿弥陀仏はかならず救う、と。

 そのようなことを、誰が言ったんですか?
 聞き違いではありませんか?

 地獄におちるのか、落ちないのか。貴方の自身の結論はどうなりましたか?。


74 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:36:17 ID:73mgSBO8
>72
何処に聞きに出かけるのですか?「今現在説法」の阿弥陀さまが、
十方にその声届かねば、仏に成らぬと誓われているのに。
今、ここで聞けばいいではないですか。
兆載永劫の修行も、五劫の思案も、全部、悪業煩悩作りと作る私のため。
全部背負っても後悔しないと誓った仏が
「我が身に代えてもお前を奈落の底にはおとさない」
と、ここにも響き渡る大説法をされておるのに、
いまさら何処に行くつもりですか?
何処にいようが、掴んで離さない仏を、何処か他の場所にいるように
思わなくてもいいのではないですか?今、このボロアパートが、
聴聞会場真っ盛りじゃないですか。無量寿無量光、光の届かないところはないのだから。
南無阿弥陀仏

75 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 00:54:58 ID:SjKnrXuz
>>わたしは自分の死後さえ、断言できない。
>の部分に、頭をかかえこんでしまいます。

ああ、うーん、そりゃそうですよね。頭かかえこみますよね。
ここはいわゆる二種深信の部分であり、まあいっけん矛盾して見えるところです。

でもね。68さんだって、自分の死後も、他人の死後も、どうなるか分からないでしょ?
そりゃわたしも一緒です。まったく一緒。死後なんてどうなってるか、分からん。

そして、自分や他人の死後が分からないのが凡夫、その凡夫の死後が分かるのが阿弥陀仏。
その阿弥陀仏が、「あなたは毎日地獄におちる罪を作っているよ、でもそういうあなたを必ず救うよ。そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ。」
という、阿弥陀仏の本願を、「聞く」わけです。
だから、安心する、うれしくなる、申し訳なくなる。

やっぱり、死後への不安をかかえる人には、ぜひこの「本願を聞く耳」をいただいてほしい、と強く思います。
すんごく楽になるし。


76 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 01:09:42 ID:SjKnrXuz
68さん、中途半端な回答になってしまったかもしれませんが・・・すみません。

眠くなってきたので、そろそろ寝ようと思います。
これ以降にご質問くださった方には、また、昼か夜にお答えさせていただこうと思います。

77 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 07:33:41 ID:+rM2G57T
>>67 すごいですね、あなたは仏様の声が聞こえるんですね。いくら理屈をつけても駄目ですよ。聴聞は洗脳の手法でしかないの。毎・日曜日に教会に通うことも同じ。

78 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 07:39:05 ID:+rM2G57T
>>68 地獄なんてありません。人間は死ねば、骨になるだけ。骨になれば、自分が誰であったのかさえも分からない。極楽浄土も地獄もないのだから、行きようがない。ただ、意識のない骨になるだけ。

79 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:21:44 ID:0Lvau7EM
>72
>何処に聞きに出かけるのですか?
    はて?どこかに聞きに行くという話ではなかったのでしょうか?

>「今現在説法」の阿弥陀さまが、十方にその声届かねば、仏に成らぬと誓われているのに。
    はて?。どこのお伽噺の話でしょうか?。

>今、ここで聞けばいいではないですか。
     今、ここ?。はて?。どこ?。見ても見えず。呼べど応えず、聞いても聞こえず。

>兆載永劫の修行も、五劫の思案も、全部、悪業煩悩作りと作る私のため。全部背負っても後悔
しないと誓った仏が

 どこのお伽噺話でしょうか?。お伽噺は子供に聞かせるもの。大人相手じゃ無理でしょう。

>「我が身に代えてもお前を奈落の底にはおとさない」と、

 はて?。どこのお伽噺でしょうか?
 桃太郎は、この世の鬼を退治しないではおくものかと、確か、大変固く誓ったと聞きましたが、
それがどうかしましたか?

80 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:23:03 ID:0Lvau7EM
>ここにも響き渡る大説法をされておるのに、
 ここにも響き渡る?。はてどこに響き渡っている?。
 ジェット機の騒音でも聞こえましたか?

>いまさら何処に行くつもりですか?
   それを私が聞いている。

>何処にいようが、掴んで離さない仏を、
 どこかの電柱に突き刺さっていた釘に襟首が引っ掛かって歩けなくなった?

>何処か他の場所にいるように思わなくてもいいのではないですか?
   夢でも見ているんじゃないでしょうか?。

>今、このボロアパートが、聴聞会場真っ盛りじゃないですか。

 どこぞのボロアパートに聞きにいらっしゃいとお誘いなさっているのでしょうか。
 「ここ」とは、どこのボロアパートの話ですか?

>無量寿無量光、光の届かないところはないのだから。南無阿弥陀仏

 はて?。夢でも見ているのではございませんか?
 お目を覚ましたらいかがでしょうか。

81 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:40:44 ID:0Lvau7EM
>>75
>二種深信の部分
 にしゅじんしん?。単なる勘違いではないのでしょうか?

>いっけん矛盾して見えるところ
 二見しても三見しても矛盾しているように見えますけど。気のせいでしょうか?。

>死後なんてどうなってるか、分からん。
  仏教を聞いて、貴方にはそれが分かったというお話をしているのではなかったのでしょうか。
  それとも、やっぱり皆目分からないということなのでしょうか

>その凡夫の死後が分かるのが阿弥陀仏。
  阿弥陀様とやらに聞いて、どのようにわかったのでしょうか?
  分かった結論はどうなりましたか。地獄に堕ちるのか。落ちないのか。

>阿弥陀仏が、「あなたは毎日地獄におちる罪を作っているよ、 〜 という

 はて?。どこのお伽噺話でしょうか?
 誰が、どこで、どのような罪をつくっていのでしょうか?。
 こういうのは、詐欺師、阿弥陀様の脅迫、言いがかりとでも言うのではないでしょうか。

 そう言えば、「悪いことすると桃太郎が懲らしめにくるよ」。確か、桃太郎もそんなことを言っていた
ような、いなかったような。

82 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 09:45:50 ID:0Lvau7EM
>そういうあなたを必ず救うよ。
    脅迫したりすかしたり、あの手この手で不安にしたり、安心させたり
    口先三寸。世の中に、口程便利な道具はない。
    あなたはどこのお伽噺をなさっているんですか?

>そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ。

 このうえは、念仏をとりて信じ奉らんとも、また捨てんとも、面々の御計らいなりと云々
 あなたの宗教では、どこぞから詐欺師のトリック電磁波でも飛んでくるのでしょうかね。

>という、阿弥陀仏の本願を、「聞く」わけです。
    聞いて何かが変わるのでしょうか?
    桃太郎が鬼退治するぞという本願話を聞いても、何も変わりませんでしたよ。

>安心する、うれしくなる、申し訳なくなる。
    はて?。躁病?

>ぜひこの「本願を聞く耳」をいただいてほしい、と強く思います。
  はて?本願を聞く耳と本願を聞かない耳とがあるのでしょうか?
  本願を聞く耳と本願を聞かない耳とは、何処が違うのでしょうか?

>すんごく楽になる
   気の迷いではありませんか?

83 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 09:51:50 ID:ZomblQV0
>>79-82
あーあ、とうとう来ちゃったよ。
もうこのスレ終わったな。

84 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 10:31:30 ID:5q9rvCDs
終了


85 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:11:43 ID:MACuNIMa
渡海の隔離スレはまだあんの?
潰れたんでアラシに戻ったのかな?

86 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:28:57 ID:afVDQdkf
 
あとは松屋で夜勤明けの池のザリガニくんが来ればパーフェクトだな
 

87 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 11:39:24 ID:73mgSBO8
>77
別段、なんたることもないです。聞其名号の説示の通りですから。
必ず浄土へ参らせる、という勅命を蒙るだけのことであります。
浄土があるのか地獄があるのか、何もなくなってしまうのか、
いくら議論を尽くしても、自分が死んでみなければ、
実際わからないから、意味がありません。
今、阿弥陀如来の本願に依ると、必ず参らせるとの誓いであった、
ということだけの話なのです。あとは取るも取らないも、各自の自由です。
どうと言うほどのことでもないですね。
洗脳と言えば、私たちは生まれてこのかた、常に洗脳されています。
父母の意向、先生の意向、様々な出来事、新聞、テレビ、雑誌、
書籍、ゲーム、洗脳されていない日など
なかったのかもしれないと言うことです。
あなたの死んだら骨になって、意識も何もなくなってしまう
というご意見は、洗脳の結果でないと果たして言えるでしょうか?
本当のところは、実際死なねばわからないわけですから。
私たちは、皆、完全に公平であり、超絶した観点からものを観察することは
できません。それぞれの経験によっての判断であり、
それも他の影響を受けて、刻一刻と変化し続けます。
洗脳されている私が判断基準になりうるのか?ということです。

88 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:43:27 ID:dTl6SLVZ
あーあ。信心談合、止まっちゃった。勉強になってたのに。

89 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:51:38 ID:+rM2G57T
>>87 その通りだと思います。でも、なぜ、今頃になって親鸞なんでしょうかなぁ? 浄土真宗の方が怠慢してたのか。。。

90 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 12:58:25 ID:+rM2G57T
科学が進歩して、不死が実現しても、宗教に走る人はなくなりません。アマゾンの原始人に、今更、東京で生活してみろといっても、それは無理な話です。

91 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 13:00:46 ID:+rM2G57T
あと、不死になれないなら、せめて宗教で救われようという考え方も分かる。不死になるには資格がいります。ノーベル賞受賞者とかね。凡人みんなが不死になったら、地球が壊れてしまうでしょ?

92 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 13:05:03 ID:+rM2G57T
親鸞の時代には月にはうさぎが餅をついているといっていました。だから、阿弥陀仏なんて言い出しても仕方がない。仏とは海王星の遥か向こうにいるのだといいますか?、あなた。(笑)

93 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:16:04 ID:+YZwREHF
親鸞会の人も紛れ込んでるな

94 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:28:12 ID:4qprz6hO
.>>90-92

「アマゾンの原始人に文明生活は無理」とか「優れた人物だけが不死の資格がある」とか、

釣りにしてもあまり聞いてていい気持ちはしません。





95 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:53:42 ID:+rM2G57T
>>94 私も最初はそうでした。しかし、よくよく考えてみると犯罪は不幸な人が起こすのです。しあわせな人は罪を犯す必要がない。不死の資格を得る人はしあわせな人だけに限ります。



96 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 14:58:42 ID:+rM2G57T
お釈迦様は極楽浄土へ行く資格を得て、その後も教えを説き続けた。もし、人生の目的が浄土行きの切符を獲得することのみならば、釈迦のその後の教えは必要ないことになる。親鸞仏教は未完成ですね。

97 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:13:54 ID:0Lvau7EM
>>87
>必ず浄土へ参らせる、という勅命を蒙るだけのことであります。

 お伽噺を蒙るだけなら、正直に、私はお伽噺を蒙るだけと言えばいいんじゃないですか?もっ
とも、「蒙る」という言葉は意味がよく分からん。妄信しているだけですよと言うことなんでし
ょう。多分。

>自分が死んでみなければ、実際わからないから、意味がありません。

 結局そうなんでしょう。それなら最初からそう言えばいいんじゃないですか?
 私は何も分かりません。それだけ言えば、他の人は期待を持つことがない。死ななきゃわから
んことを死んでもないのに、あたかも分かっているかのように、無邪気な人に期待を持たせるの
は、罪なことではござんせんか?。

>今、阿弥陀如来の本願に依ると、必ず参らせるとの誓いであった、ということだけの話なのです。

 習い覚えたお伽噺のあらすじを話したくなったんでしょうか。
 桃太郎さんは、おじいさんとおばあさんとに対し、必ず鬼を退治してくるという誓いであった
と聞いております。大人に聞かせる話じゃないでしょう。

98 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:16:21 ID:0Lvau7EM
>あとは取るも取らないも、各自の自由です。

 「そのためにあなたに、善が詰まった念仏をとなえさせてみせるよ」という話は、立ち消えで
すか?。みせると言った意気込みが、張り子の虎の「から元気」だったでしょう。
 もともと根も葉もないお伽噺は、最初から「根も葉もないお伽噺です」と断ってから話をした
らどうですか?。そうすれば大人は最初から席を外すし、子供会には喜んで貰えることでしょう。

>洗脳と言えば、私たちは生まれてこのかた、常に洗脳されています。

 根も葉もない馬鹿話、お伽噺に洗脳され、自分はマインドコントロールされていると思ってい
るなら、それを最初に言いなさいな。自分の心理状態、精神状態が異常であるというなら、聞こ
うとする相手にとってはとても大事なことだ。
 お伽噺で洗脳され、マインドコントロールされている人間なんですよと、最初に説明すれば、
相手は最初から貴方のことを用心してくれるでしょう

>本当のところは、実際死なねばわからないわけですから。

 自分には何も分からないというなら、最初からそう言ったらどうですか?
そうすれば、誰も貴方に期待を寄せることはない。

>洗脳の結果でないと果たして言えるでしょうか?

  洗脳の結果ではない話があるなら、それを話したらどうですか。
  死ななければ自分には何も分からないというなら、自分はまだ生きていますから自分には何
も分かりませんと言えば済む。人はその後の話を聞かんだろう。
 要するに、自分には何も分かりませんと、一言言えばそれで済む。高森顕徹さんの馬鹿話を一
日も早く忘れることが、洗脳を解く第一歩ではありませんか。

99 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/11(木) 19:21:41 ID:0Lvau7EM
>96
>お釈迦様は極楽浄土へ行く資格を得て、その後も教えを説き続けた。

 どこかのお寺付属幼稚園でおそわった「絵本おしゃかさま」か何か
の中の一こまですか?。

 幼稚園で教わった「おしゃかさまのおはなし」は卒業し、より客観
的な大人の釈迦像を学ぶといいでしょう。 

100 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 20:44:26 ID:+OzhLvQH
精神病の渡海難は放置してください。相手にする価値も無い人間です
ので放置が一番です。現実社会で渡海難が誰にも相手にされないように
無視してください。

▲▼▲▼渡海難とは ▲▼▲▼
2ちゃん以外では誰にも相手にされない人間。
内面から滲み出すキモイ精神のお陰で腐臭が漂い、周りから忌み嫌われ
ているのだが社会が自分のことを理解してくれないと誤解し、浄土真宗の
坊主と思われる人を叩くことでようやく自我を保っているような屑。そのような
卑屈な根性が誰にも相手にされなくなる原因と未だ理解できないようだ。。。。
長い間 社会と隔絶された生活をしているため脳内でいろいろな人と語り
合う事ができる。(自作自演が得意)


※以下の文を10回暗誦して反省してください。

荒らし・煽り・叩きに反応する事は荒らしへの荷担にしかなりません。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
荒らし・煽り・叩きを無視できないあなたも荒らしです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

101 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 21:16:44 ID:enb8ynHn
渡海アンチの方には申し訳ないですが>>79から現時点までに限っては
渡海の意見の方が納得いきました
自分は洗脳されていると自覚があるのなら、自分の信仰心を語る時
それを予め相手に伝え用心させるのが責任ある態度だと思いました

> 要するに、自分には何も分かりませんと、一言言えばそれで済む。
これもよく的を射ていると思います

でも、それじゃ物足りないからイヤなんだろな
ひとって・・・


そんな感じで皆さんのお話を微笑ましく読ませてもらっています


102 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 21:56:33 ID:SjKnrXuz
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?


103 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:14:47 ID:k02Pd0mA
>>102
妙好人初心者です
求道の定義すらわかりません
前スレを教えてください

104 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:21:09 ID:SjKnrXuz
前スレは【コピー本尊】本尊を貸します 親鸞会【レンタル】

です。

105 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:24:23 ID:J8MNs1T7
ここは親鸞会のスレではありません。
親鸞会のスレを前スレにするのは迷惑です。

106 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:42:59 ID:SjKnrXuz
あ、そうか・・・。すみません。
まあ、悩みやご質問があれば、初歩的なものもOKなので、新たにここで質問していただく、ということで・・・。
既出の質問でもいいですし。

107 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:43:54 ID:+rM2G57T
>>105 親鸞会との違いは?

108 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:46:57 ID:+rM2G57T
日蓮は真言亡国、念仏地獄といってるんだけど、どう思います? また、涅槃経で説かれている常楽我浄と極楽浄土の違いについて教えてください。

109 :神も仏も名無しさん:2007/10/11(木) 22:52:01 ID:SjKnrXuz
どなたかご自分の求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?


110 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 01:40:37 ID:Exb7xU6c
うーん、眠い・・・、すみませんが、もう寝ます。
おやすみなさい。

111 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 09:37:06 ID:j3mP2k5/
「信心について語りあう」ことに関しては、実質機能停止状態。
しばらくはだめかもね。
人の出入りが少なくなった分、同時に荒らしへの抗体となってくれていた
住人もいなくなってしまったのも一因か。
やはり2chで信心決定なんて無理だったのかな。


112 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 10:23:59 ID:lzewFJoZ
>111
 荒らしのこないこちらに移動して下さい。 ↓
                    http://tamahi.parfe.jp/


113 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 12:59:49 ID:6xvrPCwk
おつかれさまです。
>101
一連の書き込みをした者の一人です。
洗脳されている人の自覚とはどのようなものなのでしょう。
その自覚自体、また洗脳された自覚だとしたら、泥を洗うのに泥水をもって
洗うのと同じことで、汚れが無くなることはないと言うことです。
一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲する、
これ必ず不可なり。
親鸞聖人は何を真実だと言われているのでしょうか?
妙好人と呼ばれた方々の言動の根底には何があったのでしょうか?


114 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 13:23:05 ID:pweg8hd0
>>113

>>101は渡海難の自演ですよ。

115 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 14:54:47 ID:u/gv6hei
>>113
お返事ありがとうございます
私も意見交換をしたいのですが、他の方の書込みと区別できるように
名前の欄に固定のハンドルネームを入れていただけませんか?
ご了解いただければ、お話をさせてもらいたいです


>>114
あなたにとっては残念かもしれませんが、私は渡海とは違いますw


116 :101:2007/10/12(金) 14:56:16 ID:u/gv6hei
>>115
すみません
私もこれ以降は固定「101」で書き込みます
ご検討くださいませ
よろしくお願いします


117 :774:2007/10/12(金) 18:58:25 ID:6xvrPCwk
>116
了解いたしました。774と名乗りますので、今後ともよろしくお願いします。


118 :774:2007/10/12(金) 19:10:10 ID:6xvrPCwk
>116
了解いたしました。774と名乗りますので、今後ともよろしくお願いします。


119 ::2007/10/12(金) 20:12:22 ID:NF09HID6
なんか一気に伸びてますね。まだ読んでないですけど、ご報告申し上げます。

無事、獲信者の方とお会いすることが出来ました。いくつか書籍も求めてきました。
短い時間でしたが、なんだか嬉しいような懐かしいような。正直、感激してます。

今は、ハッキリと、一味の世界を知りたいばかりですね。

120 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 20:20:13 ID:fjlXn0fz
可哀相に さんざ親鸞会に金搾られたあげく独り親鸞会?
極楽? 阿弥陀? そんなもんあるわけないだろうが!


121 :101:2007/10/12(金) 22:06:25 ID:u/gv6hei
>>117
774さんハンドルネームの件、快く受け入れていただき
ありがとうございます
113の件について話を始めたいのですが、774さんのお考えというか
立場を知りたいので、過去の書込み番号を教えて頂けませんか?
範囲は、このスレと>>104のスレ内でお願いしたいのですが
よろしいですか?
不都合があれば、教えて下さらなくても結構ですが
その場合、774さんの過去の書込みと重複することを改めて
書き込んで頂くことになるかもしれません
ちなみに、私は101が初書き込みです


122 :神も仏も名無しさん:2007/10/12(金) 22:46:41 ID:Exb7xU6c
こんばんは、ここ数日回答させてもらっているものです。

>無事、獲信者の方とお会いすることが出来ました。いくつか書籍も求めてきました。
>短い時間でしたが、なんだか嬉しいような懐かしいような。正直、感激してます。
>今は、ハッキリと、一味の世界を知りたいばかりですね。

ああ、いい感じですね。
ぜひ信頼できる獲信者のもと、聴聞していかれると早いと思います。
(ちなみにわたしは、なぜか偉そうな態度の獲信者と相性が悪かったです。
 相手が偉そうにしてると、「わたしもああいうスゴイ人にならないといけないんだ」と力むからかもしれません。
 逆に、「あんたは未信者らしいけど、おれもあんたと同じ腹底持ってるんだよ」といってくれる獲信者につくと、力む必要がなかったです)


はい、求道にかんして悩みのある方おられますでしょうか?

123 :774:2007/10/12(金) 23:43:29 ID:6xvrPCwk
>121
当スレでは、>6、>27、>29、>33、>36、>43、>44、>47、>57、
>59、>61、>67、>74、>87、>113が、概ね見たところ、私の書き込みです。
前のスレは、抽出するのが大変ですので、省かせていただいても、
よろしいでしょうか?


124 :101:2007/10/13(土) 00:00:55 ID:xZrXpdcx
>>123
774さん、お手数かけました
ありがとうございます
定期的に書込まれている方なんですね

ひとまず該当レスを再読します


125 :774:2007/10/13(土) 00:09:59 ID:WJ2E8X5y
>122
求道に関してではないですが、一つ質問があります。
獲信者とおっしゃいますが、「あの人は獲信者である」と、
判断する基準は何ですか?渡海さんという方がおっしゃる通り、
口先三寸で、なんとでも言うことができる私たちと聞きますし、
判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。
私たちの意業によって認識された獲信者ならば、
不確かなものと言わねばなりません。
実際、私は加茂仰順という和上のご縁によって今、
こうしてご本願を聞かせていただいておりますが、
加茂和上が、獲信者なのかどうか、私には判別できませんし、
判別できる立場にさえないと思っております。
ただ、今の私を真宗に導いて下さった方、
すなわち、一心一向に弥陀に帰命たてまつるべしと勧めて
下さった方でありますから、私にとっては善知識様であることは無論です。
しかしながら、獲信者と規定することはできません。
そもそも、獲信者なる言葉を親鸞聖人はじめ、列祖の方々が
用いられておられるのでしょうか?少し賦に落ちない気がしまして、
質問させていただきました。

126 :101:2007/10/13(土) 00:30:06 ID:xZrXpdcx
774さん
該当レスを一通り再読しました
私が、774さんの書込みに対する渡海の反論に賛同した>>101
774さんが>>113で私にレスを下さったという経緯が分かりました
私が割って入っていちゃもんつけてしまったんですね
すみません

真宗の信心者という立場では、私は774さんとそれほど食い違いがない
のではないかと以前から思っていました
また、加茂和上の評判を聞き、お話も聴きにお寺へ伺おうと思っていた
時期もあったのであなたとお話したい衝動も胸に抱えていました

また>>125の書込みも同様に疑問を抱いている立場です
お二人の話合いで私にも理解できる結論を導き出して頂きたい
と期待しています


127 :774:2007/10/13(土) 00:30:57 ID:WJ2E8X5y
>124
ご意見ご指導よろしくお願いいたします。
仏教を学んでいて楽しいことの一つは、
悉く既成概念を破壊されていくことでした。
理解していないのに理解したふりをすること、また名利心や、高慢心が
焙り出されても(私の煩悩では嫌だけれども)、
それが新たな欠陥の発見(即ち、また学べるという喜び)に
繋がってくる。自分が受けいれられる喜び
(煩悩の所作として当たり前な喜び)だけでなく、
全否定されることによって、未だ不完全たる我が身を知り、
だからこそ学んで行こうという喜び。
煩悩というのは、観察すると非常に面白いものです。


128 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/13(土) 00:49:02 ID:RYIWPQM3
>>125
 実にいい質問と思います。
 問いは101さんに向かっているようなので、僕の考えは保留します。将来、「質問箱」でコ
メントさせて貰うかも知れません。101さんが、このスレでコメントを寄せればそれに横やり
を入れるかも知れません。
 これについて、当方の胸中には言うべきことがあると考えます。

 一つ誤解だけは解いておきたい。
 「口先三寸で、なんとでも言うことができる」と> 82で書いたのは、元レスの記載が、先人の
書き残してくれているものと明らかに矛盾しており、しかも、引用元の記載を独自の独創的理
論として仮定しても、明らかに不合理であると渡海難は確信したという意味で、申し上げました。

 先人の言葉と一致しているかしていないかは別にして、私は、主張の内容に合理性があること
について「口先三寸で、なんとでも言うことができる」と申し上げるつもりは全くありません。
 主張の内容に合理性があることについて、もしそのように言っていたら、それは渡海難が誤り
です。

129 :101:2007/10/13(土) 00:49:06 ID:xZrXpdcx
>>127
なかなか本題(洗脳うんぬんの件)に入らなくて申し訳ありませんが・・・

> ご意見ご指導よろしくお願いいたします。
こちらこそです

> 仏教を学んでいて楽しいことの一つは、
> 悉く既成概念を破壊されていくことでした。
> 理解していないのに理解したふりをすること、また名利心や、高慢心が
> 焙り出されても(私の煩悩では嫌だけれども)、
> それが新たな欠陥の発見(即ち、また学べるという喜び)に
> 繋がってくる。自分が受けいれられる喜び
> (煩悩の所作として当たり前な喜び)だけでなく、
> 全否定されることによって、未だ不完全たる我が身を知り、
> だからこそ学んで行こうという喜び。
> 煩悩というのは、観察すると非常に面白いものです。
私も既成概念の破壊という基本作業は、同じ姿勢を持っていると思います
ただ、私の場合、極端な物言いですが
喜びなどという言葉で表せる感情はありません
面白みなども感じません
あえて表現すると、私の場合「癖」ではないかと思います
空気を吸わないと死んでしまうように、そういう思考でないとイヤというか

直感的に言うと、全認識への無批判な自己に嫌悪感のようなものを
感じているのではないかと推測しています
そして、全認識へ無批判でないように努めたいのに、その作業そのものも
批判対象となってしまうという無限否定・・・w

対話を通して774さんのような楽める生き方も学べたらいいなと
ふと思いました


130 :101:2007/10/13(土) 01:00:15 ID:xZrXpdcx
>>128
渡海さん、はじめまして
書込みは随分前から散見させてもらっています
ところで>>125は私(101)へではなくID:Exb7xU6cへの質問です
ID:Exb7xU6cの方も中心的スレ住人なのでコテハンで書き込まれれば
このような誤解は避けられるのに・・・
まぁ、その辺は各自のお考えがあるのでしょうから
とりあえず、そういうことです


131 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 01:45:39 ID:SLT6AmEC
>獲信者とおっしゃいますが、「あの人は獲信者である」と、判断する基準は何ですか?

>判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。
私たちの意業によって認識された獲信者ならば、 不確かなものと言わねばなりません。

これは、単なる「獲信者という言葉の定義」以上のことをおっしゃってますね。
でも、意業のあやふやさまで持ち出すならば、獲信者の判断どころか、自分自身の認識すべてが不確かなものなのですが・・・。
125さんのつきつめた視点から言うならば、わたしも125さんも、培養液に漬けられ電気信号を送られているだけの脳みそかもしれない、ということです。
つまり、わたしは125さんにレスしようとパソコンに向かっている、と自分で思っているけれど、それが誤認かもしれないわけですし。
そして、誤認かどうかの確認は、究極的にはできません。それぐらい意業はあやふや。

そのあやふやな判断をたよりに、わたしも125さんも日常を生きているわけですし。
そのあやふやな判断をたよりに、わたしも125さんも善知識にたどりついたわけです。
で、このあやふやな判断を「全くあやふやなものだ!」とはっきり聞いた人、という面が獲信者にはあります(あくまで一面ですが)。

132 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 01:46:36 ID:SLT6AmEC
ついでに、あやふやな範囲ですが、わたしの獲信者の定義を書いておきます。
・他力摂生の旨趣を受得した人
・他力念仏に帰入した人
・私は、これっぽっちも、仏法を理解していない。
 理解できない私だからこそ、仏さまに助けられるのがうれしい他ない」という人
・我となえ、我聞くなれど、 南無阿弥陀 つれてゆくぞの親のよび声」を体得してる人

うーん、わざわざ125さんの言葉を引用したのは、これなら言葉の定義がしっかり伝わるだろうと思ったからです。
聞法した場所が違うからか、仏教の言葉の使い方やスタンスも若干ちがう感じもしましたので。
誤解してほしくないのですが、もちろん皮肉ではありません。

うーん、ほんとはこういう、あまり求道者のヒントにならないようなややこしい書き込みはしたくないのですが・・・。
125さんの一連の書き込みを見て、わざわざこんな質問を横からする人には思えなかったし・・・。
125さんは何にこだわって質問なされたのか、よく分かりませんが、
ややこしい話はややこしい割りに読んでくれてる人が疲れる人が多いので(わたし含め)、興味もありません・・・。

生意気なレスだと思われたかもしれませんが、これが精一杯の回答です・・・すみません。

133 :101:2007/10/13(土) 02:35:22 ID:xZrXpdcx
774さん
>>113についてです

> 洗脳されている人の自覚とはどのようなものなのでしょう。
私は、自覚という言葉で表現された錯覚、妄想だと思っています
そう思う理由は、774さんがこの後におっしゃっている
> その自覚自体、また洗脳された自覚だとしたら、
というお言葉と同じ考えに基きます
つまり、洗脳されていない(他に影響を受けていない)自立した自覚
などありえないだろうなという立場です

>>101で私が
> 自分は洗脳されていると自覚があるのなら、自分の信仰心を語る時
> それを予め相手に伝え用心させるのが責任ある態度だと思いました
と言ったのは、洗脳されていない自立した自覚など誰も持ちえない
だから、予め「自分は洗脳されている」と伝えることもできない
伝えることができないから、相手に用心を促すことも出来ない
でも、私の場合、無批判で積極的に受け入れたこと、今も種々の情報を
無批判に受け入れざるを得ない自分を悔いる気持ちがあり、そこを
なんとかできんものかという問題提起でした

これで私が表現したかったことがご理解いただけるかどうか・・・



134 :101:2007/10/13(土) 02:36:35 ID:xZrXpdcx
私は、どんな考えも妄想だと思っています
言うまでもないですが、この私の思いも妄想だと思っています
これ言っちゃうと、この対話そのものを否定することになりますがw

私の推測では「各自が種々の縁起に従い、否応無く別々の考えを持ち
それを確かなものだと思い込んで生きているだけなんだろな」です

> 泥を洗うのに泥水をもって
> 洗うのと同じことで、汚れが無くなることはないと言うことです。
ないと思います
というか、ここでおっしゃる「汚れ」とは何でしょうか?
また、なくす必要のあるものなんでしょうか?
そして、それはなくせるものなのでしょうか?
「汚れ」の定義が分からなかったので判断できませんでした

> 一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、
> 穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
> 虚仮雑毒の善をもって無量光明土に生ぜんと欲する、
> これ必ず不可なり。
> 親鸞聖人は何を真実だと言われているのでしょうか?
親鸞聖人の理解された阿弥陀仏の本願という言葉で表現された何か
だと思います

> 妙好人と呼ばれた方々の言動の根底には何があったのでしょうか?
妙好人と呼ばれた方々の理解された阿弥陀仏の本願という言葉で表現
された何かだと思います

親鸞聖人や妙好人と呼ばれた方々が、どのように阿弥陀仏の本願を
理解されていたのかは私には分からないというのが私の考えです

それでは今日は失礼します

135 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 06:12:43 ID:gug0NlsN
>>122さん いつもレスありがとうございます。
 私がお会いした獲信者の方は全然偉そうな方ではなく、優しく素敵な方という印象を受けました。
 本当にちょっと立ち話させてもらったような感じですが、信心の話題については、誤解を招くような表現があればすぐに厳しくご指摘されました。
 求道に関して自分が抱いていた固定観念や想像をいい意味で裏切られました。
 今までは獲信といっても非常に抽象的な話で、具体的な想像をする手がかりも少なかったのですが、
 獲信者が普通にそばにいるという環境はとても心強く、そして励まされるものだと知りました。
 こういった恵まれた環境があるなどということは今まで想像もしてこなかったことです。
 10年近くボンヤリとした不安を抱いたまま足踏みしていた自分がまたこうして一歩進もうとしていることも>>122さんにここで会えたご縁のおかげです。
 ありがとうございます。新たな出発、再チャレンジです。

136 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/13(土) 08:46:44 ID:RYIWPQM3
>130
 どこのどなたか存じ上げませんが、はじめまして。
 最近、ある方に八つ当たり的な大変失礼なメールを送ってしまった
ことがあります。もしかしたらメール送り先のその相手の方かな、などと
勝手な想像が頭をかすめました。おそらく別の方でしょう。
 2ちゃんねるは匿名が原則ですから、詮索はしません。

> ところで>>125は私(101)へではなくID:Exb7xU6cへの質問です

 そうでしたね。質問先はID:Exb7xU6に向かっているようですね。失礼しました。

137 :101:2007/10/13(土) 12:23:35 ID:xZrXpdcx
>>136
渡海さんレスありがとうございます
ご想像されている方と私は別人です
ある方を連想されたようなので、おそらくその方と私の意見が似ている
と感じられたのでしょうね
私の場合、特定の誰かに教えられて得た結論ではないのですが
ありふれたものなんでしょう

私は気に入ったスレを気が向いた時にROMっていた程度の人です
ですから、今まで渡海さんともお話したことありません
お話したいと思ったこともありましたが、教学面、論証面において
対等に話せるほど私には力量がないので差し控えていました
今も渡海さんに対しては同じ思いです
アクセスログからプロバイダ経由で住所を割り出すとかしない限り
詮索をなさっても特定できないですよ
まぁ、個人特定をする為に詮索されるのはイヤですから
詮索しないと仰ってくださることをご好意として受取らせてもらいます


138 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 12:46:12 ID:76Z3BDPc
                 渡海           「!/7
                  ↓           /ふ(⌒r_-_、_
                / ̄ ̄ ̄ ̄\    .l'、そrィ(_,,},}ニ)
             (  人____)    l ` ''ー<´..... __゙!
             |ミ/  ー◎-◎-)     ゝ.,,______ |
            ,r (6     (_ _) )   |ミ/  ー◎-◎-)
          ,/ヾ<|/ ∴ ノ  3 ノ   (6     (_ _) )←101
       ,.、‐'":ヽ::::\ __  __ノ      |/ ∴ ノ  3 ノ
      /::::::::::::::::ヽ::::::ヽ `/)乙二ス、   ,rニ ̄`ヽ   __ノ
     /:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::;/ ーンノハヾ,!} /- ... `ヽ、 ,! ! ヽ
   /::::::::::::::::::::::::::::::/^i´    /(_, イヽ'    :..  \,!  : ',
.   i:::::::::::::::::::(⌒/:::::::::::l,r‐ァ''";!/:i,  |:::::::゙!      :..  \:  ',
    !:::::::::::::;:、-'":::::::::::::::::::|::/::::;:':{;::::i, |:::::::::} :. i    :.. ヽ :. ',
   }::::::;:::'::::::::::::::::::::::::::::::::|'::::;:':__:i;::::::i, l;::::::::|  ヽ _,,..、、-‐ 'i ゝ,
   |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|:;:':::|ll|::l;:::::ヽ.',:::::;!   ゙i      ノ .: )
    ,!:::::::::(⌒)::::::::::::::::::::::::::|::::::|ll|,r;|:::::::::'J:/  ``ヽ、  __,,. r=ニ=ュ __
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    |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|,./'ii'彡|::::::::::::゙!   └- 、.,,__`''''ー:--:‐''''´ _,. -┘
   |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|"'"´';:::|:::::::::::::|ヽ.     |::::::::_`::''''┬t‐‐'_"::::|
   |:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::|   ;'::|::::::::::::::! \  |::::{´ `i;::::l:::l::i´ `i::|

139 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 22:08:54 ID:SLT6AmEC
>私がお会いした獲信者の方は全然偉そうな方ではなく、優しく素敵な方という印象を受けました。
 本当にちょっと立ち話させてもらったような感じですが、信心の話題については、誤解を招くような表現があればすぐに厳しくご指摘されました。
 求道に関して自分が抱いていた固定観念や想像をいい意味で裏切られました。

これはもう・・・これを聞いてわたしもうれしいです。

>10年近くボンヤリとした不安を抱いたまま足踏みしていた自分がまたこうして一歩進もうとしていることも>>122さんにここで会えたご縁のおかげです。
 ありがとうございます。新たな出発、再チャレンジです。

135さんのような真摯な求道者の姿から、阿弥陀仏の大願業力を思い知らされるばっかりです。
南無阿弥陀仏

140 :神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 22:10:01 ID:SLT6AmEC
どなたかご自分の求道に関して悩みなどある方おられますでしょうか?


141 :7:2007/10/13(土) 23:48:22 ID:gug0NlsN
>>139
レス有難うございます。真摯な姿とは程遠い私ですから、恥ずかしいばかりです。
 あれから貪るように書籍を読み始めてみました。思わず泣けてきました。
それから「後生の一大事を心にかけて」聴聞するがごとくに朗読しつつ、読んでみましたが・・・
 どうにも後生とも一大事とも驚かぬ心というか、微動だにしない心というか、「今、いざ後生と踏み出したらどうか」と
どれだけ問い詰めても全くもって無反応・無感動な心が感じられてきました。この感覚は久しぶりです。
ああ、これは、今日獲信するぞ、今聞かせていただくぞという求道姿勢だった頃に知った感覚かも知れません。
あの頃はそれと気付かず、具体的に把握できなかったのですが、今それが何か分かりやすく説かれていて、
遭難者がやっと具体的な地図に出会えた時のような喜びを味わっています。
はっきりと現在地がわかるところまでまずは進みたいと思います。

142 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 00:04:48 ID:FARuMDDJ
>はっきりと現在地がわかるところまでまずは進みたいと思います。

ぜひぜひ。また分からなくなったら、聞いてください。
「分からない自分、聞けない自分」に出会っていく、という、なんとも矛盾した求道を味わうことになりますが、
その先には自分よりはるかに大きな阿弥陀仏に抱かれている自分、を発見する瞬間があります。
そしてその、7さんが出会われた獲信者など、信頼できる人にアドバイスを直接うけるのがベストです。
というのも、獲信者の特異な喜び・懺悔ばかりを目にして、余計な頑張りをしてしまい遠回りする求道者がほとんどです。
「ああ、獲信者もまったくわたしと同じところがあるんだ」という点をしっかり押さえて、
そのうえで彼らがやっていること(自分の思いを横に置いて、本願を聞くこと)をマスターするのが早道です。

いや、しかし・・・うれしいです・・・。南無阿弥陀仏

143 :774:2007/10/14(日) 01:05:15 ID:axp6AGKE
>131-132
お返事ありがとうございます。遅くなりすみません。
私が、特定の個人を指して「誰々は獲信者である」と
するような表現に疑問を投げ掛けたのは、
凡夫が「獲信者」という太鼓判を押す失があるように見えたからです。
思えば、『仏敵』という求道記に出てくる念仏道場の人々も、
その傾向がありました。他人の体験を捕えて、「あなたはまだ獲信していない」、
あるいは、「あなたは真の信心を獲得しましたね、
今日から私たち(獲信者)の仲間ですよ。」
等、本質的に誰が誰を分別しているのか、一つ反省が必要だと、
私自身も『仏敵』を読んで思ったのでした。
高森顕徹氏も華光会在籍時に太鼓判を押された方の一人でしょう。
太鼓判を押されれば、「自分は獲信者である」という、
他力回向の一心の他に「要らない自覚」(ふたごころ)
が芽生えるきっかけとなり、高森氏のような方を生んでしまう要因とも
なったのではないかと考えた次第であります。
また、獲信者集団であると言う自覚に基づく
優越感(煩悩の所作)に対し、無批判になるということ、
優位な集団としてのセクト化という傾向もあげられます。
これは『仏敵』に出てくる念仏道場もそうでありました。
無碍光をセクト化すること自体ナンセンスですし、
大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう
過失が生じる恐れもあります。
また、親鸞聖人は個人を指して獲信者と規定するような表現を
されておりますでしょうか。
同行・同朋という言葉があるのですから、
そちらを用いた方がよろしいのではないかという事も
ご一考賜りたく思うのですが、いかがでしょうか?


144 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:10:28 ID:FARuMDDJ
>143
131、132です。レスしようと思ったんですが・・・
あの・・・、おっしゃっていることのニュアンスが前回といきなり変わっているんですが・・・。

前回は
>判断の当体である意業は、刹那消滅を繰り返し、目まぐるしく変わっていく。 >私たちの意業によって認識された獲信者ならば、 >不確かなものと言わねばなりません。

つまり「意業による認識ならば不確か」だから、「だれだれは獲信者」という言葉は使うべきでない。

今回は
>高森氏のような方を生んでしまう要因ともなったのではないかと考えた次第であります。
>優位な集団としてのセクト化という傾向もあげられます。
>大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう
過失が生じる恐れもあります

つまり
「高森氏のような方を生む要因となる」「セクト化という傾向」「大信海を煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」
があるから、「だれだれは獲信者」という言葉は使うべきではない。

うーん・・・もしかして違う方の書き込みなのでしょうか・・・?
いちおうレスしてみます。
>「高森氏のような方を生む要因となる」>「セクト化という傾向」>「大信海を煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」

これらは全て推測ですね。意業というあやふやなものの中の、さらに確実性の低い推論です。
わたしもあやふやなこの推論というものでお答えしようと思います。
>「高森氏のような方を生む要因となる」
これは、獲信者の太鼓判が要因というより、本人の資質が大きいと思われます。
なぜなら、華光会から第2・第3の高森氏が生まれていないから。
ちなみにS会では、「獲信したら、会のヒエラルキーが崩れるので、除名される」という現象が起きているそうです。
この現象は、求道に苦しんでいた求道者が獲信体験を通過して、晴れ晴れとした顔をしているのを獲信者が見て
「ああ、もしかしてあなたも阿弥陀仏にお会いされたのですね」という単純なうれしさとは、まったく異質のものです。

145 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:11:14 ID:FARuMDDJ
>優位な集団としてのセクト化という傾向
これは、「おれたちは特別だ、正しい。世間はダメなやつらばかりだ」という感じの集団でしょうか?
そりゃ、信後の聴聞を怠れば、このようになるかもしれませんが・・・。
ちなみにこの念仏道場(奈良の野口道場)では、今はもう信心の沙汰をする集まりはなくなっています(建物はまだあったはず)。
また、伊藤康善氏も故人となっておられます。なのでセクト化してたかどうか、分かりません。
しかし、わたしは獲信後に、華光会には数回行ったことがあります。
(獲信前にいかなかったのは、土蔵秘事だと思っていたわけではなく、たんに遠かったから。)
しっかり信後の聴聞の指導が行き届いていました。はい。
かんちがいした獲信者(獲信したからオレは未信者よりえらいんだ、という態度のひと)には、
「自分にはいばれるようなものは何もないことを聞いたのでしょう。聞く耳をいただいたのならば、
 信心を自分のものにしないで阿弥陀仏の本願を聞いてください」というアドバイスがありました。
信後の聴聞をきっちりやれば「すべて他力の働きなのに、それさえも自分の力だと思い込んでいる自分」
を懺悔させられるので、セクト化とは反対の方向に向かいます。
信後の聴聞を怠っている人は、獲信者というより、「過去に獲信らしき体験があった自称獲信者」です。
また伊藤氏は「何か感動をともなう体験をした求道者に『よかったね』と言ってはいけない。変なものをつかませてしまう恐れがある」
と指導していたそうです。
だからなんだって話ですが・・・。

146 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 09:12:00 ID:FARuMDDJ
>「大信海を優越感という煩悩の道具としてしまう過失が生じる恐れ」

これは・・・この過失は凡夫には常に生じていますよ。
凡夫は仏法をおもちゃにするもの。仏法をもてあそぶもの。
その凡夫を救うという阿弥陀仏の本願を聞くからうれしい。
これも、信後の聴聞をしっかりさせていただくこと、だけですね。

>また、親鸞聖人は個人を指して獲信者と規定するような表現を
されておりますでしょうか。 同行・同朋という言葉があるのですから

こりゃ、分からないでしょう。文書で残ってないだけで。
蓮如上人は晩年に「信心のある者以外には会いたくない」と言っていたらしいので、してたみたいですね。

以上のあやふやな推論を回答とさせていただきます。
できればそろそろ終わりたいです、ちょっとしんどくなってきましたので・・・。

147 :7:2007/10/14(日) 09:48:47 ID:EXuhuutW
>>144-146 横レスごめんなさい。朝から妙好人さまとお見受けする方の書き込みが目に触れて、思わずテンションが上がりました。
なるほどなるほどと、合点させていただきました。

 ところで話の流れに沿わない内容で申し訳ありませんが、質問させて頂いてよろしいですか。
「後生の一大事をこころにかけて」聴聞しようとすればするほど、
全くそうはならない自分との戦いになってしまって疲れるというかシンドイ感じになります。
ただ聴くだけとは違う求道の苦しさというものは、そういう感じになってくるものなのでしょうか。
よろしければ教えて頂きたくお願い申し上げます。

148 :774:2007/10/14(日) 12:17:53 ID:axp6AGKE
言い方が悪かったかもしれません。すみません。
獲信者と未獲信者と分けてしまう憶測そのものに、意味があるのか?
また、憶測による分別作用を無批判で流してしまうのはどうか?
例えば、私が獲信者だと思っていた人が、
実は獲信者でないこともありえるし、獲信者でないと思っていた人が、
獲信者であると言うこともありえるわけです。
所詮は、不確かな意業による判断に過ぎないのですから。
その不確かな意業によって、他人の意業を詮索する、判別する行為自体、
願力回向たる信心を意業におとしめていることにはならないか?
ということです。
「おとしめるような私なればこそなあ、もうし」なればこそ、
獲信者の規定自体、はからいにすぎないとは言えないでしょうか?
次に、信後の聴聞という言葉の出拠は何処にありますか?
求道体験・また教学追求を先とすると、親鸞聖人の仰ることは後になります。
徐々にその進む方向がずれていくこともあるのではないでしょうか?
信心の談義をする上でも、お聖教と照らし合わせる作業をおざなりには
できません。

149 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 14:23:27 ID:FARuMDDJ
>148
>所詮は、不確かな意業による判断に過ぎないのですから。

うーん・・・
ふたたび意業にもどりましたね。

すみませんが、なぜそこまで「獲信」「未獲信」の区別を嫌うのか、わたしにはもう分かりません・・・。

144-146で答えたように、「獲信」「未獲信」の区別には、大きなデメリットはありません。
そりゃ信後の聴聞を怠って「お前は未信だから、おれの方がエライ」などと言い出したら、問題ですが。

なにか、148さん自身に、この区別を嫌う個人的な理由(悲劇的な場面を目撃した、とか)があるのでしょうか?

150 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 14:39:24 ID:FARuMDDJ
>147
>「後生の一大事をこころにかけて」聴聞しようとすればするほど、
>全くそうはならない自分との戦いになってしまって疲れるというかシンドイ感じになります。
>ただ聴くだけとは違う求道の苦しさというものは、そういう感じになってくるものなのでしょうか。

求道上の話には、わたしもテンションが上がります。ありがとうございます。
えー、このしんどさはですね、聴聞のポイントがわずかにズレている状態です。
(でも、早くもこのしんどさにたどりつかれた、というのは、とてもセンスが良い方だと思います)

「後生の一大事をこころにかけて」と言いますが、もしこれが出来る人なら、「罪悪深重の人」とは言えません。
どちらかというと、「後生の一大事がこころにかからない」という方が、「罪悪深重の人」と言えます。
なので、こころにかからない人こそ、阿弥陀仏の正客(お目当て)だということです。

だから、「後生の一大事をこころにかけるぞ!」といって不可能なことに力むよりも、
「阿弥陀仏は『あなたは後生の一大事をこころにかけられない人(罪悪深重の人)だよ』と言っているが、本当だろうか?やってみよう」
という感じで、自分が後生の一大事をこころにかけられるかどうか、挑戦してみてください。
絶対できませんから。できたら菩薩さまです。できなければ、阿弥陀仏の正客です。

後生の一大事をこころにかける・真剣に聴聞する・無常をとりつめる・罪悪をとりつめる。などなど、
いろいろアドバイスはありますが、
「後生の一大事をこころにかからない自分・真剣に聴聞できない自分・無常をとりつめられない自分・罪悪をとりつめられない自分」
がある程度発見できれば、これらのアドバイスは、捨てて捨ててOKです。
それよりも、「阿弥陀仏の本願を繰り返し聞くこと」が1000倍重要です。

147さんが後生の一大事をこころにかけられないような、どうしようもない人だからこそ、
阿弥陀仏は万善功徳がつまった南無阿弥陀仏を用意してくださったのだ、という本願を聞いていってください。
147さんの後生をかならず救うよ、という本願を聞いていってください。

ここらへんはほんとにデリケートなところなので、分からないことはなんでも聞いてください。

151 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 15:23:41 ID:TU9EpCvV
ここは自称「妙好人」しかいないスレですね

152 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 15:45:16 ID:KMoXm20r
うちは大谷派なんですが、住職が
「死刑は絶対に認められない。なんでもかんでも死刑にすればよいという風潮は間違っている。
 韓国が死刑を廃止しましたね。先進国で死刑が在る国は日本ぐらいのものです。恥です。
 昔から我が宗派は死刑に反対してきましたよ。うんたらかんたら」
しゃべっておりましたが、疑問があります。
60年前の戦争には反対したのでしょうか? 宗派をあげて戦争勝利を祈祷したそうですが、どうなんでしょう。
戦国時代は敵の首を取れば極楽往生できたのではなかったのでしょうか? 悪人往生だから何でも在りなんですか?
どんな悪人でも往生できるから野放しにして良い、と聞こえましたが、
死刑にしなかったがためにこれから犠牲になる人は善人で往生するんだから
死んで(殺されて)よいのでしょうか? 遺族の感情はどう責任を取るつもりなんでしょうか?

法要の席だったので質問もできずもんもんとしております。
どなたかお答えを賜りたく存じます。

153 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 16:16:26 ID:jO4JmuY4
僭越ながら、わたしは>>148さんの危惧に共鳴しますね。
>>149さんの説明には説得力がないように思います。
要約すると
・信後の聴聞さえしてれば大丈夫なはずです。
・今のところ問題が起きているように思えません。
・蓮如上人も支持されていたらしいです。
このように聞こえますが、このような回答ではまるでお役所の苦情封じです。
教学に裏付けられた抜本的な解決がなされているとは言い難いレベルだと思います。

ある人が信心をえているかどうか、判断するのに
あるレトリックを決して嘘をついているとは思わない程度に使っているからそうにちがいない、
長い間いっしょにいて自分が信心と思っているものと差異があるように思えないという手応えがある、
というあやふやな感覚に基づいて行うことが可能なのであれば、そしてそれが主流として認められるに至れば
著名な信心判定人に判断してもらおうと、特定の人間をあてにする門徒が続出するのではないでしょうか?
わたしなどは確実にそのような失におちいると思いますね。
他人の信心判断は、こうこうこういう理由でこの程度まで問題ない、ここからはダメという教学に基づいているとか、
そうではなく、信心は師資相承であり、師と弟子との間の阿吽の呼吸によって認可される捉えがたいものであるとか
そういった持論を展開してもらわないことには信心という理解しがたい微妙なものを占有する少数の人々によって
信心獲得というあんしんをうるために隷属的な立場を余儀なくされる被害者を無自覚な中に量産していくことに
なると思います。煩悩一杯の人間が組織するものなんですから。

149さんがどのような程度で信心の判断、認定を行うことを認めているのか、
また信心をうるということをどの程度重要視しているのか、
(信は得やすいが、信後の態度でその人の信心が試されるのが真宗というスタンスの人もいますし)
いまいち、ここでは判然としませんので、それがかえって誤解をうんでいるのかもしれませんね。
これからきっちり教学でコンセンサスを求めていくという方向に向かった方がいいのかもしれません。


154 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:06:32 ID:FARuMDDJ
こんばんは、ここ数日回答させていただいているものです。
どなたかご自分の求道について悩みなどある方おられますでしょうか?

155 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:32:19 ID:KMoXm20r
>>154
152ですが

@ 60年前の戦争には反対したのでしょうか? 宗派をあげて戦争勝利を祈祷したそうですが、どうなんでしょう。
A 戦国時代は敵の首を取れば極楽往生できたのではなかったのでしょうか? 悪人往生だから何でも在りなんですか?
  首を切られた敵はどうなるんでしょう? 地獄行きですか?
B 結局、どんな悪人でも往生できるから野放しにして良い、と聞こえましたが、 罪人を死刑にしなかったがために
  これから彼ら残虐な殺人鬼によって犠牲になる人は善人で往生するんだから
  死んで(殺されて)よいのでしょうか? 遺族の感情に対してははどう責任を取るつもりなんでしょうか? 取れますか?

156 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:48:15 ID:FARuMDDJ
>155 @AB

すみませんが、これはあなた自身の求道上の質問ではないようですので、答えを控えさせていただきます。
他人はどうなんだろう?ではなく、自分はどうなんだろう?というスタンスでないと求道にならないので。



157 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:49:12 ID:FARuMDDJ
どなたかご自分の求道について悩みなどある方おられますでしょうか?


158 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:50:50 ID:KMoXm20r
>>156
自分を客観視することが求道にならないとは、気づきませんでした。
自分を恥じて再度、初心よりやり直します。それにしても驚きました。

159 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 19:54:04 ID:KMoXm20r
>>156
自分の求道について質問した人に、他人のあなたが答えられると考えておられるようなのが
どうもわからないのですが、ひょっとしてバカですか?

160 :774:2007/10/14(日) 21:12:54 ID:axp6AGKE
>149
酔っ払いが絡んでいるようで、大変申し訳なく思っております。
興味がなければお聞き流し下さい。
さて、私の疑問の根本は、
私個人が悲劇的な出来事を経験したかしないかではなく、
獲信者か未獲信者か、判別することが、
他力回向という親鸞聖人のお示しに適っているのでしょうか?
と言うことなのです。また、あなたは求道に関して(求道と言う言葉も
安易に使うべき言葉なのかどうか疑わしいのですが)、
他人にアドバイスできる立場として、盛んに呼び掛けられているようですが
(弟子一人も持たずと言われたという親鸞聖人自身、
そのような立場をとっていたのでありましょうか?)
その行為の裏には、何が潜んでいるか、
自分自身に尋ねてみたことはありますか?
阿弥陀如来の本願に照らして、反省したことがありますか?
自分の求道体験自身が全く転倒した虚仮不実なものだと
反省されることはなかったのですか?
さらに、虚仮不実な求道を他人に勧めてもよいものなのでしょうか?
人は千差万別です。受け取り方も相手様次第。
私は自分の体験を勧めることは自己顕示欲のあらわれだと考え、
躊躇します。そんなあやふやなものより、
躊躇なく伝えられるものがあるではないか、と言うことです。


161 :7:2007/10/14(日) 21:18:26 ID:EXuhuutW
>>150 レス有難うございます。求める・捨てる・転換するという本願そのままのお答えを、
分かりやすいお言葉で説いていただけたものと了解させていただきました。

 自分の求道のことなのに、他人に聞く以外の方法を知らない大バカモノの私ですがまた質問させていただきます。
求道について、お経に説かれていることと、いくつかの体験談から、獲信への道程が具体的に見えてまいりました。
先日お会いできた方は大変優しく好感の持てる方だったのですが、押し付けがましい人は私も苦手です。
いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。
求道の入り口で早くも卒業試験を受けさせてもらえるつもりでいるような質問でお恥ずかしいですが、
求めていくことが、進んでいくことが怖いというのが正直な気持です。この不安や恐怖は、どのように乗り越えていかれましたか?

162 :このスレに辿り着かれた皆様へ。:2007/10/14(日) 21:37:09 ID:EXuhuutW
このスレに辿り着かれた皆様へ。
このスレは、自身の後生の一大事の解決が出来ない悩める求道者が、何とかその手がかりを求めて、
後生の一大事を解決された先輩方に質問させていただくために建ててもらったスレです。
真宗の歴史や政治的立場や、いろんな会派組織について質疑応答するスレではありません。
また、教学のみを追求する立場のスレでもありません。
私は獲信したから答えましょう、それはどこまでいっても自己申告、自称妙好人でしかありえないかも知れません。
ですが、人の心を見る能力など誰にも無い、それは人間の限界であって仕方ありません。
信心獲得したかしないかは大問題という立場ですから、未信入信を区別せねば始まりません。
もちろんその区別が自身の求道において大きな障害となるのであれば、それはそれで厳しくご教導願います。
他人へのアドバイスが、自己顕示欲の表れということもそれが人間の自性です。
それでも、私はアドバイスが欲しくて仕方が無い。自身の問題なのに他人に聞くなど以ての外でしょうか?
ならば、聴聞すら論外ということになってしまいますが・・・仏法は先ず人より聞く他にないのではありませんか?
全てが弥陀のご説法と、食事をしてもTVを見ても、寝ても覚めても法を聞ける尊い方なら別でしょうけれど。

163 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:39:08 ID:YonE7/yf
>このスレは、自身の後生の一大事の解決が出来ない悩める求道者が、何とかその手がかりを求めて、
>後生の一大事を解決された先輩方に質問させていただくために建ててもらったスレです。

後生の一大事を解決された先輩方って、そんな奴いねーだろ。
自分で思い込んでる人ならいるだろうけどな。

164 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:51:21 ID:EXuhuutW
>>163 私もいないと思ってきました。そもそも、死んだらどうなるか全く分からないのです。
 消える?確かに肉体は焼いて灰となってしまうことは何度も見てきましたが、心も消え行くのか、現代科学は何も答えてくれません。
 この世の苦しさから逃れるために、消えるのならば死のうとしましたが、消える保証が得られず、死に切れない人生でした。
 死ねば悲しむ人がいるといっても、消えた自分には何の関係もありません。
 死ぬことで「自分」という存在が完全に消え、楽しみや喜びが無い代わりに苦しみも悲しみも消えるならば。
 心は脳にしか無いと断言できますか?化学反応の産物でしかないと割り切れますか?
 好きな人がいて、憎い奴がいて、楽しみがあって、悲しみがあって。この全てを物理化学で処理して情を捨て切り、
 湧き上がる自分の人生そのものへの思いも脳のシナプスの所作に過ぎずと達観し、この世限りと生きられますか?
 それはそれで凄いし、そのように確信できた方がうらやましくもありますが・・・

165 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 21:52:55 ID:FARuMDDJ
>その行為の裏には、何が潜んでいるか、
>自分自身に尋ねてみたことはありますか?
>阿弥陀如来の本願に照らして、反省したことがありますか?
>自分の求道体験自身が全く転倒した虚仮不実なものだと
>反省されることはなかったのですか?

うーん、すみませんが今回でレスは終わりとさせていただきたいです・・・。
あなただって求道した時期があるはずですが・・・。
自分に自己顕示欲しかない、自分の求道は虚仮不実のものだ、というのは、
獲信体験までたどりついた人なら1度はいやというほど思い知らされることです。
わたしだって、この嘘ばっかりの自分を何とかしようとして、求道中に何度も泣きました。
このことは当たり前の前提としてレスをしています。
ただ、自分の求道が虚仮不実であると同時に、自分に求道をさせてくれていたのは全て他力だった、ということも
いやというほど思い知らされます。
求道も念仏も説法も求道アドバイスも、すべてです。

アドバイスする立場にないのは、仏法から見れば当然です。でも、せずにおれない。
伝えずにおれない。
わたしの本性からいえばアドバイスせずに「他の人は獲信体験にたどりつかずに死んでいけばいい」と
1人ほくそえむような、悪魔の心しかありません。まさに罪悪深重の悪人。
そういうやつが後続の人に伝えずにおれんわけです。
また、「がんばって聴聞すれば獲信できる」という自力を強める方向のアドバイスをS会出身者は受けています。
そのため、わたしはとても遠回りしました。
わたしのような無駄な遠回りは、してほしくない。

ご質問とあまりかみ合わなかったと思いますが、これで回答を終わりとさせていただきます。
すみません。

166 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 22:09:20 ID:FARuMDDJ
>161

あなたの自分をごまかさない態度、こちらの下がらん頭が下がります。

>いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。
>求道の入り口で早くも卒業試験を受けさせてもらえるつもりでいるような質問でお恥ずかしいですが、
>求めていくことが、進んでいくことが怖いというのが正直な気持です。この不安や恐怖は、どのように乗り越えていかれましたか?

これは、怖くて当然です。求道でなくても、人から詰められるのは怖いもの。
で、簡単な解決法としては「詰めない」タイプの先輩獲信者を選べばいい。
そして、「詰める」タイプは避ける。わたしはそうやりました。
緊張しやすい人は、「詰められ」ても、獲信どころか、びびってパニックになっていつもよりさらに聞けなくなるのが関の山です。

わたしはどこかに「詰められないと獲信できない」という思いがありましたが、それは間違いでした。
詰められても、力んで力んで力んで体もガチガチになって「今獲信しないといけないんだ!」という思いに支配されるだけでした。

でも、「獲信しないといけない」ということは、「獲信しないと後生を救われないのだ」ということにもなります。
ということは、阿弥陀仏が「あなたの後生を必ず救います」とおっしゃっているのを完全に無視して、
「いや、いくらあんたがそう言っても信じられない。おれは獲信しないと後生は救われないはずだ」
と、阿弥陀仏をうたがっているわけです。
後生を救う阿弥陀仏の贈り物(念仏)を口に称えながら、
「この念仏ではまだダメだ。獲信しないとダメだ」といっているわけです。

ここは、力めば力むほど脱出が困難になります。

最後に、うまく無駄な力みを置いておいて、本願を聞くことをあらわした漫画があったので、リンクを書いておきます。

ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/top_menu/menu.htm

なにかあれば、なんでも聞いてください。

167 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 22:13:08 ID:FARuMDDJ
ttp://homepage3.nifty.com/keko-kai/nitirai_bussei/bonko/bonko31.htm

すみません、リンクはこっちでした。

168 :774:2007/10/14(日) 23:14:53 ID:axp6AGKE
>162
無限遡及で誤魔化すことがないよう、私たちはお聖教を学ぶのです。
根拠が、後生助かった自分の感情であるならば、
もはや、真宗でも、仏教でもありません。
妙好人と言う言葉さえ使うべきではないでしょう。
次に、自称妙好人、自分で自分のことを白蓮華と呼んでいるのは、
恥ずかしいことだと思いませんか?
また、無批判にある特定の人物を、獲信者だと判断するのは
(私は判断することはできないし、判断する必要もないと言っているのですが)、
間違いの始まりかも知れないと注意した方が、よいと思うのです。
余計なお世話と受け流していただいてもかまいません。
しかし、あなたの書き込みを拝見すると、
少し無防備すぎるのではないかと世間的には思ってしまうのです。


169 :神も仏も名無しさん:2007/10/14(日) 23:50:59 ID:FARuMDDJ
>次に、自称妙好人、自分で自分のことを白蓮華と呼んでいるのは、
恥ずかしいことだと思いませんか?

レスはしないつもりでしたが、あまりの誤解に1つだけ。
わたしは自分を妙好人と宣言したことは1度もありません。
そもそも妙好人というのは、もともとは本願寺が宣伝のために作り上げたものだという一面がありますし。
また、信心いただく人の中で、とくにモラル的にも優れた人を妙好人とした、という経緯があります。
わたしはモラル的には優れていませんし。
すみません、あしからず。

170 :774:2007/10/15(月) 00:15:54 ID:1sptA+/b
>165
では、最後に。三業の不確かさは、死ぬまで変わりません。
即ち、仏性である信心について、教示できる立場にある人など、
誰も存在しないのです。親鸞聖人によれば、
皆、仏弟子です。皆それぞれに仏の教化を受ける仲間でしかありません。
獲信を自覚した人は、私は知っている、私は経験した、と我を張ります。
仏法は無我にてそうろう。自覚は役に立つどころか、実は足枷です。
信一念の体験が破されるような批判に対しては
耐えがたい苦痛を覚えるようになります。過去の体験に縛られ、
破壊されることを恐れるからです(本当は楽しいことなのに)。
聴聞がいつも初ごとなのは何故でしょう。
真実信心は相続心であると言われるのは何故でしょう。
信一念は過去の体験に押しやられるべきものではなく、今、ただ今だから、
相続心と言うことができ、いつも初ごとで劣化しないのです。
私の三業は劣化しますが、阿弥陀仏の劣化する私たちを必ず救うという
誓いは、劣化しないから、相続心と言い、
劣化し続けている私にとっては、常に初ごとです。
聞ける立場(獲信者)、聞けない立場(未獲信者)などと、
どっちも変わらん、どのみち劣化する三業で、はかるなと言うことです。
もう迷わせないと誓って下さった方が、
死んでもお前をはなさないと(摂取不捨)と言って下さっているのに。
一体、何を信じているのか?何を求めているのか?
遠回りなどと悠長な身の上でもないだろうに、自覚など必要なし。
毎日本願を聞き、毎日称名の日暮しです。
南無阿弥陀仏


171 :774:2007/10/15(月) 00:33:33 ID:1sptA+/b
>169
それはあなたへのレスではありませんよ。ちょっと自意識過剰気味では?
ところで、私たちは、我執を離れることができませんが、
できないからこそ、仏の悟りと照らし合わせて、恥ずかしいと痛みいることができます。
私も、きつい言い方をしてしまって申し訳なかったです。
しかしながら、仏教の発展自体が論争の歴史でありましたから、
致し方ない所もあるのでは?と言い訳しておきます。それでは。
南無阿弥陀仏

172 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 05:28:07 ID:dHKEwiMU
なんだか、
だまれ、聞け、それをだまれと言っているんだ、それを承知で聞けと言っているんだ、いやそれをだまれと・・
と、先の取り合いになってますね。というか仏様の取り合いでしょうか。


173 :7:2007/10/15(月) 06:46:32 ID:3WsCslSs
>>150さんのレスをもう一度思い返してみました。
 それで、もう一度質問させてください。

 以前、「自力がだんだん薄まるような感じ」と教えていただいたことがあるように思います。
 ピンとこなかったのですが、これは「どんどん捨てていく」姿ということですね?
 「頑張って聞いている」とか「今だ、今だ」と自分から必死になろうとする、そういう心をどんどん捨てていく。
 そんなもの握っていては後生は通られんとどんどん捨てていく。
 そして捨てて捨てて、ご本願を聞かせていただく。そういう姿勢ということでしょうか?

174 :774:2007/10/15(月) 06:48:10 ID:1sptA+/b
>172
全く違います。よく読んでほしいと思いますが、
書き方が悪かったのかもしれません。
ポイントは、体験の有無を沙汰する行為を凡夫が行えるのか?から始まり、
信一念を過去に起きた体験と採っていいのか?つまり、
親鸞聖人が仰せになられた他力の信心とは、真実の体験が一回あって
(現在から見れば過去に)、それをもって往生治定と認識し
(衆生の意業によるのは無論)、
後は信後の聴聞によって、その体験を支えていく、という
構造を持つものととらえていいのか?と言うことです。
それとも、あくまで凡夫は、仏の法に対しては何時であっても
聞く立場でしかなく(必ず助けるという仏勅に対しては完全に受動的であって)、
こちら側から意業を働かせて、獲信体験をしたとか、
体験の有無を基準に、獲信者の判別をするなどは、
必ず助けるという仏勅そのものではないから、
当然、差し控えるべきものと考えるべきなのか?
と言うことです。    非常にデリケートです。

175 :7:2007/10/15(月) 06:54:41 ID:3WsCslSs
>>166 ご丁寧なご回答ありがとうございます。
 早くも「詰められねば救われない」などというものを握っている自分に驚きました。これも捨てモノなんですね。
 獲信という未体験の世界を勝手に想像して、「獲信せねば、獲信せねば」と力み続ける。これが疑情でしょうか?
 どんどん捨てて進んでいきたいと思います。

176 :7:2007/10/15(月) 07:10:25 ID:3WsCslSs
>>168 レス有難うございます。
 常に、信心を計る定規はお聖教以外にはないと肝に銘じております。
 いかなる不思議な体験も、後生の役にはたたんと、自身を戒めているのです。
 人が獲信したかどうか判断は出来ないしする必要はない、仰るとおりだとも思っているのです。
 それでも、体験もなく疑いを持ったまま受け売りで説法をされるのは、無免許医に手術を任せるようなもので怖いものです。
 もちろん免許があっても、いくらでも藪医者はいるわけですが・・・
 確かに私は無防備に過ぎるかもしれません。ご心配ありがとうございます。
 そのせいでいろんなものにハマって、何度もひどい痛い目に遭ってきました。
 しかし、世の中がそういうものでしかないなら、それだけのこと。本当ならもう誰にも関りたくないぐらい疲れ果てました。
 それでも、まだ遣り残したことがある、忘れ物がある、死のうにも死後がハッキリしない、生きている間に求めるしかないなぁと思っているのです。

177 :7:2007/10/15(月) 07:16:38 ID:3WsCslSs
>>170 うーん、、、三業で計るなということには納得しますが、それだと生きている間にハッキリしたとしかしないとか関係ない、とも受け取れます。
 まさか不体失往生を否定される方だとは思いませんが、ちょっと十劫安心を思い出してしまったので、質問させてください。
 自覚などいらない、とはどういう意味で仰られたのでしょうか?

178 :7:2007/10/15(月) 07:32:28 ID:3WsCslSs
>>174 私もそこは気になります。信心の沙汰をせよ、と蓮如上人が言われたのはなぜなのか。
   他力の真実信心獲得の体験は一度きりだと聞いておりますが、信後の聴聞は体験を支えるためのものではないと思っています。
  そんな後から支えねば崩れるようなものは役に立ちません。
  ただ、まわり中、未信の人しかいない環境で、説法している人すら未信だった、ということがありまして、本当に不安な求道時代がありました。
  まったく、行ったこともない人に「あの観光地は素晴らしいから一度行ってきなさいよ!」と勧められているようなものです。
  じゃあどうして先ず自分が行かないのか?そして誰も行かないのか?もしかして行けないんじゃないか。不安だらけでした。
  獲信したかどうか判断できないことは肝に銘じつつ、「こんな世界だったよ!だから君も行こう!」と言われたいのです。
  そういう心がもう間違いの元で、捨てモノだと言われたら返す言葉もありませんが・・・

179 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:47:52 ID:32r7dC61
ここ数日回答させていただいているものです。

>早くも「詰められねば救われない」などというものを握っている自分に驚きました。これも捨てモノなんですね。
>獲信という未体験の世界を勝手に想像して、「獲信せねば、獲信せねば」と力み続ける。これが疑情でしょうか?
>どんどん捨てて進んでいきたいと思います。

はい、そういう力みも疑情です。
阿弥陀仏は「獲信しないとダメだよ。獲信しないとあなたの後生は救わないよ」とは言っていません。
「あなたの口から出ている南無阿弥陀仏に、後生を救う万善功徳をこめているんだよ」といっています。
ということは、つまり、後生に対しては、獲信は必要ない、ということになります。
だって、念仏なんてときどき称えているでしょうし、それで後生が救われるわけだから。

しかし、わたしはそれでは納得できなかったです。

だって、救われた実感がない。
だから信心を求め、求道しはじめた。
ですが、
もうこの「救われた実感がないから、納得できない」という思いにとらわれて求道しだした時点で、
阿弥陀仏のおっしゃっていることをわたしは「聞いてない」わけです。

180 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:49:25 ID:32r7dC61
求道者はこの「獲信せねば、信心得ねば」の思いにとらわれて、しょっちゅう阿弥陀仏の本願を聞くことからそれてしまいます。
でも、そのとらわれから戻って、本願を聞けば聞くほど、「本願を信じてない自分」「本願をいくら聞いてみても、しっかりした信心が生まれない自分」を発見していきます。

なので、「獲信せねば、信心得ねば」の思いにとらわれてしまうことに気をつけてください。
そういう思いが出たら、客観的に「ああ、わたしのこころは、獲信せねば後生救われない、と思っているな。ということは阿弥陀仏の念仏をまったく無視しているな」
「まったく阿弥陀仏の本願を聞いてないな」「わたしは本願を信じられないな」「阿弥陀仏のことをおとぎ話だと思っているな」
と、クールに観察してください。

そして、ふたたび聞く。自分の中の阿弥陀仏を無視するような思いをも救う、というふうに、自分から出た思いをあてはめて聞く。
阿弥陀仏は「まったく阿弥陀仏の念仏を無視するような人」「本願を聞かないような人」「本願を信じられない人」「阿弥陀仏のことをおとぎ話だと思っている人」
を救うとおっしゃっている、と聞く。
つまり
「このような阿弥陀仏をそしる思いが出てくるわたしを救う、と阿弥陀仏はおっしゃっている」と聞く。
わたしという極悪人を救う、と聞く。


分かりにくいとこがあったと思います。
「獲信したいと力めば力むほど、獲信体験から遠ざかる」という、求道のやっかいな部分だと思います、なんでも聞いてください。

181 :神も仏も名無しさん:2007/10/15(月) 21:58:16 ID:9kVtcpJA
>>178

はっきりしたものが欲しければ、
死後の世界へ行ける瞑想を試してみればどうでしょうか?

http://www.nagomi.com/monroe/#

182 :神も仏も名無しさん:2007/10/16(火) 06:46:21 ID:JtuJzqTj
>>177
自覚というか如是のこころでは?
信の置き場がどこにあるかが重要かと思います

183 :7:2007/10/16(火) 23:54:50 ID:MQLxaxwM
>>180 レス有難うございます。非常に難しいところだと痛感しております。聞いて聞いて聞き開くのみだと、今は思っています。

>>181 見れませんでした・・・

>>182 如是のこころとはなんでしょうか・・・初めて聞きました。調べてみます。

レス有難うございました。

184 :774:2007/10/17(水) 00:32:50 ID:GZdd7usg
>176-178
お返事遅れましてすみません。
@念仏の法を伝えるのに免許がご入り用ですか?そもそも、
無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、
虚仮諂偽にして真実の心ない凡夫に、手術できる免許皆伝などということなど、
あるはずがないでしょう。
だから、弥陀をたのめと勧められるわけです。「私は弥陀をたのんで救われました、
だから、人を教化できる免許があるのです」と思ったり、言ったりするのは、
二種深信の機の深信が欠落していると言わねばなりません。
一信心は必ず、開くと二種となると善導大師の仰せを
親鸞聖人はそのまま受けておられます。機の深信が欠けた信心など
存在すらしえないと言うことです。
「あなたは獲信者に違いありませんね、
そのような体験や言動をされるのですから」と周りからちやほやされれば、
上がり上がりて落ち場を知らぬ性質の我々は、
自分は免許皆伝だ、信心決定したに間違いないという妄念を
ますます真実と思い込むようになる。あさましいことです。
A十劫安心について。
『御文』にあるように、十劫安心は異義と批判されます。
阿弥陀仏が十劫の昔正覚を成じ、すでにその時に我々の往生は決定していた、
そのご恩を忘れないのが信心であるという主張が批判対象です。

ご恩を忘れない当体は何か?私の心、すなわち意業ですね。
これを信心とすることは、虚仮を真実と思い違いをすることであります。
往生は必ず不可と言うことです。
蓮如上人は、十劫安心には弥陀に帰命して他力の信心を獲たる分なし、
あるいは、我らが往生すべき他力の信心と言ういわれを知らない、
故に、大きな誤りであると仰せられます。
大きな仕事が有り、なかなかレスができません。
来月、また書き込ませていただきます。
南無阿弥陀仏

185 :神も仏も名無しさん:2007/10/17(水) 08:18:19 ID:Swv8s2Bd
思い増すに、7さんが信を獲た立場からの物言いにこだわられているのは、
親鸞会で窮屈なふんいきを体験されたからだと思います。
私は7さんの立場が親鸞会にタイする「反」としてのものなら、賛同しうるんですが
7さんの立場だけがある世界では、到底うけいれがたい、親鸞会へのそれと同じ
不快感を抱くと思います。なので、7さんをダメともよいとも言えなくなるんですが
親鸞会の会長さんも、きっと華光のおてがるな信心のふいんきにおかしなものを
かんじて、それにたいする「反」として今の親鸞会の立場があったのではと
考えたとき、なんだか笑えなくなりますね。自分たちもやはり実は過激なことを言っていて
近い未来なんらかの揺り戻しをうむ原因になるのではと恐ろしくなります。
そうすると、言葉をつむぐ勇気がなえてしまいそうになりますが、
そう考えると、ここで信をあっけらかんと表明されているような人こそ一番今のひとに
必要な方なんではと思う次第であります。

なんだかあまり考えもせずつらつらと書いてしましたが、どうかご勘弁。
お粗松

186 :7:2007/10/18(木) 00:52:06 ID:oX74tMjj
>>184 774様へ ご丁寧なレス有難うございました。

 @ごもっとも、と思いました。私の場合、信未信に拘るのは、未信の者しかいない(らしい)某会場での聞法がトラウマとなっているからかも知れません。
 自信教人信と言われるように、まず自信ではないかと。体験無き説法、疑心のままでの説教、自力が廃れぬ者に他力を教導されることの不安や白けた気持ちを、もう味わいたくないと思っていた次第です。

 A信心は私の心ではない、ということですね。他力の信心はいただくものだと。やはり難しいところです。

>>185 仰るとおり、いわゆる反動としての気持ちがまだ大きいのかも知れません。
  いわゆるお手軽な信心の雰囲気というものは知りませんが、獲信者の多い組織(もちろん自称も含まれるのでしょうが)と、
獲信者は会長とごくごく一部のご老人と既に亡くなった方しかおらず、講師ですらほとんど未信と言われる組織、
どちらがいいのか、私には分かりません。教えが正しく教えられているかがだけが問題だと今は思っています。

逆に、自分はどうして今こんなに獲信者に会ったり話を聞いたりしたいのだろうか、とそれが不思議になってきました。
仏法を聞きたいとか、求めたいとか、本当にどうかしています。
いろいろと本を拝読してみて、一度、今まで聞いてきたこと、勉強してきたことを全て捨ててしまおうと思いました。
今までの苦労はなんだったんだ、という思いよりも、スッキリ軽くなった爽快感と、新しい一歩が楽しみですらあります。
反面、恐いですが。それではまたよろしくお願いします。

187 :OKANE:2007/10/18(木) 01:11:36 ID:hTts5Vny
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2女 見玉 (京都摂受庵見秀尼弟子、浄花院流相伝)禅宗→真宗 1448-1472.8.14(25)
3男 蓮綱兼祐 (加賀国波佐谷松岡寺、同山内鮎蔵坊開山) 1450-1531.10.18(82)
3女 寿尊 (摂受庵見秀弟子→摂津国富田教行寺住) 1453-1516(64)
4男 蓮誓康兼 (加賀国滝野坊、九谷坊開山、山田光教寺、越中中田坊開基、光闡坊) 1455-1521.8.7(67)

第2夫人、蓮祐  (如了の妹、1457年、蓮如の妻となる) 1438-1470.12(33)

5男 実如光兼 (第9代本願寺法主) 1458-1525(68)
4女 妙宗 (知恩院長老椿性禅尼弟子、左京大夫、義政妾) 1459-1537(79)
5女 妙意 (12歳死亡) 1460-1471(12)
6女 如空 (越前国大谷興行寺蓮助兼孝の妻) 1462-1492(31)
7女 祐心 (白川家神祇伯前従三位資氏王の室) 1463-1490(28)
6男 蓮淳兼誉 (大津顕証寺、河内久宝寺村顕証寺、伊勢国長島願証寺開基) 1464-1550.8.18(87)
8女 了忍 (7歳死亡) 1466-1472(7)
9女 了如 (越中国井波瑞泉寺蓮欽の妾) 1467-1541(75)
7男 蓮悟兼縁 (加賀国崎田坊、中頭坊、清沢坊開山、若松本泉寺住) 1468-1543.7.18(76)
10女 祐心 (中山前中納言宣親の室、同康親、重親等の母、顕如の祖母) 1469-1540(72)


189 :神も仏も名無しさん:2007/10/18(木) 02:22:45 ID:L8zlhq6I
第3夫人、如勝  (京都に住むが応仁の乱で焼け出され、家も身内を無くして門徒となり、吉崎に来る。1473年、蓮如の妻になる) 1448-1478.8.17(31)

11女 妙勝 (山城国三栖住勝林坊勝恵の妾) 1477-1500(24)

第4夫人、宗如 (前参議姉小路基綱の娘。1481年、蓮如の妻となる)   -1484

12女 蓮周 (越前国超勝寺蓮超の妻) 1482-1503(22)
8男 蓮芸兼e (摂津国富田教行寺、名塩教行寺) 1484-1523(40)

第5夫人、蓮能 (畠山政栄の娘、畠山家俊の双子の姉。1486年、蓮如の妻となる) 1465-1518(54)

13女 妙祐 (勝林坊勝恵の妻) 1487-1512(26)
9男 実賢兼照 (近江国堅田称徳寺住。蓮誓の娘、妙慶を妻とす) 1490-1523(34)
10男 実悟兼俊 (河内国古橋願得寺住。蓮誓の娘、了忍を妻とす) 1492-1583.11.25(92)
11男 実順兼性 (河内久宝寺村顕証寺。蓮淳の4女妙祐を妻とす) 1494-1518(25)
12男 実孝兼継 (大和国飯貝本善寺) 1495-1553(59)
14女 妙宗 (京都常楽寺実乗光恵の室) 1497-1518(22)
13男 実従兼従 (河内枚方順興寺) 1498-1564.6.1(67)



190 :地の蠍:2007/10/18(木) 08:51:26 ID:NLYw01gl
           >>1
             ↓                _人
      ∩    ∧_∧            ノ⌒ 丿
       \ヽ_(    )         _/   ::(
         \_   ノ        /     :::::::\
 ∩_   _/    /         (     :::::::;;;;;;;)
 L_ `ー / /   /           \_―― ̄ ̄::::::::::\
     ヽ  | |__/ |           ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)
  | ̄ ̄ ̄\     ノ こんな     (     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
  | | ̄「~| ̄( 、 A , )クソスレ   / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
  | |  | |  ∨ ̄∨        (        :::::::::::::::::::::::::::::::::)
  し'  し'                \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ



                               __
                         >>1  l ̄/.  ___
                         ↓ / /.  / ___ノ  
                        __/ /_/ / 
      たてんじゃねー!      Y人, ' ',人⌒ヽ、, '
                      Y⌒ヽ)⌒ヽ、 人,ヽ)人'、, '
        へ, --- 、         ノ ̄     ::::::::::::::::::::::)
     / ̄ ̄ ̄  、____\       (     ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
    / _/ ̄「~|\ __ \     / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
   | |  | | ( 、 A , \ミソ   (        :::::::::::::::::::::::::::::::::)
   し'   し' と∨ ̄∨       \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ


191 :神も仏も名無しさん:2007/10/20(土) 00:18:47 ID:j3EUGvnc
これはもうだめかもわからんね

192 :神も仏も名無しさん:2007/10/21(日) 09:47:42 ID:PFBGvLUS
書き込みなくなったね

193 :7:2007/10/21(日) 11:43:27 ID:/LFXhXxH
いろいろと雑多な質問にご返答いただき、皆様本当にありがとうございました。
他にももっと悩んでおられる方がいるはずだとは思いましたがそうそうここを覗いたりするものでもないようですね。
またここで良き報告が出来れば幸いです。それではしばらく失礼いたします。

194 :神も仏も名無しさん:2007/10/23(火) 04:58:14 ID:jV8s22ru
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ /

195 :774:2007/10/25(木) 17:39:57 ID:kl+aaXa4
ご返事遅くなり申し訳ありません。
>186
@まず、凡夫の分際が、説法・説教することができるのでしょうか。
それは、お釈迦さまだからこそ出来うるお仕事であって、
煩悩成就の凡夫が、そのお仕事に手をかけたら、どのような結果になるか?
想像に難くないと思われますが。
凡夫の説く戯言を聞いて、信心決定するならば、
その信心は凡夫の戯言信心と言わねばなりますまい。
香月院深励という和上さまが、江戸での仕事を終え、京都にお戻りになる途中、
三河のお寺に立ち寄り、そこで法話をすることとなった。
有名な和上の法話が聞けると、遠近より大勢の人々が集まる。
満堂の本堂で、和上曰く、
「今日は、阿弥陀如来から直々の申し渡しがある。皆、心して聞くように。」
「その申し渡しと言うのは、十悪五逆の罪人も必ず助ける、
今日はここまで。」と言ったきり高座を降りて、戻っていかれた。
たった一言で、法話が終わってしまったので、集まった聴衆は不満たらたらで、
もう少しお話下さいと、和上にお願いしたが、和上は聞き入れなかった。
そんななか、一人、満足顔で席を立った人がいた。
「百のものを十に、十のものを一にして伝えてくださった。
これほどのことは、ご講師さまでなければ聞けないことだ」と。
その人こそ、妙好人のおそのさんだったと言う。
誰から聞いても同じ事。問題は何を聞くのか、と言うことです。

196 :774:2007/10/25(木) 23:48:46 ID:kl+aaXa4
南無阿弥陀仏
信心を獲ようと思うのも自力なり
信心を獲たと思うのもはからいなり
南無阿弥陀仏の本願力のよびごえの外に
自分の方から持ち出すものなし
勅命は、そのまま来たれ、はい、の信心
および声、このままにて往生す
南無至心帰命礼 西方不可思議尊
本願力にて往生す
助くるぞよも南無阿弥陀仏
ありがとうも南無阿弥陀仏
南無の二文字も六字なり
阿弥陀仏の四字も六字なり
機も南無阿弥陀仏、法も南無阿弥陀仏
六字のうちに生も死も、仏と共に旅の空
一度も聞けば、南無阿弥陀仏
これ、決定往生のしるしなり
あら、おもしろや、おもしろや、南無阿弥陀仏


197 :神も仏も名無しさん:2007/10/27(土) 03:04:40 ID:VowuMv4x
オーム。十方の、果てなく、限りない世界に安住される、過去・未来・現在 の
一切の覚った人たち、求道者たち、教えを聞く修行者たち、独り修行する修行者たちに礼したてまつる

無量寿経梵文には、最初にオーム《om=a・u・m》にはじまるこの帰敬偈が記されている

梵文和訳と漢訳の相違点…漢訳では法蔵菩薩の師仏の世自在王仏は錠光如来(燃燈仏)より数えて
五十四番目の仏となっている。これに対し梵文和訳ではディ−ンパンカラ(=ロ−ケ−シヴァラは
ヒンドゥ−教のシヴァ神の別名という)は錠光如来(燃燈仏)より数えて五十四番目の仏となっている。
これに対して梵文和訳ではディ−パンカラ(燃燈)如来からシンハ・マティ如来までの八十の仏が挙げられているが、
法蔵菩薩の師仏の世自在王仏は燃燈仏より前に出た仏として説かれている。
★漢訳では法蔵菩薩は「国を棄て、王(位)を損てて、行きて沙門となり、号して法蔵といえり。」と説かれているが、
梵文和訳には国と王位を棄てて沙門となったという記述は欠けている。

198 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 17:37:10 ID:5CurccdY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

199 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 18:29:13 ID:bJ0fEJRV
だから、現実の寺の坊主と無縁の議論をいくら繰り返しても仕方が無いと、何度言ったら(以下、略

200 :神も仏も名無しさん:2007/10/28(日) 18:49:51 ID:5CurccdY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

201 :7:2007/10/29(月) 19:16:14 ID:etjgyBny
>>774 お忙しい中、ご返答有難うございます。

    お答えに、うーん、と唸るしかありませんでした。その、「何を聞くのか」の「何」をなかなか聞かずにいる自分、腹底からしんどくなってくるのです。

 先日、十数年ぶりに聴聞させていただきました。仏法を聞き開かれた方々にも、何名かお会いすることが出来ました。感激です。
最近名前を覚えた方からこうして直接話を聞かせていただける日が来るとは、驚きです。
小さな会場ということもあるでしょうが、輪になっての聞法に嬉しくなってしまいました。 直接お話でき、いろいろ質問が出来たことにも感謝です。
 身近に同行の方がみえるというのは何とも頼もしく、心強く、嬉しさがこみ上げてきます。こんな環境に恵まれたことはかつてありませんでした。
いろいろ聞きたいことはあったのですが、今までの知識や名誉欲などが邪魔をするのか、勝手に自分の疑問に自分で答えを出してしまう傾向にある自分を発見しました。
その場しのぎや先延ばし、ごまかしばかりの人生だったなぁ・・・と改めて思いつつ、でも今は目の前に開けた希望に無邪気に喜んでいます。
ここで同行の方々にいろいろ教えていただいたおかげです。本当にありがとうございました。

202 :神も仏も名無しさん:2007/10/30(火) 00:32:14 ID:rn6Qi7/j
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

203 :774:2007/10/31(水) 14:51:39 ID:EqJzR0iy
やっと一段落つきまして、遅レスすみません。
>201
何を聞くの、聞くとは、先にあげた香月院和上の法話で言うのならば、
「十悪五逆の罪人もかならずたすける」です。
それだけ。何も珍しいことではありませんよね。
聞き分けて来い、体験して来い、何か浄土往生の資格を持って来い、
と言うのならば、他力に自力を加えたものと言えないでしょうか。
それは、もはや一心とは言えません。何故なら、必ずたすけるの弥陀の一心に、
我が心を運ぶことになるから、二心と言わねばならないからです。
苦しみ取ってから来いではなく、苦しい私そのままが、弥陀の救いの対象なのです。
一切皆苦。苦しいのは、娑婆(堪忍土)にいるお互い当たり前、
苦しみ迷いを離れる力など端から持たないお互いであります。
肩肘張ったところでどうにもならないし、肩肘張らなくてもどうにもなりません。
どっちに転んでも、どうにもならん奴を捨ててはおかん、と誓った方がおられる。
私から見れば、縁もゆかりもない方、しかし、その方は、
私のことを我が子同然と言ってはばからない。それが阿弥陀仏でしょう。
自分の苦しみをなくすことばかりに心を砕き、
私のことを常に聞き、常に見、常に知り尽くし、心を砕かれている
阿弥陀仏に思いを寄せないなら、ただ苦しいだけなのは当たり前です。
上に申した通り、私たち凡夫には、苦を抜く能力など、端からないからです。


204 :神も仏も名無しさん:2007/11/02(金) 00:23:30 ID:wjafkeMY
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

205 :7:2007/11/06(火) 10:29:37 ID:Hoy8EeOR
>>203さま、お忙しいところレス有難うございました。

阿弥陀仏に思いを寄せる・・・聞けば聞くほど仏説真だなぁ、となって、無常や罪悪を少しずつ知らされて、
後生の一大事が気になるようにはなったものの、必ず助けると仰って下さる阿弥陀仏と言われても
どうしても得体が知れないというか、木像や絵像、名号本尊は見ることは出来ても、
思いの馳せ方というものは、どういうことなのか分からないというのが正直なところです。
勝手に頭の中で想像した阿弥陀仏に向かっても間違っている気がしますし、
阿弥陀仏に思いを寄せる、これを意識すればするほど何というか・・・・大きな壁を感じます。
功徳のつまった南無阿弥陀仏、ただの六文字の漢字にしか見えないけれども、
一切経がそこに収まっているとなれば称えねばもったいない気がして称名念仏をする時もありますが、
口先だけの自分が嫌になってまいります。

206 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 00:04:09 ID:xbIYu+uT
浄土教=ゾロアスター教
無量寿経はゾロアスター教が国教(仏教も容認)のパルティアで書かれた偽経です
お上がゾロアスター厨なので気を使いトンデモ経典が生まれたと思われる
ちなみに安世高はパルティア人

                  ↓
<タジキスタン>仏教とゾロアスター教融合の仏像型発見
11月1日21時37分配信 毎日新聞

 7〜8世紀ごろに栄えた中央アジア・タジキスタン西端の都城跡を発掘調査していた龍谷大の蓮池利隆・客員研究員(西域仏教文化)が1日、
ゾロアスター教(拝火教)を象徴する拝火壇を描いた当時の仏像の型を発掘したと発表した。
蓮池研究員は「仏教とゾロアスター教の融合を確認でき、仏教の源流の一つを示す貴重な資料」としている。
 現地の国立歴史考古民族博物館と合同で9月、首都ドゥシャンベの南西70キロにあるカレ・コファルニホン遺跡を調査。
地下約3メートルから発見された工房とみられる施設の跡から、粘土を詰めて仏像の塑像を作るための型(高さ約10センチ)が出土した。
仏の足もとにはゾロアスター教で神聖な火をたく拝火壇が描かれ、仏が手を差し伸べている。


207 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 00:42:57 ID:DkSPXjYk
>205
私の言い方が悪かったかもしれません。ごめんなさい。
阿弥陀仏が得体が知れないと言うのは、その通りでしょうね。
不可称不可説不可思議なんですから。凡夫に得体の知れないのは当然です。
ブッダとは、いかなるものを指すのか、阿弥陀仏もブッダなわけですから、
ブッダの意志について、伺ってみては如何でしょう?
弥陀の本願に通じることかと思います。

208 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 15:41:18 ID:7eT7e9Ke
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

209 :774:2007/11/07(水) 17:49:49 ID:DkSPXjYk
>205
毎度、お返事が遅れてすみません。阿弥陀如来の誓願の対象は何でしょう?
美しい心の持ち主ならば救うとのお約束でしょうか?
波羅蜜を修している者ならば救うとのお約束でしょうか?
口先だけで自分でも自分のことが嫌になるような私を必ず浄土に参らせる、
必ず一切の智恵と真実の慈悲が備わった仏にする、
この誓いは私が立てたものじゃないし、私が望んだわけでもない。
百遍聞こうが、千遍聞こうが、破られない、色褪せない、一切知者たる仏のお約束です。
あなたがどう思おうが、私がどう思おうが、そのお約束だけは変わらない、即ち真実だと言うことです。


210 :神も仏も名無しさん:2007/11/07(水) 18:27:13 ID:7eT7e9Ke
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

211 :神も仏も名無しさん:2007/11/09(金) 00:35:03 ID:2Q0wjLqJ
たまには( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \の相手してやってよ

212 :神も仏も名無しさん:2007/11/12(月) 09:06:34 ID:i1PPV0Jp
ふぅ〜分かんねぇ〜!!!!!!

213 :神も仏も名無しさん:2007/11/13(火) 04:50:27 ID:IsmtwGK8
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

214 :神も仏も名無しさん:2007/11/13(火) 04:51:33 ID:APIDVhPt
dd

215 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 09:05:00 ID:tXiP/qnr
おいおい、せっかく良スレ見つけたと思ったのに、途中で妙好人の書き込みが無くなってるやないか(T_T)

妙好人は18願を聞け聞けと言ってるけど、それ以外の求道のアドバイスが特にありがたかったなぁ。
かなり自分の愚かさが見えてきた感じするわ。

それにしても774っちゅうやつは・・・聞け聞けといってるし、その内容は18願やからええんやけど、774の書き込みぜんぜん求道の参考にならへんw
なんで妙好人に「人にアドバイスするな」なんてイチャモンつけてんねん?
蓮如かて覚如かて、それどころか親鸞さえ和讃やらで求道上のアドバイスやってんねんで?

あーもう・・・妙好人は774のストーカーちっくな質問が嫌になったんやろかなぁ。
ほんま迷惑やわ。

だれかこの妙好人が書き込んでるスレ知らへんか?

216 :774:2007/11/14(水) 20:34:25 ID:hMdMtIt/
>225
親鸞聖人は自らの歩んだ道を求道と言われたことがあったでしょうか?
求道という一見殊勝な言葉の裏に、
自我肯定の煩悩が潜んでいることも見過ごすことはできないでしょう。
聖者ならば、求道も間違いは少ないでしょう。
右も左も、自身の立場もわからぬ、
それどころか、わからぬくせに、わかっていると信じて疑わない
我らのごときいたずらものの求道に、一体何の価値があるのでしょうか。
真実心を成就なされた仏の求道ならば、値千金の価値あるものと言えましょうが。
ここは思案あるべきかと思います。

217 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 22:13:24 ID:tXiP/qnr
うわー、こんな過疎ったスレに当日カキコしてくるなんて・・・どんだけヒマやねん。
妙好人についての情報提供かと思って一瞬よろこんでもーたやないかw

それにしても774はキモいやっちゃなあ、粘着質すぎる感じやで?
ユーモアで切り返すこともせーへんで自分の言い分ばっか言うて・・・、お前モテへんやろw


それに、求道っちゅう言葉があかんのなら、曾我量深にも信楽峻麿にも澤木興道にも秋月龍aにも上田義文にも松原致遠にも桜井鎔俊にも抗議文を送らなあかんで?
妙好人にあんだけイチャモンつけたんやから、当然もう全員に抗議文送ってるんやろうな?

それにしても、こういう相手の話聞かんタイプのやつは疲れるなぁ。相手にできへんわ。
ああ、あの妙好人も774の質問にえらい誠実に答えてたけど、774は全く相手の話聞いてなかったな。

そーいや7ってやつも書き込まんよーになってもーてんな。774って「アドバイスするな」っちゅうわりに、一番エラそうやしなw
7も、774のヘタクソなアドバイスに嫌気がさしたんとちゃうかw

あーあ、774がうざそうやし、おれもう書き込みせえへんけど、だれか妙好人のこと知ってたら、教えてな。






あ、最後に大事なこと書いとこ。




さあ、ではみなさんご注目ください!
774さんが負け犬の遠吠えを粘着テイストで書き込みなされますw

↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

218 ::2007/11/14(水) 22:40:57 ID:ZEIw6nM2
オメコ!\!
ドピュピュッ!!

ごめん!オラ774じゃね〜ぞ!クンニ好きな…グヘヘ!

さーてと…浄土真宗では、仏性についてはどうとらえてるのですか?

私の意見は、仏性が有るとか無いとか、
どう解釈しようとも、私は仏になれず、
ただ本願力によって往生する、だから、
仏性なんてどうでもいい!という意見だぞ!

オッス!オラクンニ好きだぞ!

219 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 22:47:34 ID:ZEIw6nM2
オッス!オラクンニ好きだぞ!

オラはどんなクンニ好きで、仏になんかなりたくもネェ!
と思ってるぞ!

そんなオラに、阿弥陀さんは「必ず仏にする」
と言ってるそうだぞ!それが南無阿弥陀仏だそうだぞ!

でもオラクンニ好きだぞ!グヘヘ!

220 :774:2007/11/14(水) 23:04:00 ID:hMdMtIt/
>217
誰が何と言われましても、求道という言葉を安易にもちいることには賛成しかねます。
理由としては、親鸞聖人が用いていない事が第一。
第二に、その語句は、果たしてお聖教の何処に順ずるのか不明瞭なまま、
使用するのは戯言をまねくことになる、と言うことです。
江戸末期、明治時代、真宗において、求道という概念が、
お聖教の根拠も規定しないまま、用いられてきた感があります。
曽我先生が何を求道と言われたのか、諸師が何を求道と言われたのか、
探っていくべきと思いました。
感情の起伏はお互いさま。この煩悩のままに、必ず救うと言われる
ご誓約がありがたいですね。南無阿弥陀仏

221 :神も仏も名無しさん:2007/11/14(水) 23:30:25 ID:tiOTlKiQ
求道自体は結果論だと思うんだ。

222 :穴秋 陰 座 遊毛絵:2007/11/15(木) 12:38:54 ID:BrS/4xSM
求道も全て阿弥陀様のお働きによりました、っつうのなら問題ないんではないかい?

要するに、こちらから仏になる要因など全く無いとしてれば問題ないんだよ。
みんな阿弥陀様のおてまわしって言ってりゃそれでいいのよ。
求道の文字を使う使わないなんてのは、枝葉の問題だと思うよW

223 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 13:27:37 ID:gUnPBlKc
>222

求道=阿弥陀様のお働き?

>> 215は、こういう意味になるのか

 774の書き込みぜんぜん阿弥陀様のおてまわし
にならへんw それどころか親鸞さえ和讃やらで阿弥
陀様のおてまわし上のアドバイスやってんねんで?

 774が、阿弥陀様のおてまわしをするとなると、774は、
阿弥陀様のお使い。? 観音菩薩か勢至菩薩の化身?。
親鸞さえと言っているから、親鸞聖人の生まれ変わり以
上の聖者だと思ったか?。

 面白い奴だなぁ。


224 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 14:53:12 ID:cAqNMfA6
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

225 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 16:14:56 ID:BrS/4xSM
>>223

要するにさ、求道ってのは、突き詰めたら、仏になりたい、悟りを求める事だろ。
そんなもん、俺の中から湧いては来ない。
もし、湧いてきたなら、それは阿弥陀様のご本願が、
俺に働きかけたから、そういう思いが湧いて来たんだろう、
と俺は思う。

親鸞さんが化身土文類で、三願転入を言われてるのは、
自分の比叡山での修行時代も、みな阿弥陀様のご本願の
お導きだったと言われてるんだと俺はとらえてるよ〜ん。

226 :神も仏も名無しさん:2007/11/15(木) 16:36:00 ID:BrS/4xSM
ご本願に転入させるための、ご本願のお導きであり、おてまわしって事だよ〜ん。

227 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 04:50:34 ID:tjZ+nKX9
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

228 :7:2007/11/16(金) 09:06:42 ID:OcrScTUK
おひさ。たまには見てます。774さんは勘違いしやすい部分への指摘が厳しい方だとお見受けします。感謝してます。

確かに私という泥凡夫の、どこをとらえて求道なんて言えるでしょうか。そう考えると、法座など、何しに来たのか聞かれると言葉に詰まります。
信心決定しにきました。ハァ?!後生の一大事を解決しにきました。後生とも一大事とも思っていないでしょ?返す言葉もナッシング。
ただ、なんとなく来ました。カエレ。いったいオイラ、どうすりゃいいの。

229 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 10:55:00 ID:67eKco7K
ただ、ご聴聞に参りました、と言えばいいでしょ。
そんな禅問答みたいな事言う浄土真宗の住職なんていないよ。
ようこそようこそ、ようお参り下さいました〜ってお迎えして頂けるよ。

230 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 11:48:41 ID:VAtCvDBw
>228
>法座など、何しに来たのか聞かれると言葉に詰まります。

 おのおの十余か国の境を越えて、身命を顧みずして、尋
ね来たらしめ給う御志し、一重に往生極楽の道を問い聞か
んがためなり。

 求道は何か。目的は何か。原点は決して見失いたくないものだ。

231 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 11:49:42 ID:VAtCvDBw
>230
   あげ


232 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/16(金) 12:36:03 ID:VAtCvDBw
 追加したくなった。

 往生極楽の道とは何か。
「出世間道」と名づく。「上」は、妙なるがゆえに、名づけて「上」とす。「入」は、
正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入る。

 親鸞とは決別し、独自の道を歩む人には求道などはありえない。

233 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 21:54:12 ID:VAtCvDBw
 一盲(774)、衆盲(7,221,222,229)を率いて火抗に墜つ

 教化するひと(774)、(求道して)まず信心をよく決定して、その
うえにて聖教をよみ語らば、聞く人(7,221,222,229)も信をとるべし。

234 :神も仏も名無しさん:2007/11/16(金) 22:21:00 ID:HCMID/UF
>>230-233
渡海のおっさんは二度と来るな!
スレが汚れるから。

235 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 02:56:23 ID:uVUe7hyN
なんやこれ、おもろいな。娑婆で十八願を聞ける人ってどんだけおれんろな。
真の念仏行者は往相還相の利益を得て衆生済度が使命になるのだが、
娑婆で人に聞かすのはとっても難しいです。皆さんみたいな人と
出会い教えてあげたいです。なかには真剣に考えておられる方もいるの
でしょうから、ただここでは限界がありますが。全国に地蔵さんや観音など
多くの菩薩方が像に宿ってます、手を合わせご縁を願ってください。
決して虚しい事ではありません。私は十一面観音像の上にある阿弥陀如来
は観音様が我に頼まず弥陀に頼めという云われと聞いてます。

236 :毎度 難:2007/11/17(土) 06:37:04 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

237 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 10:17:46 ID:VdHHLuUW
 ややしつこいようだが、求道という姿勢は親鸞仏教で重要な概念だからもう少し書きたくなった。
 求道と言われて聖教の根拠を示せと言われれば、最右翼に掲げる言葉があった。歎異抄は最右
翼から二番目だろう。一番は次の言葉だ。

 穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣
を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ(序文)。

 求道とは、「最勝の直道に帰する」ということだ。最勝の直道に帰するとはどういうことか。
「専らこの行に奉え、ただこの信を崇める」ということだ。

 専らとは、専一にと言う意味だ。他を捨てて、一つだけを選び、それを実践するということだ。
歎異抄第二章のただ念仏とは、専一に念仏を選び、専一に念仏を称えていくということである。
「専ら・ただ・専一」とは、二ではないということだ。三でもない。実践という点では、一以外
の他を捨てるという意味もある。

 「信を崇める」とはどういうことか。「真宗の教行証を敬信する(序文)」という意味だ。真宗と何か。
念仏成仏これ真宗(行の巻)。
 信を崇める敬信とは、念仏成仏の教えと、教えのままに専一の念仏成仏の教えを実践することと、
念仏成仏を具現するということ。この三者を一体にして尊いもの、大事なものと受けるということだ。

 信の対象は、教と行と証である。教と行と証であるというとは、阿弥陀仏ではないということ
も大事なことだ。阿弥陀仏を信じるのではなく、教・行・証を敬信する。
 これが最勝の直道に帰するということであり、求道ということだ。往生極楽の道だ。

 774さんはよく味わってみるといいだろう。229さんはお寺さんのようだ。求道とは禅問答ではな
い。「お前は何しに来た?」と言えるような自信のある坊さんになるといいだろう。

238 : ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/11/17(土) 10:33:12 ID:baiHMNjU
     /´" ̄⌒⌒ヽ,,〜
    /     ∧    \〜
   彳丿; /,,,,,,,,\ u lヽ
   入丿 -◎─◎- ;ヽミ.  ・・・っと
    | u:.:: (●:.:.●) u:.::|
    |  :∴) 3 (∴.:: |
    ヽ、   ,___,. u . ノ、
     ヽ:.___;;;;;;;;;;___.ノ
   /      | ̄|´     \
  (      .ri_l      ヽ
   \   >!、_彡
     \   /

239 :毎度 難:2007/11/17(土) 11:08:50 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

240 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 12:22:29 ID:uVUe7hyN
え〜な良レスに戻ってま!妙好人さんや関西弁の方もどってきて、渡海 難って
頭悪そうな方ですね、本だけの知識みたいに感じますが、阿弥陀仏あっての
教・行・信でしょうが、信の対象は間違いなく阿弥陀如来ですよ。
だいたい阿弥陀仏と教・行・信を分けてどっちが信の対象というわけの
わからん解釈する方って現代風なんか?

241 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 12:50:47 ID:nlh96azf
>>240
キチガイ渡海難は無視すればいいんだよ。

242 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:25:10 ID:VdHHLuUW
>240
> だいたい阿弥陀仏と教・行・信を分けてどっちが信の対象というわけの
> わからん解釈する方って現代風なんか?

247 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:2007/10/15(月) 10:52:40 ID:Y1IVr1Lo
 のたまわく、南无の字は、聖人の御流儀に限りて、遊ばしけり。南無阿弥陀仏を泥にて写させ
られて、御座敷に掛けさせられて、仰せられけるは、不可思議光仏・無碍光仏も、この南無阿弥
陀仏をほめたもう徳号なり。しかれば、南無阿弥陀仏を本とすべしと、仰せ候なり(蓮如聞き書
き)。

 蓮如上人は言われた。南无という字は親鸞聖人の流派だけが使用している。普通、阿弥陀仏の
号(名前)は阿弥陀仏である。名号を掛け軸に書いて飾る場合、阿弥陀仏と書く。しかし、親鸞
聖人の流派だけは南無阿弥陀仏と書いて飾る。蓮如上人は南無阿弥陀仏と名号を金泥で書写し、
それをお座敷に飾った。そしてこのように言った。
 善導大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。法然上人はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。曇鸞大師はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。お釈迦様はどうして偉かったのか。南無阿弥陀仏は尊いぞと教えてくれたから、偉か
ったのだ。
 不可思議光仏・無碍光仏、いずれも「南無阿弥陀仏は尊いぞ」と称賛するための徳号(名前
〔道具〕)である。阿弥陀仏〔道具〕が尊いのではない。道具が示す南無阿弥陀仏が尊いのだ。
だから、もっとも尊い南無阿弥陀仏を掛け軸に書いて飾るのだ。

243 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:26:01 ID:VdHHLuUW
248 名前:渡海 難  ◆Fe19/y1.mI 投稿日:2007/10/15(月) 10:54:10 ID:Y1IVr1Lo
 無上仏と申すは形もなくまします。形のましまさぬゆえに、自然とは申すなり。形ましますと
示すときには、無上涅槃とはもうさず。形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞
き習いて候う。弥陀仏は、自然の様を知らせん料なり(親鸞 末燈鈔)。

 無上仏は形而下(有形)の存在ではない。形而上(無形)の存在である。架空である。観念で
ある。形而下の存在ではないからこそ、自然という概念が導かれてくる。形があれば無上涅槃と
は言わない。観念的・抽象的あり方を明らかにするため、一番最初に比叡山で阿弥陀仏というも
のの講義を受けたとき、阿弥陀仏というのは、自然という概念を教えるための資料であり。道具
である。方法論であると教わりました。

244 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:35:34 ID:VdHHLuUW
 桃太郎さんを信じることが大事なんじゃないんだ。桃太郎さんは人々に、悪いことをし
てはいけない。いいことをしなさいという、人の道を教えるための資料なんだ。桃太郎さ
んは架空なんだ。道具なんだ。

 正しいことをしようという教え、それに従って正しいことを行うという行動、正しいこ
とを行って得られる幸せ。この三つが大事なんだ。桃太郎さんを信じるということは意味
がない。教と行と証とを心に秘めていくということが大事なんだ。

 桃太郎さんと、桃太郎さんの教・行・証とはしっかり分けて考えていこう。

245 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/17(土) 13:39:40 ID:VdHHLuUW
 数日間カキコ不能の予定。

246 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 18:11:39 ID:uVUe7hyN
240です。基地外といわれる所以がわかりました、まさに信に迷った方が
おっしゃる言い方ですね、そういった難しい解釈をしなくとも名号に教・行・信
がこめられているのを解っているからこそ南無阿弥陀仏だけでいいんです。
ゆえに信の対象は阿弥陀仏でしょうが、そんな学者みたいな解釈は必要ない
のです、渡海 難のいいたい事もわかるけど、浄土往生にまったく役に
たちませんよそんな知識は。念仏行者(信を得た人)は信を得た後に自ずと
十八願の云われをしみじみと味わう方がほとんどです、ですからよき人(行者)
に誘われてなにもしらずとも十八願の御座にあわせていただく事こそもっとも
大事な事となるのです。




247 :サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2007/11/17(土) 18:19:53 ID:W4YsgMHu
つまり
キチンと信心しなきゃ救われないんですね

ていうか信が重要ですか?
上の空のお念仏は駄目ですよね?

248 :月見うどん ◆GQVAicDWLY :2007/11/17(土) 19:02:49 ID:PWhmumPN
その信すら与えられるもので、自力で得るものではない。

徹底的な他力。

249 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 19:18:15 ID:xLuhdI3+
勝利を掴むには他力本願じゃダメなんです。自力本願でないと。

250 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 20:05:07 ID:pdeHetXB
>>247
だめです。
でも信じるためにこちらから能動的に動かないのはもっとダメです。

251 :毎度 おおきに:2007/11/17(土) 20:19:57 ID:XJZ+HiNZ
ヾ(*´∀`*)ノキャッキャ

252 :サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2007/11/17(土) 20:23:01 ID:W4YsgMHu
>>250
そうですか
決して受動ではないのですね

253 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 21:58:13 ID:Igb5j/EM
勝利ってなに?現世利益?

254 :神も仏も名無しさん:2007/11/17(土) 22:51:31 ID:XJZ+HiNZ
>>253うん

255 :7:2007/11/18(日) 09:31:11 ID:CXciZxWU
俺、信心決定したら、この世の苦しみが楽になるかと思ったけど、どうもそうでは無いんだね。
極楽浄土、そんな清浄な世界を求める心なんて俺にはありゃしないが、どうすりゃいいんだ。
ただ、苦しみに満ちたこの世が嫌なだけ。ただ、この世に刹那の快楽を求めてそれを繰り返すだけ。
迷い惑うて、何かを信じる心もころころ変わるだけ。真宗にこそ解決の道がある、と思ったけれど、
それがただの早合点に過ぎないかも知れないと思えば、ますます不信が深まるばかり。
仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。何を、どのように、求めていくべきか。
本当に求まるのか。今までの思いは一時の熱病がごとく冷めてしまい、ただ呆然とする自分がいる。
虚しいやら、切ないやら。欲しいのは、現世利益。目先の快楽。この今という一瞬の充実、満たされた思いが欲しい。
死ぬとどうなるか、サッパリ分からない。自分が何に迷うているのかも、自分の本心も、もう分からない。
口先ばかりだ。先延ばしとその場しのぎがあるだけだ。頭の中の説法道場で、思考遊戯を繰り返す。
信心決定?南無阿弥陀仏?聞いても、覚えても、思っても、考えても、どんどん遠のいていく気がする。
やりきれない。

256 :7:2007/11/18(日) 10:39:05 ID:CXciZxWU
信心決定した世界。この世の苦しみは、因果の道理。痛みや悲しみが無くなる訳がないことは、分かる。
しかし、平気になるんじゃないか、とか、思ってしまう。
獲信者と断言される方、念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。
しかし、話をすると、何だか悔しいやら腹が立つやら。その心がどんな精神的世界に住み、どんな境地にあるのか、サッパリ分からない。
何を言っても間違っている気がして、心を閉ざしていく自分が居る。そして、居場所はない。
もとより信心のあるなし、三業では判断できないとなれば、自身で己の心を見ることも、三業による判断に頼りすがっているわけだ。
虚しい。俺は未信の者だと思う。これは自身の三業による判断だ。どうしてもそうなる。大バカモノ、言われてケッコウ。
俺は本当に求道する気があるのか?何を求め、何を道だと思っているのか。全て振り出し。振り出しに戻れ、のコマに停まってばかり。

257 :774:2007/11/18(日) 12:07:33 ID:79+gDoF3
>256
時間ができたので、少しだけ。凡夫の精神的境地など、真宗は相手にしません。
阿弥陀如来が必ずあなたを苦しみ迷いなき浄土に参らせる、
それだけです。あなたが参りたいと言おうが、参りたくないと言おうが、
有無も言わせません。阿弥陀如来は必ずあなたを一切の苦悩なき浄土に参らせる。
一切の苦悩を引き受ける仏となさしめる。真の智恵と慈悲に基づく喜びを獲させる。
間違いの欠片さえない、一切智者のお約束です。凡夫の約束とは雲泥の差ではありませんか。
聞いて間違いなく決定するのではなく、間違いない決定を聞く、それがご当流です。


258 :7:2007/11/18(日) 12:33:05 ID:CXciZxWU
>>774様 レス有難うございます。
 その、聞くということも分かりません。まさか十劫安心の方ではないでしょう。
 確かに阿弥陀仏の本願は、全ての人を救うお約束だと聞いております。
 しかし、救われたと喜ぶ人、求まらないと言って悩む人、全ての人が救われていないのが現実じゃないですか?
 そりゃ、宿善が違うから、と言われたらそれまでですが。
 自分は、全然、聞けない。何度も聞こうとする、聞いて解決しようとする、これは全て自力ですか。
 ならば、無為に過ごすべきなんでしょうか?仏法を聞きに言ったりする自分も如来のお手回しと聞きますが、この心には、他力の他の字も見当たらないのです。

 それに、信心決定後に、あの頃信心獲得したいと言っていたのは全く口先だけだった、と振り返る方がありましたが、
 そんなこと、決定後だからこそ言えることですよね?今何を言っても口先だけになるから、何も言いたくない、と諦めるのとは違うんですよね?
 今は、必死に求めよと?

259 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 13:30:08 ID:uB5M0xmi
なかなか深い対話だと思う

260 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 14:37:45 ID:vLRf/GaX
>259
 外に言うことはないの?


261 :774:2007/11/18(日) 14:53:24 ID:79+gDoF3
>258
必死になった人が聞こえるように、南無阿弥陀仏は仕上げられているのでしょうか。
一切智を獲、自利利他が完成している仏の立場から見られたら、私ども凡夫はどのように写るのでしょう。
仏は、私をどのように見、利他の立場から、救済するにはどのようにしなければならないと
思惟されたのか?そこを問いたずねてみたらいかがでしょうか。
試みに如来の立場から、考えてみたら、ということです。
次に、あなたの抱いている十劫安心の定義とは何ですか?前にも話にあがり、
説明させていただいた覚えがあるのですが。私の解釈が間違っているのならば、
あなたが定義している十劫安心の考え方とは如何なるものなのか教えて下さい。


262 :774:2007/11/18(日) 15:06:57 ID:79+gDoF3
南無阿弥陀仏
私を離れた如来なし
如来を離れた私なし
響流十方大正覚
二利円満の不思議哉
こういう如来になろうというのが本願であり、また本願力である
その如来様が南無阿弥陀仏である
仏法は易中の易、こんな易いものであったのか
知解分別のことばを聞くな、他の人のありがたいすがたを見るな
妄念は凡夫の地体なり
妄念の外に別に心は無きなり
自分の心は刹那刹那に変化する、流水に描いた画のようなものである
どんな心になったら助かるのか
なっても、また変わるぞよ
どんな心持ちになりたいと思うておるか
なっても、地獄へ落ちるぞよ
どんな心も、如何なる心持ちもあてにするな
凡夫というものは箸にも棒にもかからぬものである
親様がなぁ あればこそ
稲垣瑞劔師『大信海』


263 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:28:50 ID:2SWBM4fN
7サンへ、その、聞くということも分かりません。当然だとおもいます。
それは言うにいえぬ訳があるからです。あなたがお会いした獲信者と断言される方、
念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。 といいますが本当に
信を得た方はそのように言いませんよ。なぜなら言ってはいけないからです。また
このように言うと外道だと非難する方がわいて出てくるのを承知で言っていますよ。
故にみなさんは迷うのです、また誤解されそうな事をいいますが、現在の信宗の坊さん
に知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
いないのです、親鸞聖人より平民に分授されているからです、ただし蓮如さんは例外ですが
このことは本当はこのようなところに書いてはいけないのですが、7さんのような方がいる
からつい我慢できず書き込みました。このことをどのように捉えるかはみなさんの
自由です、わたしがいえることは例を挙げると近くの地蔵さんや観音様にどうか十八願のご縁
を授かるようにと手を合わせてください、断言します必ず虚しいことではありません。
たとえ娑婆でご縁に会うこと事がなくても心から願うような方は死後、生前お参りした如来・菩薩
方は放っておきませんから虚しい事では決してありません。このことに関してからかう
ような方は相手にできませんので勘弁してください。

264 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:53:51 ID:rBbn2vW1
親の大恩十種を忘れないようにしましょう。

仏教では殺るよりも、劣らぬものは思う罪といわれ、心で殺すとは、ひとつ屋根の下に暮らしていながら、ろくに口も聞かず、食事も別々に取り、呼ばれても聞こえないふりをして、親を邪魔者扱いするのは、心で親を殺しているのです。



265 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 16:57:50 ID:uZA5LYzV
子供作る奴が一番子供の事を考えていない!11
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/jinsei/1184560140/

266 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 17:40:25 ID:vLRf/GaX
>264
道徳の押し付け・売り

267 :774:2007/11/18(日) 18:21:06 ID:79+gDoF3
>263
土蔵秘事系ですね。未だに現存しているのでしょうか?
非常に興味深いです。善知識を特定の人物と取り、その資格が相続されていくという宗旨ですね。
問題点は、善知識の定義にお聖教上の根拠がない。
お聖教の一部だけを取り出して、
他のお聖教との比較検討をしない(断章取義)ため、矛盾が発生する。
真宗は秘密主義ではないのに、秘法が存するかの如く説く。
江戸時代、寺社奉行の摘発対象とされましたが、この情報社会に、
現存しているというのは、ある意味、すごいことだと思います。
人間の欲求と、それに基づく行動は、昔も今も大差なく、
現代人が精神的に成長してきたかと言えば、そんなことはないと思い知らされますね。
智恵を重視してきた仏教の伝統と言うのも、実に大切なことだった、
とも思いました。

268 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 18:28:34 ID:UWupbbv2
>>266=260=渡海難

お前も押し売りと同じだけどな

269 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 18:50:08 ID:TQ0arCwU
熱心な人が多いですね。

270 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 19:47:35 ID:rBbn2vW1
>>266

親を大切にしないと因果応報で自分に帰ってきます。



271 :神も仏も名無しさん:2007/11/18(日) 22:37:22 ID:6mAdUDHC
南無は帰命、帰命の帰は至る、命は召す、と親鸞
は釈しているから、阿弥陀仏=無量寿光
の仏に召し至らせる意味となる。

南無阿弥陀仏の名号は、阿弥陀仏が衆生
の為に姿を変えて現れた方便法身だから、
南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に召し至らせる
仏とも言える。

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏が姿を変えたもの
だから、南無阿弥陀仏はそのまま無量光寿
の徳を持つ。
阿弥陀仏はまた、浄土全体が阿弥陀仏の
身体であるから、南無阿弥陀仏はそのまま
無量光明土とつながる光明の一筋とも言える。

南無阿弥陀仏の名号以外に、浄土真宗の信心は無い。

272 :7:2007/11/18(日) 23:48:26 ID:uCCH4rra
土蔵秘事はご勘弁願います。オープンな姿勢でないと自分のような臆病な人間は近寄ることすら出来ません。

十劫安心、僕もよくは知りませんが、阿弥陀仏が五劫思惟された本願は成就されてから既に十劫という時間が経過したと聞いていますが、
その時に、既に全ての人が救われた、と解釈する安心でしょうか。この世でハッキリするも何も、もう既に救われていると。
そういう考え方なのかなぁ、と。つまり、信の一念を無視しているんじゃないか、と。

>>774様、262のレスに何とも心が惹かれます。稲垣瑞劔師『大信海』、自分が今あてにしようとしているものをバッサリバッサリ。
 どうしても救いの構造、システムや理論ばかりが気にかかり、他人が喜んでいる姿ばかりが気にかかり、自身の妄念を嫌い無くそうとし、
どんな心になったら助かるのかと思案し、どんな心境が訪れたら信心決定かと想像するばかり。
 今の自分の姿です。箸にも棒にもかからない・・・このあたりまだ自分は懲りていないというか読み流す余裕があるようです。ため息。

273 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:51:15 ID:JK9Ue91K
>>246
 渡海難です。240が基地外といわれる所以がよくわかりました。まさに信に迷った方がおっしゃ
る言い方ですね。

 桃太郎さんが架空の存在ですって?。そう言った学者みたいな難しい解釈をしなくても、南無桃太
郎さんというお名号には、正しいことをしなさいという教・正しいことをするという行為・正しいこ
とを信じる信の三つが込められているんですよ。そういうことが分かっているからこそ、「南無桃太
郎さん」だけでいいんですよ。
 ゆえに、信の対象は桃太郎さんでしょうが。桃太郎さんは架空だとか、桃太郎さんと、桃太郎さん
の教・行・証とを分けなさいなどと、そんな学者みたいな解釈は、私たちには必要がないのです。
 桃太郎さんは宇宙の中心なんです。桃太郎さん天国に実在する永遠の命です。

 渡海難がいいたいことも分かるけど、桃太郎さん天国に行きたいなら、渡海難がいうようなことは
全く役に立ちませんよ。桃太郎さんは架空の存在だとか、桃太郎さんと、桃太郎さんの教・行・証と
を分けなさいなどとか、そんな知識は全く役に立ちません。
 正しいことをする人(正しいことをしなければいけないという思いを持った人)は、そういう思い
を持った後に、自ずと桃太郎さんの御本願の云われをしみじみと味わう方がほとんどです。
 桃太郎さんは、おじいさんと、おばあさんに御本願を立ててくださいました。自分が大きくなった
ら、必ず鬼退治に行こう。鬼をこの世から無くそう。鬼がこの世にいる限り、自分は大きくならない
うようにしよう。桃太郎さんはそう御本願を立ててくださいました。そして立派に鬼退治をしてくだ
さいました。
 ですから、講談社など、絵本を作ってくれているよき人(正しい人)に誘われて、何もしらずとも、
「鬼退治をしてくるぞ」という桃太郎さんの御本願のお話の場にあわせていただく事こそ、もっとも
大事なことなのです。

 ああ〜、桃太郎さん桃太郎さん。お腰に付けた吉備団子、一つわたしに下さいな。なんという素晴
らしい心でしょうか。

274 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:56:58 ID:JK9Ue91K
>>247
> 上の空のお念仏は駄目ですよね?

 十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

 「十方微塵世界」 十方とは、東・西・南・北・北東・北西・南西・南東・上・下をいう。微塵世
界とは、小さな塵のように無数にある世界を云う。
 パン屋さんの世界でも、おそば屋さんの世界でも、警備員さんの世界でも、お巡りさんの世界でも
いいんだ。無数にある様々な世界にいる念仏の衆生をしっかり見守り、選び取って下さる。決して捨
てることはない。そういう意思と働きとを阿弥陀と名付けてお呼びする。
 その中には、信心が無くて称えている人もいる。上の空で念仏を称えている人もいる。そういう人
全てを、摂取して捨てない。それが阿弥陀仏なんです。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する
 定善自力の念仏でもいい。散善自力の念仏でもいいんだ。定善自力はだめ、散善自力の念仏はだめ、
念仏を疑ってはだめ、などとそんなことを最初から言えば、だれも念仏などは称えられないだろう。
 最初はだれでも、おそるおそる、こわごわ、心配しながら称えていくんだ。果遂のちかい、つまり
結果としては必ず遂行するぞ。結果を見てくれ。結果としては必ず救っているぞという、仏の誓いに
帰する。つまりそれを信頼し、定善自力の念仏、散善自力の念仏を称えていってごらん。そうすれば、
誰からも教えられなくても、自然に、最終目的地である真如の世界に入っていくだろう。
 定善自力の念仏・散善自力の念仏、ここが真門である。真実に至る門である。入口である。この門
を進めば、やがて真如の門つまり紛れもない真実の世界に至る。

 安楽浄土をねがいつつ 他力の信をえぬひとは 仏智不思議をうたがいて 辺地懈慢にとまるなり

275 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 10:57:57 ID:JK9Ue91K
 ところが、安楽浄土を願いつつ、真門に入って最終的には真如の門を求めつつ、それでもなかなか
他力の信が得られない人がいる。念仏だけでいい。これだけでいいという安心感が得られない。念仏
だけでいいという教えに、全幅の信頼を寄せられない。そういう人がいる。われわれの次元を越えた
先人の深い考えに疑いをもつ。こういう人は、先人の心と意識にズレがある。考え方にズレがある。
つまり、考える必要がないいらんことをいろいろ考え、先人と考えが噛み合わない。つまり、辺地懈
慢にとまる。

 仏智の不思議をうたがいて 自力の称念このむゆえ 辺地懈慢にとどまりて 仏恩報ずる心なし

 念仏だけでいいんだというのは、先人の深い深い考えによっている。その深い深い考えがなかなか
分からず、浅はかな自分の考えで即断をし、念仏をしながら、いらんことに色々と気を回す。念仏に
腹が据わらない。こういう人には、深い考えを持ってくれた先人に対し、感謝の心も涌いてこない。

 自力称名の人はみな 如来の本願信ぜねば 疑う罪の深きゆえ 七宝の獄にぞいましむる

 ああでもない。こうでもない。様々に自分の浅はかな考えをめぐらし、ああではいかん、こうでは
いかんと、分別する。念仏を称えたり、称えなかったり。先人の深い深い考えをすっぽかし、浅はか
な自分のかんがえを優先する。こういう人は、「念仏する人は全て救うぞ」と言っている先人の深い
心がなかなか理解できない。結局自縄自縛の世界に止まってしまう。

 仏智の不思議を疑惑して 罪福信じ善本を 修して浄土を願うをば 胎生と言うと説きたまう

 ああでもない。こうでもない。様々に自分の浅はかな考えをめぐらし、ああではいかん、こうでは
いかん。ああなりたい、こうなりたいと、思いながら、念仏を称えたり、称えなかったり。そういう
人は、自分の殻を破れないで胎生という子宮の世界から生まれ出ることができないでいる。

276 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 11:07:54 ID:JK9Ue91K
 それでは、そんな念仏はではだめなのか。定善自力の念仏ではだめなのか。散善自力の念仏ではだ
めなのか。そんなことはないんだ。初心者は、みんなそこから始まるんだ。

 辺地の往生を遂ぐる人、ついには地獄に堕つべしということ。この条、いずれの証文にみえそうろうぞや。

 辺地の往生はだめ。胎生だめ。七宝の獄はだめ、そんなとこに行けば、やがて地獄に堕ちるぞとい
う人がいる。それはとんでもないことだ。辺地の往生すれば、やがて地獄に堕ちるというなら、そん
なことが書いてある証文を見せて貰おうか。

 辺地の往生しかできない人がいる。胎生しかできないひとがいる。七宝の獄にしか至れないひとが
いる。そういう人が摂取から漏れるなどと言うことは決してないんだ。

辺地に生じて、疑いの罪を償いて後、報土の悟りを開くとこそ、承り候え。

 辺地の往生しかできない人がいる。胎生しかできないひとがいる。そういうひとはいったん辺地に
往生し、つまり先人の価値観とズレた価値観世界に往生し、やがてその中でずれた価値観が是正され
ていく。先人と同一の価値観世界に入っていくだろう。

 いきなり、先人の深い価値観と一致する世界に至る人は非常に少ない。だからこそ、いったんは、
少々価値観がずれた世界にとりこみ、そこから徐々に変わっていく。
 価値観がずれた世界で、正しい世界をしっかり学んでいけば、おしえざれども真如の門に転入する。

 (価値観がずれた世界でいいから、いちど入ってみなさいなと、親鸞は)化土に多くすすめ入れら
れそうろう。定善自力の念仏でもいい。散善自力の念仏でもいいと、親鸞聖人が言っているのはそう
言う意味だ。辺地の往生をすれば、ついにむなしくなる。つまり、定散自力の念仏は全く意味がない
というのは、如来は嘘を言っていると吹聴しているのと同じ事である。

277 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 11:09:47 ID:JK9Ue91K
>>253 現世利益?
>>254 >>253うん

 必ず現生に十種の益を獲。何者か十とする。
 一つには冥衆護持の益、   二つには至徳具足の益、
 三つには転悪成善の益、   四つには諸仏護念の益、
 五つには諸仏称讃の益、   六つには心光常護の益、
 七つには心多歓喜の益、   八つには知恩報徳の益、
 九つには常行大悲の益、   十には正定聚に入る益なり。

現世利益和讃 (親鸞 作)  
 阿弥陀如来来化して 息災延命のためにとて  金光明の寿量品 説き置きたまえる御法なり
 山家の伝教大師は 国土人民を憐れみて 七難消滅の誦文には 南無阿弥陀仏を称うべし
 一切の功徳に優れたる 南無阿弥陀仏を称うれば 三世の重障皆ながら 必ず転じて軽微なり
 南無阿弥陀仏を称うれば この世の利益際もなし 流転輪回の罪消えて 定業中夭除こりぬ
 南無阿弥陀仏を称うれば 梵王帝釈帰敬す 諸天善神悉く 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 四天大王諸共に 夜昼常に護りつつ 万の悪鬼を近付けず
 南無阿弥陀仏を称うれば 堅牢地祇は尊敬す 影と形とのごとくにて 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 難陀跋難大龍等 無量の龍神尊敬し 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 炎魔法王尊敬す 五道の冥官皆ともに 夜昼常に護るなり
 南無阿弥陀仏を称うれば 他化天の大魔王 釈迦牟尼仏の御前にて 護らんとこそ誓いしか

 現世利益には、信心がなければいかんとか、定善の念仏ではいかんとか、散善の念仏ではいか
んという条件は全くないことに気がついて欲しいものだ。

>> 256 以下のコメントは後日

278 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/19(月) 12:34:26 ID:JK9Ue91K
>250
>でも信じるためにこちらから能動的に動かないのは
もっとダメです。

 定善自力の心、散善自力の心。そのこころでしっか
りと念仏を称えていく。そこが入口なんだから、真実
への門なんだ。
 安心して、安心して自力の心で称えていく。能動的に
称えていく。初心者はそのように腹を固めて進んでい
こう。そういうことですよね。

 そうすれば、信の方が後ろから息せき切って追いか
け来てくれる。向こうの方から追いかけて来るというの
が他力の働きだ。

 おしえざれども真如の門に転入する。

279 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 14:13:15 ID:SI051L29
ニート海難のせいでこのスレ終わったな

280 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 20:12:30 ID:JK9Ue91K
>>235
>真の念仏行者は往相還相の利益を得て衆生済度が使命になる
     はて?聞いたことがない? 衆生済度が使命になる?。仏の仕事を横取りするのか?

>全国に地蔵さんや観音など多くの菩薩方が像に宿ってます、手を合わせご縁を願ってください。
    石にお狐さんでも憑依しているのかな。夜中にコーン、コーンと鳴くお地蔵さんを見てみたい。


>私は十一面観音像の上にある阿弥陀如来は観音様が我に頼まず弥陀に頼めという云われと聞いてます。
     十一面観音像のてっぺんにある像は、阿弥陀如来なの?。知らなかったなぁ。

281 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 20:15:15 ID:I9St5+9r
>>280=渡海
名無しでカキコするなよ。他で自作自演やってるのか?

282 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 21:12:27 ID:13arZY1P
>>278
補足していただいて
ありがとうございます。

283 :神も仏も名無しさん:2007/11/19(月) 23:39:58 ID:xyGb6SqA
>>282
基地外オヤジに礼を言う必要なし。

284 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:07:56 ID:rutf5cal
>280
はて?聞いたことがない? 衆生済度が使命になる?。仏の仕事を横取りするのか?

 誤解があっては困るので、思い出した内に付け加えておこう。非常に大事なところだ。

 悪を好む人にも近づづき、善をせぬ人にも近づきなんどすることは、浄土に参りて後、
衆生利益に返りてこそ、さようの罪人にも親しみ近づくことは候え。それも、我が計らい
にはあらず。弥陀の誓いにより、かの御助けによりてこそ、思うさまの振る舞いも候らわ
んずれ。当時は、この身共の様にては、如何候うべからんと覚え候。

 今、多忙。 コメントは後日します。大事なところだ。

285 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/20(火) 15:08:46 ID:rutf5cal
>284
 ↑ は渡海難です。

286 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:31:07 ID:PNTsiOla
>>284-285
やっぱり>>280は渡海難だったか。
お前が来るだけでみんな迷惑するから二度と来ないでね。

287 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 15:49:29 ID:x86xbwBA
>>284
ようするにトウミには近づくなということか。
それは仏さまのお仕事だから。
仏さまもたいへんだにゃー

288 :774:2007/11/20(火) 18:27:16 ID:TD81HACt
>272
稲垣瑞劔師『大信海』のつづきです。
親というものはありがたいもので、
どんなことをしても憎んでは下さらぬ
よう捨てて下さらぬ
親様がなぁ、あればこそ
仏法の極意も、安心の奥義もこれ一つ
あとのことは言うも行うも妄念ばかり
自力の凡夫心である
南無阿弥陀仏という如来様は、私を心のうちに、身のうちに、腕の中に抱いていて下さっておる
これ以外の如来なく、南無阿弥陀仏もない
それで和讃に曰く
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
信じように力みを入れるな、はからうな
お助けに間違いないことをいただくばかりである


289 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 18:53:04 ID:aBL+3pOj
渡海難に「来るな」とまでは言わない。
突拍子もないことばかり言うが真宗や親鸞が大好きなことは確かだろうし。
でも渡海流仏教・真宗論の披露や自説への教導だったら親鸞質問箱スレやHPでやってほしいな。
ここは旧来からのの真宗教学に基づいた「妙好人」についてのスレと思うし。

290 :神も仏も名無しさん:2007/11/20(火) 22:24:12 ID:52z26b5h
我こそは!
みたいなのを我執と言うのでしょうか
我執の塊のような人ですね

291 :7:2007/11/20(火) 23:36:31 ID:Cbt7814z
信心獲得したら自分が我執の塊であることを知らされるわけだろ?
だから我執が無くなるとか、減るとか、慎むようになる、わけじゃなかろーに。

292 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:39:21 ID:OGm9BTha
>>255
>信心決定したら、この世の苦しみが楽になるかと思ったけど、どうもそうでは無いんだね。

 貴方が苦というのは、釈迦が言った苦集滅道の苦、四苦八苦の苦を言っているんだろうと思う
が、そこで釈迦が「苦」と定義したものと、貴方が「苦」と思うものとが一致しているかどうか
分からんよね。
 釈迦が「苦」と定義したものは仏道で「楽」になるだろうが、貴方がいま「苦」と思っている
ものが釈迦の言う苦と違っていれば、果たしてそれで解決するかどうか、それは分からん。
 釈迦には釈迦の専門がある。釈迦が専門家として一生を賭けた問題が、今の貴方の中で「苦」
という認識になっているのかどうか。恐らくそんな風にはなってないんじゃないか。


>極楽浄土、そんな清浄な世界を求める心なんて俺にはありゃしないが、どうすりゃいいんだ。

 求める心がないなら話は簡単だ。求めなければいいだけじゃないか。求める心が無いのに求め
なければならんとなれば、これは苦しみだ。求める心が無くて求めても解決はない。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをせざらんこそ、世を厭い、念仏申すことにては候に、年頃、
念仏をする人なんどの、人のために悪しきことをもし、また、言いもせんは、世を厭う徴もなし
(消息集)。

 浄土を求めよう。穢土を離れよう。親鸞が言っていたその本質は、この世の悪いことを捨て、
よりよいことをしていこうという提案に他ならない。ここをきちんと理解していく必要がある。
 悪いことをしてもいい。いいことをする必要がない。そんな風に誤解している人に対して親鸞
は言う。


293 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:41:45 ID:OGm9BTha
 凡夫なればとて、何事も思う様ならば、盗みをもし、人をも殺しなんどすべきかは。もと、盗
み心あらんものも、極楽を願い、念仏申すほどのことになりなば、もと僻うだる心も、思い直し
てこそあるべきに、その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず
候。

 凡人なんだから、どんな悪い心でも起きてしまい、泥棒でも人殺しでもしてしまうものだ、と
いう人がいるが本当にそうなんだろうか。以前は平気で泥棒をしていた人が、極楽を願い、念仏
を称えるようになれば、歪んでいた心を反省し、立ち直っていくというのが普通だと思います。
もしその兆候もないよう人に、「悪いことをしてもいいんですよ。他力本願、悪人正機ですから
ね。私たちは浄土真宗です。救われるんですよ。お救いです。」「いいことをしたい?。それは
いけません。それはみな偽善です。偽善は自力です。それは他力の教えに反します」。そんなこ
とは決して言ってはいけない。

 この世の悪きを捨て、悪しきことをしない。これが厭離穢土である。正しいことを選び、正し
いことを行っていく。これが欣求浄土である。親鸞はそういう。

 親鸞は、特別に難しいことを言っているわけではない。日頃、念仏を称えていても、他人に対
し良からぬことを行い、また良からぬことを言っていれば、それは穢土を離れようとしているこ
とでもなく、浄土を求めようとしていることでもない。正しいことをしよう、間違ったことはや
めよう。そう提案する中で、親鸞は一介の仏道者として一番いいものを一つ勧めてくれている、
それが念仏なんだ。
 念仏以外を全部捨てろと言っているわけではない。僕らにはすることが二つある。一つは危機
管理であり、もう一つは平常業務だ。親鸞は危機管理として念仏を勧めている。危機管理は、念
仏だけすればいいと言ってくれている。
 我々がしなければならないことは危機管理だけじゃない。それ以外に平常業務はたくさんある。
平常業務ではしなければならんことはたくさんある。親鸞は平常業務を捨てろと言っているんじ
ゃない。親鸞は生老病死の危機管理の専門家なんだ。生老病死の危機管理について、念仏だけを
したらどうですかと勧めているんだ。

294 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 09:43:11 ID:OGm9BTha
>苦しみに満ちたこの世が嫌なだけ。

 生老病死、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦、この四苦八苦は、嫌だ嫌だと言ってい
るだけでは解決はない。乗り越えていくことが必要だ。それが釈迦や親鸞が専門としていた危機
管理だ。

>この世に刹那の快楽を求めてそれを繰り返すだけ。

 刹那の快楽は仏教に求めても何も解決はない。これは危機管理の問題ではない。刹那の快楽は、
平常業務の一部として仏教以外で探すといい。仏教には危機管理を学ぶだけだ。

>迷い惑うて、何かを信じる心もころころ変わるだけ。
      それは別に悪いことではないだろう

>真宗にこそ解決の道がある、と思ったけれど、

 真宗で解決できるものと解決しないものとがある。肉屋に野菜を売れと言っても無理な注文だ。
八百屋にマグロを売れと言っても無理な注文だ。
 自分は何を求めていたのかということが問題だ。マグロが欲しいなら魚屋に行く。野菜が欲し
いなら八百屋に行く。需要と供給の関係をきちんと選択することは大事なことだ。
 真宗に貴方は何を求めていたのか?。

>それがただの早合点に過ぎないかも知れないと思えば、ますます不信が深まるばかり。

 早合点かどうかは、慎重に考えるべきだろう。早合点に過ぎないと思ったことが早合点かも知
れない。            (以下、続く)

295 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/21(水) 10:56:34 ID:OGm9BTha
>293 (追加)

誤  これが欣求浄土である。親鸞はそういう。

正  これが欣求浄土である。親鸞はそういう。
 右斯聖教者、為当流大事聖教也。於無宿善機、無左右不可許之者也。 釈蓮如御判

 歎異抄というこの聖教は、浄土真宗の大事な聖教である。無宿善の機には、妄りにみ
せてはいけない。蓮如。

 歎異抄の最後に蓮如が書いている注意書きは、「悪苦しからず」と書いてある歎異抄に
ついて、「その徴もなからん人々に、悪苦しからずということ、ゆめゆめあるべからず候」
と言っている親鸞の真意と完全に符合する。
 真宗の本意は、浄土を求めよう。穢土を離れよう。この世の悪いことを捨て、よりよいこ
とをしていこうという提案だ。


296 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 12:01:46 ID:QMXmkgRc
>>292-295
だらだら長文を書く暇があったら職探せよおっさん。

297 :神も仏も名無しさん:2007/11/21(水) 12:04:48 ID:2pNoaoKi
浄土真宗イコールBなイメージが強いな

298 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 01:06:59 ID:yRZPx5UB
>263

観音菩薩、地蔵菩薩が弥陀の救いに導いてくださる話は、私も聞いたことがあります。

263さんは、他でも書き込んでいらっしゃるのでしょうか。

299 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:32:28 ID:GUf+qKhn
>仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。

 遠くのものが見えない近眼の人はめがねをかければいい。めがねでその危機管理問題は解決する。

 実に人は生老病死を免れない。小さな石があるだけでけつまづいてひっくり返る。ついさっきま
で使っていたものがすぐに見えなくなる。その度におろおろと探し回る。
 新たなことを始めようと思って再起(生)を誓えば、その先は未経験の世界だ。何をすればいい
のか分からない。気持ちは必死にそっちに向いて高ぶっても、なにをしていいか分からない。試行
錯誤して人は様々に彷徨(病)する。やがて気持ちは半分嫌になる。決意が薄れて疲労(老)し、
体は単に惰性で動いているだけになる。意思も萎え、行動も続かなくなれば挫折(死)する。生も
老も病も死も、すべてこれは人生の危機である。

 人生の危機に当たっても、相談相手があるときは相手に相談すればいい。調べて分かる本があれ
ば本を読めばいい。インターネットで検索すればいいときには、インターネットもある。しかし、
そうした手段が全て尽きるときというのもあるだろう。

 気ばかり焦ってもどうにもならん。そんなときはどっかり座ってみなさいな。
 (釈迦)、父王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる(行の巻)。 〜 「王いま座禅してた
だ当に念仏すべし(行の巻)

300 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:33:37 ID:GUf+qKhn
 蓮華座は極楽浄土の正式な着座法(観無量寿経)だ。念仏は座禅して称えるのが作法である。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり。弥陀法王の四十八願の名号をもって、仏となして願
力を事にして衆生を度したまふ。  〜  今「大無量寿経」によって五会に仏を念ず。 〜 五
とはこれ会数なり。会とは集会なり。かの五種の音声、緩より急に至るまで、仏法僧を准念して更
に雑念なし。 〜 また如来禅と名づく、二乗外道等の禅にあらず。まことに知るべし。(五会法
事讃略抄〈親鸞作〉)。

 親鸞は念仏三昧を勧める。念仏三昧は真の無上深妙の禅門である。阿弥陀仏は、念仏の衆生を摂
取する。弥陀法王は、四十八願の名号をもって仏となり、願(意思)・力(行動)を働かせ、念仏
の衆生を度したまふ。いま、大無量寿経によって五会念仏を念じようと思う。五とは回数である。
数の集合である。五回の念仏をもって一サイクルとする。五種類の音声を発する。五回の中で、あ
るときはゆっくり、あるときは速く称える。この中に仏・法・僧をなぞらえて念じる。この他に混
じりけはない。これは(達磨大師が中国に招来した)如来禅である。声聞・縁覚などの小乗仏教、
あるいは仏道以外の教えが説く座禅ではない。

第一の会は平声に緩く念ず  南無阿弥陀仏
第二の会は平に声を上げて緩く念ず  南無阿弥陀仏
第三の会は非緩非急に念ず  南無阿弥陀仏
第四の会は漸く急に念ず  南無阿弥陀仏
第五の会は四字に転じて急に念ず  阿弥陀仏

301 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 09:34:36 ID:GUf+qKhn
 一回目。抑揚を付けず、ゆっくりと南無阿弥陀仏と、一息(8秒〈渡海難の目安〉)で称える。
 息を吸う。
 二回目。抑揚を付けず、半音上げ、平坦にゆっくりと南無阿弥陀仏と、一息(8秒)で称える。
 息を吸う。
 三回目。抑揚を付けず、普通の速度で南無阿弥陀仏と称え、残りの息を吐き出す。一息で称える。
 息を吸う。
 四・五回目。南無は普通の速さ、続いて阿弥陀仏、阿弥陀仏と速く称える。四回目と五回目は一
息(3秒)で称える。
 息を吸う。

 五会念仏は、中国仏教全盛時代、中国仏教最高峰の法照禅師が唐の皇帝に教え、その後中国全土
に広まった禅法だ。呼吸の調整法に抜群の効果がある。親鸞はこれを優れた称名念仏法、念仏三昧
方法として着目した。 法照は後善導、善導大師の再来と仰がれ、日本からは史上最後の遣唐使で
ある円仁大師が中国で学んできた。帰国後は比叡山でこれを指導した。

 親鸞は教行信証で念仏三昧を勧め、法照の文章を引用し、念仏三昧は座禅して行えと指導する。
親鸞は、五会法事讃略抄という抄録を弟子に残し、そのなかでこの五会念仏を念仏三昧法として具
体的に教えてくれている。

 仏教とは危機管理の教えだ。危機管理とは、危機になってから準備するものじゃない。消火器は
火事になる前から置いておけ。めがねは石にけつまずく前からかけておけ。
 親鸞は教行信証の中で、繰り返し繰り返し念仏三昧の重要性を強調している。日頃からこれを実
践するといいだろう。これが仏法の実践法だ。(続く)

302 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 09:48:59 ID:3HchwHkm
> 蓮華座は極楽浄土の正式な着座法(観無量寿経)だ。念仏は座禅して称えるのが作法である。

これが渡海流座禅念仏の作法↓
  ||  !| │
  ||  !| │
=||=!| │
  ||  !| │
  ||  !| │
Ξ||Ξ!| │                …ああ先生ぇ……
─.─.┤ |                   …/lァ/lァ/lァ/lァ……ぅ!
     |  .!                 :.,;;;;;;;;;;;、ニニニニニニ.、
     |  .!                  {;;;;;;;;;;;;;;}   ̄ ̄!| |.!
    ||`ー|. ̄ 丁 ̄|\          :'::;;;;;;;;;::'  __」.! !.!
  __||二二二]|__ || |       ,r''''"~    ""''ヽ.:l─´. !.!
  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄.!l `ヽ !、     :.i'           'i,=コ|.|
  ||  l三三l  ||  ,_」___: |             'i,'丑丑|ニl___,'ニヽ___
  ||.==========!l  '‐┬┬‐─ !        i'>  }. ─────┬┌′
  ||  l三三l  ||   | /丁,.` !       ; _ノ _,...、 ̄ ̄ ̄丁ヽ、|
  ||==========:!|   | !.|  'i, `'i'''―--―''''i'ニ-'"   ノ   .  .! | |
  ||  l三三l  !l   .| !.!  ヽ.i' "'    '''"';  _/  _,,..i'"':, . ! ! !_
  ||----------|.! ___,| !.|_メ´丶ゝ_,.i、_   _,;..-'"   |\`、: i'、.`ー'
   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ー'"            ̄        \\`_',..-i
                                  .    \|_,..-┘

こうして、今日もパソコンの前で一日中座禅念仏をする渡海難であった。。。

303 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/22(木) 10:47:59 ID:GUf+qKhn
>> 302
 どのような姿勢で称えるのか分かりやすく教えてくれというリクエストを寄せてきたようだ。
 どのように称えるのか。録音してみた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~propatent/syuu/image2/5enenbutu.wav 2回称えている。
僕の声だ。

>> 320 は画像が欲しいというのでリクエストに応えよう。下手なポンチ絵より、こっちがいいだろ
う ↓
http://homepage3.nifty.com/kamakurakikou/image/kobetu/ddaibutu/pkamakuradaibutu2.jpg

 脚はこのように組む↓
http://www.bukkyo-kikaku.com/kekkahuza.jpg

 図の中に、趺坐以外に経行(きんひん)という歩く姿も書いてある。歩く禅と言われる方法で、
1秒間に50cm〜1mくらいのゆっくりした速度で歩く。
 経行については、僕はこれを、南無阿弥陀仏を称えながら実行している。その時は五会念仏
ではなく、普通の念仏をしている。一回南無阿弥陀仏を称えたら、一歩。また称えたらもう一歩
と歩いている。不断念仏という方法だ。不断念仏は、恵信尼の手紙の中に出てくる。

 僕の場合、念仏は1日10分〜20分程度している。人生で困ってほとんど食事も喉を通らない
ようなときには、2時間、3時間、2日、3日と、連続して称えることもある。

 「五分座れば五分間の仏、十分間座れば十分間の仏」。昔、鎌倉円覚寺の学生座禅会で、こ
んな言葉を白隠禅師の言葉として聞いたのを思い出した。

 これが親鸞流の仏道だと僕は思っている。  (続く)

304 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 11:18:28 ID:gp0rw6JD
>>303
キモイものをうpするなよおっさん。
キモヲタの声なんか誰も聴きたくないんだよ。

305 :774:2007/11/22(木) 17:50:00 ID:nmoP6WuR
時間が出来たので、少しだけ。
虚仮不実の我が身が何を思っても、言っても、本体が虚仮不実であるならば、
虚仮不実たる事実から、一歩も外へは出られません。
今は虚仮不実であっても、何かしらの方法を実践すれば、
いつか、真実になることがあるのでしょうか。
答えは否です。何故なら虚仮不実の身が予測する真実に向かって(方向性の転倒)、
実践する身もまた虚仮不実(主体の転倒)、自ずと果は転倒した果となります。
全く虚仮不実を含まないもの、真実は何処にあるか?
もはや、三業の所修に一刹那として清浄ならざる所がない、
仏の所行以外にはありえないことになります。
その仏の所行とは、衆生を必ず浄土に生まれさせ、悟りの妙果を開かせ、
もう迷いの輪廻にとどまらせない、と言う願行であります。
その願行が結実した名号の他に、真実はありえないことになります。
「必ず救う、間違いない」仏の願行のみが真実であったのです。
虚仮不実の我が身が、三年経てば美しく変身するのかといえば、
毎日、業苦を積みあげて、三年分蓄積されただけかもしれません。
知らず知らずに業苦の種を撒き、自損損他の煩悩に隷属し続ければ、
良い結果など訪れるはずがないでしょう。
それ故に、放っておくことができなかった仏の大慈悲を眺めれば、
何が真実か、何によって生きていくべきか、筋道が立つのではないでしょうか。
仏力、他力、本願力、本願力にて往生す

306 :斎尾裕史:2007/11/22(木) 18:12:09 ID:Ax53zdIN
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親鸞会は除名になっちゃったけど(笑)
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307 :神も仏も名無しさん:2007/11/22(木) 19:46:38 ID:PsGz+vlc
本願名号のお力だね!

308 :神も仏も名無しさん:2007/11/23(金) 00:08:25 ID:fxL4IbtC
本願名号のおカねだ!

309 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 00:46:38 ID:9SypLsBm
>255
> 仏法。法座。阿弥陀仏。信心。求道心が分からない。何を、どのように、求めていくべきか。

 いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。
ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々

 聴聞を心に入れて申せ。蓮如はそう言う。申すとは何を申すのか。聴聞を申すというのはおか
しな言い方だ。申すとは、念仏を申すということだ。つまり、聴聞を心に入れて念仏を申せと言
っている。できるだけ聴聞と称名念仏を怠たらないようにしようと言っている。
 仏法は聴聞にきわまるという。この言葉は大事なところだろう。真実には二つある。有形の真
理と無形の真理だ。有形の真理とは、形に表現できる真理をいう。釈迦は、形に表現できる真理
はできるだけ有形化した。文字・絵画・彫刻・建築物など、様々に有形化して表わしてくれてい
る。有形化した真理を智慧という。一番重要なのが、言葉で文字化した真理だ。これは経典に示
されてあり、仏法という。法は言葉で表してある真理だ。言語化・文字化してある真理は、言葉を
通じてしっかり聞いてほしい。仏法は聴聞にきわまるとはそういうことだ。

310 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/23(金) 00:48:20 ID:9SypLsBm
 無形の真理は形に表すことができない。釈迦はこれは、誰でも容易に手の届くところに置いた。
無形の真理は直接表示できない。しかしそれは体得できる方法論を示してくれた。それが禅定だ。
 釈迦は、真理を学びたいという人には、人として、師弟関係で一定のルールを守ることを誓わ
せた。戒律だ。戒律を守ることを誓った者に、有形の真理を智慧として公開し、無形の真理は禅
定という形で容易に手にはいるように公開した。戒定慧を三学という。仏教の基本だ。

 念仏三昧は、これ真の無上深妙の禅門なり(五会法事讃略抄)。称名念仏、とくに親鸞が重視
している念仏三昧はこの禅定の部類に入る。
 法という形で言語化してある真理はしっかり聞いて学んで欲しい。平行して無形の真理は、称
名念仏、特に念仏三昧という形で体得していく。しかも、内心には他力の信心をふかくたくわえ
て、世間の仁義をもって本とすべしといい(お文二帳目)、末法の世で戒律が崩壊した時代でも、
世間の道徳の重要性を説いている。これは三学の戒律に通じるものだ。
 蓮如が説く親鸞仏教は、まさに釈迦仏教の原理をそのまま踏襲している。これは、親鸞の真意
といささかも狂ってないと僕は思う。

 では、正しい仏法は誰に聞けばいいのか。そこが問題だ。(続く)

311 :神も仏も名無しさん:2007/11/24(土) 15:26:30 ID:DHFDPP/N
>298
観音菩薩、地蔵菩薩が弥陀の救いに導いてくださる話は、私も聞いたことがあります。

263さんは、他でも書き込んでいらっしゃるのでしょうか。

263です、2ちゃん初心者ですのでたま-にのぞいてます
  
 書き込みはしていませんよ。

312 :298:2007/11/25(日) 04:44:56 ID:/9LdURlk
263さん

そうですか、どこかで書き込んでいらっしゃるのであれば、ぜひお読みしたいと思いました。

信を得ている方は菩薩である謂れがございますので、どのようなお話でも聞いてみたいと思います。

2ちゃんでは、書き込めないことも多いと思います。真実信心得ている方々のお話しを、いろいろと聞いてみたいものです。



313 :神も仏も名無しさん:2007/11/25(日) 18:04:33 ID:bowhuGo8
信は無いよ。
如来の南無阿弥陀仏の呼びかけ以外に信なんて無い。
如来の呼びかけ以外に信や真実が自分たちに有るとするなら、
それは浄土真宗でも親鸞の教えでも無いよ。

314 :298:2007/11/25(日) 19:20:45 ID:/9LdURlk
信がない・・・

親鸞聖人も、教行信証にて、真実信心について、いろいろ書いてくださっています。

凡愚も獲ること叶う、真実の信楽です。

たまたま獲ることのできる、浄信です。

「獲」という字が多用されています。ご確認ください。

(「獲」と「得」を、御開山は使い分けていらっしゃいます。)

「浄土真宗でも親鸞の教えでもない」とおっしゃるあなたは、信を獲ているのですか。

まずは、ご自身が信をお穫りになることが肝要です。



315 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/25(日) 21:48:00 ID:y5sfJwbQ
 2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
 集合場所、東京・新宿駅
 近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会

 12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。

 これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
 何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。

 集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
 集合者がゼロなら中止。
 なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。

  tkatasi@mail.goo.ne.jp

316 :神も仏も名無しさん:2007/11/25(日) 23:35:47 ID:bowhuGo8
>>398

信が無くたって、「必ず救う」の南無阿弥陀仏の呼びかけがあるじゃん(笑)
これほど確実な如来回向の信は無いよ。
信に、何か実体的なものがらを連想してしまうから、
信を得てるかどうかの議論になるけどさ、
そんな実体的なもんは無いんだよ。
必ず救う、必ず仏にする、必ず助ける、の南無阿弥陀仏
の声を聞いたじゃない。
それが信なんだよ。
私には阿弥陀仏の救いを邪魔する力も無いし、
阿弥陀仏の救いを受け入れる殊勝さも無い、
それでいいんだよ。
阿弥陀仏の南無阿弥陀仏の声で全て足りる訳だよ。
そしたら南無阿弥陀仏、なんまんだぶととなえる事は讃える事になるでしょ。

こっちがどうであれ、南無阿弥陀仏の救うぞ〜の声は全く変わり無いんだから安心するじゃないか。
こっちの変化で南無阿弥陀仏の救いが変わるんなら、安心なんか出来ないよ。
こっちがいろいろやったり、南無阿弥陀仏を一生けんめいとなえて
救われようとするのが十九願・二十願だろ。
そうじゃなくて、南無阿弥陀仏は必ず救うぞの阿弥陀仏のお声だったんだな、と
知らされていくのが十八願なんだよ。しかも南無阿弥陀仏は仏体そのものだからね。
こんな確実なもの無いじゃない。他に信とか必要有る?あると思うなら探してみたらいいよ、あきるまで。

317 :298:2007/11/25(日) 23:59:19 ID:/9LdURlk

316 様

それでご満足されているのでしたら、私からは特に申し上げる事はございません。

しかし、それでは満足行かない有縁の方に申し上げたいことがございます。

弥陀は「必ず救う」と呼びかけて下さっている。これは、確かにその通りです。

ですので、弥陀のその呼び声「助けさせよ」に応え、「助けたまえ」と受け入れる時が必要です。

これにより、如実修行が叶い、真実信心をいただきます。

南无阿彌陀佛は、方便法身であり、無上方便です。行者は、それと一体にならねばなりません。


318 :298:2007/11/26(月) 03:00:40 ID:YURwZNO0
渡海難様は、どんな方ですか。
このスレッドの書き込みを読む限りは、私とは、相当考え方が違うのです。
それでもお話することできるのでしょうか。
真宗に興味のある方のようですので、その部分に、とても関心があります。
もう安心を得ている方ですか。
また、私はお酒は飲まないのですが、大丈夫ですか。

319 :774:2007/11/26(月) 12:10:45 ID:Wx5HaXaz
横レス失礼します。
>316
信心が無いわけではないでしょう。親鸞聖人は、教行信証と「信」を顕らかにされておられるのですから。
しかしながら、あなたのおっしゃる通り、
信心を求めている間は、信はなく、信心を得たと思っているのも、
また、凡夫の欲望が作り出した産物、幻影に他ならないでしょう。
すなわち、そうした方々には信心はないと言わねばなりません。
信心とは全く仏心そのものであり、凡夫のはからうところではなく、
如来の「必ず救う」のおよび声にはからわれること、
増減を加えることない全くそのものなのですから。故に無二心と言われます。
>317
凡夫の満足はどこまで言っても凡夫の満足です。往生浄土のためには必要ありません。
また、あなたの主張は仏凡合体安心ですね。真宗義ではありません。
例えば『安心決定鈔』を根本義とする秘事法門系に近い主張だと思います。
求道ということは、立派で尊いことと頭が下がりますが、
世の中には、それが出来る時間も余裕もない方々が沢山おられます。
我々は全てたまたま、縁あって、それぞれの経緯を辿ってきただけであって、
それ以上でも以下でもありません。
ところが、仏の大悲は違います。出離無縁の我々をつかんで離さない。
聴いて決定するのではない。決定したお助けを聴かせていただくのみです。
聴いて間違いなくなるのではない。間違いないお助けを聴かせていただくのみです。
自性唯心のままに惑わされて、いつまでも輪廻を繰り返すのは
もったいないこととは思いませんか。
ようこそようこそ
南無阿弥陀仏

320 :298:2007/11/26(月) 16:47:38 ID:BXzP2tJ7
>774
どのようなところから、「秘事法門」系と感じられるのか、ぜひ詳しくお聞かせください。
もちろん、宿善が無いからだと考えることもできます。しかし、それで放っておくのは、あまりにも悲しいことです。
774様は、秘事法門系について、どれくらいの知識をお持ちですか。
秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、真実行の一部の要素は保っているはずです。
しかし、それでは十全ではありませんので、如実修行とならず、信心いただくこと、叶いません。
私のこれまでの経験では、自己流の信心を積み重ねてきた方が、よく知らないままで、秘事法門系であるという批難を致します。
しかしそれは、あくまでも知らないからに過ぎません。弥陀は、そのような方も救います。ですので、「なぜそう感じるのか」ぜひ確認していただきたいのです。

『「別解」は、念佛をしながら他力をたのまぬなり、「別」といふは、一なるこ
とを二にわかちなすことばなり、「解」はさとるといふ、とくという語なり、念
佛なしながら自力にさとりなすなり、故に「別解」といふなり。また助業をこの
むもの、是れ即ち自力をはげむ人なり、「自力」といふは、我が身をたのみ、我
が心をたのむ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ人なり』

774様は、念仏なしながら自力にさとりをなし、我が心をたのむ人であると拝されます。

321 :神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 18:20:11 ID:mbgJeS9h
如来の必ず救うぞ、の南無阿弥陀仏があるから、
それを頼りにする心が起こる。

なんでお念仏しようと思う心が起きたのか、
南無阿弥陀仏の呼び声が先にあったから。

322 :774:2007/11/26(月) 18:59:49 ID:Wx5HaXaz
>320
>どのようなところから、「秘事法門」系と感じられるのか、
>ぜひ詳しくお聞かせください。
南無阿弥陀仏と一体になることを指して、信心決定とするからです。
機法一体ならぬ機法合体安心に非常に似ていると思います。
たのむ機(南無)とたすける法(阿弥陀仏)が融摂した所を指して、
浄土の往因が究竟した、即ち信心決定とするのが、機法合体安心です。
あなたの場合は、南無阿弥陀仏と凡心が融摂した所を信心とする立場とされるようなので、
仏凡合体安心と仮に名付けさせていただきました。
>774様は、秘事法門系について、どれくらいの知識をお持ちですか。
かくし念仏の歴史、異安心論争について、粗々存知している程度です。
が、その構造が何をバックボーンとしているかは、理解しているつもりです。
>秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、
>真実行の一部の要素は保っているはずです。
意味がわかりません。お聖教上に典拠はありますか?詳しく説明して下さい。
>私のこれまでの経験では、自己流の信心を積み重ねてきた方が、
>よく知らないままで、秘事法門系であるという批難を致します。
自己流の信心も無ければ、積み重ねの信心も御当流にはありません。
もう一度、私のレスを再読して下さい。

323 :>>318:2007/11/26(月) 23:58:36 ID:kgjcVT5Y
     ∞〜プーン       〜
      / ̄ ̄ ̄ ̄\   〜 プゥーン
     (  人____)  〜
 〜∞  |ミ/  ー◎-◎-)  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 プーン (6     (_ _) )<オレはこう見えても結構モテるんだぜ!!!!
      |/ ∴ ノ  3 ノ  \_________
      \_____ノ,,    ∩_
     /,|┌-[]─┐| \  (  ノ
      / ヽ| |  バ  | '、/\ / /
     / `./| |  カ  |  |\   /
     \ ヽ| lゝ    |  |  \__/
     \ |  ̄ ̄ ̄   | プーン〜∞ 
      ⊂|______|
       |l_l i l_l |  
       |   ┬    |
◆渡海難の正体◆
・引篭り歴10年以上・童貞、彼女&女友達無し(というか友達1人も無し)
・身長159cm以下体重75kg以上 体脂肪率38%以上 ・年賀状は1枚も来た事が無い
・3流大学卒、アニメサークル所属、合コン歴無し ロリコン
・今行きたい所:秋葉原、オタワ(カナダの首都、ヲタクが集まる所だと思ってるらしい)
・前科5犯(万引き、食い逃げ、性的暴行、強制猥褻、痴漢(存在自体が痴漢))
・好きなゲーム:ゲーム関係なんでも、但しホラー以外(ションベンちびって3日以上放心状態になるから)
・所持エロゲーは軽く1000を越える
・コンビニの処分された弁当しか食べられない、というか最近家族に手料理を作ってもらってない
・風呂には3日に1回しか入らない ・50M走タイム11秒5以上 ・自分の年齢=彼女いない歴
・AV、アニメビデオを1日最低3回は見る ・“ラップ”と聞くと「サランラップ?」とボケでなくマジで答える
・趣味:2CH心と宗教板への書き込みをすること、座禅念仏
 そして浄土真宗関連スレ、親鸞会関連スレを見つけるとここぞとばかり攻撃し、チンポをこすりながらレスを待つ
・カラオケで歌うのはいつもアニソン、というか友達がいなくてカラオケも行けない
・真宗教団と親鸞会と真宗の僧侶を目の敵にしている ・ギャルゲグッズを多数所持
・メル友募集をしても女性からは1通も来ない、(ネカマからは来る、しかも普通に女と勘違いする)
・自分にレスする者全員に対して「ボーズ(坊主)」「親鸞会」と言う恥知らずのリアル精神病患者

324 :神も仏も名無しさん:2007/11/26(月) 23:59:39 ID:kgjcVT5Y
渡海難のカキコパターン

1 あるスレに突如として乱入。「最初は〜について教えてください」と学習者を装って参加する。
2 スレの参加者がそれに乗って丁寧に教えてやる。
3 その言葉の揚げ足を取って渡海難が攻撃開始。『教行信証』を断章して自分勝手な仏教解釈のコーシャクが
始まる。
4 それに対しスレの参加者が「まともな根拠をつけて」反撃する。
5 渡海難、正論で反撃できなくなり、しばらく黙る。その後、「お坊さんですね」(最近はこのパターンが多
い)か、「親鸞会ですね」と寺や親鸞会批判をする。(大概は奴の妄想)
6 それに対する反撃の後、4〜5、もしくは3〜4がしばらく続く。(7、もしくは8へ)
7 「馬のションベントーク」で相手がウザイと感じるまでけなす。
8 明後日の方向にひたすら答えにならないレスを乱発し、スレの流れをかく乱する。もしくは「仮説」に逃げ
る。「ウソも100回言えば」のクチでそれに騙されて「渡海は真の論者だ」という信者はこの8のシチュエー
ションから生まれる。(9もしくは10へ)
9 (しばらくしてスレが静かになると)一方的勝利宣言をして他スレを荒らしに行く(1に戻る)
10 あまりに渡海難がウザイので2chではスレが下がったり、他のHP掲示板は静かになる、すると「私を恐
れているんだ」と他スレや他の掲示板で言いふらす。

325 :298:2007/11/27(火) 00:56:22 ID:oeTtF7bq
>>774

>機法一体ならぬ機法合体安心に非常に似ていると思います。
>たのむ機(南無)とたすける法(阿弥陀仏)が融摂した所を指して、
>浄土の往因が究竟した、即ち信心決定とするのが、機法合体安心です。
>あなたの場合は、南無阿弥陀仏と凡心が融摂した所を信心とする立場とされるようなので、
>仏凡合体安心と仮に名付けさせていただきました。

この部分ですが、何を言っているのかさっぱりわかりません。

「機法一体」と「機法合体安心」の違いについて、今少し説明してください。


>>秘事法門系と言えども、ほとんどのものは、
>>真実行の一部の要素は保っているはずです。
>意味がわかりません。お聖教上に典拠はありますか?詳しく説明して下さい。

典拠はありますが、信後の方でなければ、詳しく説明することはできません。

この質問にそのままお答えしようとすると、さまざまな秘事法門系と言われるものを列挙し、それについて、それぞれお聖教の典拠を出さなければならなくなります。

具体的に、774様が秘事法門系の例をひとつ出してくだされば、それに対応するご聖教を出すことはできるかもしれません。(774様の「ご聖教」とは、三部教に限られますか。できますならば、その範囲も教えて下さい。)

また、774様が認識している秘事法門系のうち、私はどれに該当すると推測されましたか。できれば、それも教えていただけると、とても助かります。

なぜなら、秘事法門系と誤解して、真実信心を求めることができない方々が、今の世には、多いようだからです。

そのような誤解を解いてゆくことは(もちろん、聞く耳のある方だけに限られますが)とても大事なことです。なぜなら、批難している方々の多くには、悪気があるわけではないからです。中には、気付く方もいらっしゃるかもしれません。

(つづく)

326 :298:2007/11/27(火) 00:57:21 ID:oeTtF7bq
(つづき)
>自己流の信心も無ければ、積み重ねの信心も御当流にはありません。
>もう一度、私のレスを再読して下さい。

読み直しましたが、自己流の信心であると思います。
自己流の信心であっても、素晴らしい信心を得ている方はいると思います。
しかし、それがどんなに素晴らしい境地だとしても、他力の信を求める方の道しるべにはならないのです。
そのような境地を作ることができない、聖道叶わぬ凡夫のための易行の門だからです。
どのような凡夫でも、たちどころに救い摂る、凡夫直入の弥陀の本願海です。
774様がご自覚なさるためには、お聖教と割符が合うかを見て行くことだと思います。
774様は、御文をご聖典と認めていらっしゃいますか。

◎これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり

「やすく」「一切衆生」「すがた」が特に大切です。

◎さてその他力の信心といふはいかやうなることぞといへば、
ただ南無阿弥陀仏なり。
この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、
すなはち他力信心のすがたなり。
されば、南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし

「六つの字のこころをくはしくしりたる」は「すがた」です。
「六字の体」とは、何ですか。
これらと領解は合いますか。
あるいは、一枚起請文の「学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず」は、どうですか。教義のことを何も知らない方でも、救われる道ですか。

327 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 01:52:40 ID:E77YHOfw
774も298も、教学論争みたいになってて分かりにくい・・・

あの妙好人、もどってこなかったな。スレタイがこれなのに、妙好人がいないスレってw
それに、774も298も、正しいこと言ってるかどうか分からん。
まともそうだった7さんも最近見ないし。

あと、おれから見て、774さんの「求道はダメ、今聞きなさい」というのはどうもオカシイ感じがする。
年とった人で、おれと同じこと言ってる人がいたし。


 「それは、あなたが信心決定したからというて、すぐにひとが納得す
   るというようなわけにいきませんわ。信心決定すればですね、あなた
   は一生涯かかってでも、一生かかって一人の人間だけでも納得させた
   らけっこうだと思います。

    やっぱり、ある方は十年たち、あるいは二十年かかり、あるいは三
   十年、四十年かかって、そうしてようやく自分が「なるほどだなあ」
   とうなずくのであります。とにかく即席でもってうなずく法があるか
   と、そういうことはありませんわ。」

774さんだったら、この人のことどう思うのかな?

328 :298:2007/11/27(火) 02:14:54 ID:oeTtF7bq
>327
わかりにくくて、申し訳ありません。「ご聖教で」と根拠を求められれば、
どうしても、あのようになってしまいます。理屈を好む方に、
理屈で対することにより、疑心が解けることもありましょうし、
理屈を好む方でも、信を得ている方の姿を見て心を打たれ、
理屈なくして疑心が解けることもあるでしょう。

信を得ている方も、機によって、しゃべる内容も、ひとりひとり異なりますので、
327様がご納得できる方にお会いすることが大切だと思います。

ご引用くださった方のご発言ですが、ご発言内容につきましては、
私は、一文字残らず同感です。

その発言以外のところでは、違いがあるかもしれないのですが・・・

「即席でもってうなずく法」はないのですが、うなずけた方は、
その後で、真実の行を経由します。ここによって、ご同行となるのです。

ただし、どんな人でも10年、20年かかる、ということではありません。

早い人であれば、「その日のうち」ということも、あり得ます。
(ただしこれは極端な例で、ふつうは短くても数日かかるのではないかと思います。)

それにしても、ご引用の通りでありまして、私がこのように書いたとしても、
327様がうなずくかどうかは、全くわからないのです。

329 :774:2007/11/27(火) 06:10:53 ID:AJ7PGSsE
>325
まず、あなたが如何なる団体に属しておられるのか?教えていただけませんか?
あなたは誰の影響によって、このような書き込みをされるのか、
それが明らかになれば、あなたの信仰が何に基づくものなのか、
それが、正意なのか否か、判断する情報の一つになることでしょう。
私の経緯は、親鸞会の過去スレで述べましたので、ご参考下さい。
秘事法門に関しては、そのありさまを具体的に著している史料が数多く残っています。
例えば、江戸伊勢町金右衛門の著した『庫裏法門記』には、
金右衛門が誘われた善兵衛という善知識率いる秘事法門集団の秘事の様子、
布教方法、また、幕府による摘発まで詳細に記されています。
小栗純子先生の『妙好人とかくれ念仏』(講談社現代新書)で、
現代語訳され、さらに幕潘体制に屈伏埋没した本願寺との対比、
民衆の渇望としての秘事法門とその失敗について、論述されていますので、
一読されるとよいかもしれません。


330 :774:2007/11/27(火) 06:37:11 ID:AJ7PGSsE
>329の続き
『妙好人とかくれ念仏』P.101に、かくれ念仏の救いと題され、以下のようにあります。
「辰の刻(午前八時ころ)近くに(善知識善兵衛の)法話がはじまった。
昨日と同様である。みなのものは、今日、(救われる)願いがかなわなければ、
またいつの日か成就する日があろうかと心配し、泣き叫び、もだえ苦しむ様は、
見るにたえないほどであった。さらに善兵衛は、つぎのように説法をつづける。
「この次の席で、蓮如上人の御文を聴聞すれば、それで理解すべきことは終わりで、
ひととおりの相伝はすむのである。この救済の儀式がすんだなら、ひたすらに仏に対して
祈願したなら、その時ただ仏と仏の出会いといって成仏の証があるのだ。
この時、この世にうけた穢身は、仏に捧げて、沙婆での人生は終るのである。
そして新しく生れ変わった時、極楽浄土のメンバー(正定聚)となり、
この世に還来して、いっさいの衆生を救おうという願いがおこる。
それは釈迦仏と同じ境地になるのである。」そして、「ここにお集まりの方々の中にも罪障深くして、いまだこの世を厭う心も薄く、
妻子を名残惜しく思う人があるとすれば、その人はまだ仏縁が到来しない(宿善なき)人である。
気にせず、この座を去ってよろしい」といい放つ。これを聞いた願人たちは、
いよいよ往生決定の時期が近づいたことを喜び、信心決定の時点はいつだろう、
摂取の光明を拝むと聞いているが、いったいどんなことだろうか、
聖衆の姿がみえるだろうか、雲にのるだろうか、天にものぼるのだろうか、
けなげに思いつめるものたちが悦びの涙にむせぶのである。」


331 :298:2007/11/27(火) 06:52:21 ID:oeTtF7bq
774様
私のどのような書き込みから、そのようなものと同一視ができたのか、
とても不思議です。まるで、神通でもお持ちのようですね。
私が信を得た現場も、よろしければ、描写してみてください。
できますか? できないでしょう。
それで人を秘事法門系と決めつけるのですから、すごい方ですね。
それに、団体名で判断しようという時点で、私とは考え方が違います。
信を得るのは、ひとりひとりの出来事です。
あなたは、団体名を聞かなければ、判断ができないのですか。
そのような正信が、あるとは思えません。
よって、自力の信であると申し上げているのです。
私が引いたところと、領解は合いますか。
他力信いただいている方であれば、ピッタリと符号するはずです。
では、お約束の通り、ご聖典の何と対応しているかです。
「正定聚の位をいただける」ことは、御聖典の通りです。
しかし、そのためには何をすれば良いのか、が違います。
これで、私は約束を果たしました。
このように、一部の要素は、御聖典に対応しているのです。

332 :298:2007/11/27(火) 08:30:48 ID:oeTtF7bq
263 さん
263さんは、どう思われますか。私がこのスレを一読して、一番関心があるのは、263さんです。
唯一、ご同行なのではないかと思います。

333 :298:2007/11/27(火) 09:14:14 ID:oeTtF7bq
それから、上の方に、

>わたしの本性からいえばアドバイスせずに「他の人は獲信体験にたどりつかずに死んでいけばいい」と
>1人ほくそえむような、悪魔の心しかありません。まさに罪悪深重の悪人。

という書き込みがありましたが、本当ですか・・・
おそらく、これは、機の深信をご自身で解釈なさっているのはないでしょうか。
「機の深信を得ている」と酔っているその心が、悪魔の心(=本願疑惑心)であり、
本願を遠ざけている心ですよ。



334 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:02:30 ID:XkA34sxD
 腹に入らず、頭のつむじの当たりでシラミがうごめいているだけの頭でっかちの戯論が往復してい
るだけのようなので、話の先を進める。

 まあこういうことを言うと、お前(渡海難)の方が戯論だと、行き当たりばったりで中身のない言
い返しをしてくる奴が出てくる。まあ、この際なんでもいいや。信謗共にあるべし。こっちも多忙だ。
構っていられない。先を急ごう。

>>255,>>310
 法は誰に教わるのか。親鸞は、化身土巻で末法燈明記を引用し、次のように言う。

 たとえば真金を無価の宝とせんがごとし。もし真金なくは、銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮
石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅鉄・白鑞鉛錫を無価とす。かくのごとき一切世間の宝
なれども、仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。
もし羅漢なくは、余の賢聖衆、もって無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫、もって無上と
す。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもって無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもって無上
とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。余の九十五種の
異道に比するに最も第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。何をもってのゆえに。
能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに。護持し養育してこの人を安置することあらんは、久
しからずして忍地を得んと。

335 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:03:44 ID:XkA34sxD
 この世で最も価値があるのは黄金である。しかし黄金がないときには白銀を最高の宝とする。無価
とは、それ以上の価値ものは存在しない最高の物という意味である。白銀も無いときには鍮石(天然
真鍮)、偽宝(人造真鍮)を最高の宝とする。これもないときには、赤銅・白銅・鉄などが尊い。あ
るいは銅と白鑞(銅・亜鉛合金)、鉛、スズを宝とする。
 この世で最も尊いのは仏法である。仏法とは、言語という形に仏が有形化して示した真理である。
もし、そのような宝がないときには、 縁覚の法つまり、小乗の聖者が言語という形に有形化して示
した真理が尊い。あるいは小乗の修行を卒業した阿羅漢の法が尊い。それも無いときにはどうするか。
それ以外の賢人、聖者の言葉を尊べ。
 もし、賢人・聖者がなければ、禅定の中で一定の確信を得た凡夫を尊べ。禅定の中で一定の確信を
得た凡夫も無いとき、戒律を守っている凡夫を尊べ。戒律を守っている凡夫もいないときには、戒律
を破ったり破らなかったりしている出家を尊べ。もしそのような出家もいなければ、頭を剃り、ヒゲ
を剃り、袈裟を肩に掛けているだけの全くの形ばかりの出家を尊べ。それだけでも、九五種に及ぶ仏
道以外の教えと比較すれば格段の違いである。彼らは、世間から供養を受ける資格がある。彼らは福
田である
「能身を破る衆生、怖畏するところなるがゆえに」、原文は「破能身衆生所怖畏故」となっている。
これではよくわからない。高田専修寺本では「能示衆生可怖畏故」とある。真筆本(坂東本)ではな
く高田本で説明する。「よく人々のために人間として畏るべき事柄を知らせているからである」とい
う意味になる。
 これらの人々を大事にしていけば、やがてその人は悟りを得るだろう。忍地、忍とは認であり、認
識である。地とは境地を意味する。三法忍つまり、音響忍・柔順忍・無生法忍(大経)を言う。

336 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/27(火) 11:08:11 ID:XkA34sxD
 この文章を読むと、末法の世にあれば、いわばアホンダラのノータリン坊主でも大事にしてやって
欲しいと、確かに坊さん側の弁解のように読めなくはない。末法燈明記は最澄の文書であり、親鸞は
そのほとんど全文を教行信証に引用している。親鸞の本意はどこにあるのか。仏道にある限り、九五
種の外道よりはましであって、仏道にある者を九五種の外道とは同一視しないでほしいということだ
ろう。親鸞は九五種に及ぶ外道を切り捨てているのだ。外道に陥りやすい人々に、どうか、仏道を尊
んでほしい。そんな主張をしている。仏道の陰には、常に九五種の外道がすり寄っていることを忘れ
てはならない。仏道であるのか、外道ではないのか。仏道の皮を被った外道の教えではないのか、物
事は用心して見極めていく必要があるだろう。

 末法の世にあって、2ちゃんねるで頭のつむじの当たりをくすぐる頭でっかっちのシラミの戯論の
九五種の外道を離れ、仏道に立っていこうじゃないか。シラミの戯論ではなく、腹の足しになることを考
えよう。最澄・親鸞は、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘というが、剃除鬚髪もなく、僧と俗は
完全にボーダレスになった現代、なおも九五種の外道ではなく、仏法の片鱗でも保持している者を探す
ことは容易ではない。現代の仏法を考えよう。  (続く)


>>318
 コメントは後日。

337 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 11:29:01 ID:MMZoIWNU
>>334-336
シラミ以下の屑は二度と来ないでね

338 :神も仏も名無しさん:2007/11/27(火) 21:24:51 ID:PwGZUS7e
法論みたいになっているけれど、298さんや263さんの語っていることが判らないんだが。


>現在の信宗の坊さんに知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
>いないのです、親鸞聖人より平民に分授されているからです、ただし蓮如さんは例外ですが
>このことは本当はこのようなところに書いてはいけないのですが・・・・

なぜ、知識は僧侶にはおらず、親鸞聖人より平民に分授されていると判るのだろう?
263さんや298さんはその由緒ある知識と、知り合いのように見うけられますけれど。

>わたしがいえることは例を挙げると近くの地蔵さんや観音様にどうか十八願のご縁
>を授かるようにと手を合わせてください

阿弥陀仏に一向専念するのではなく、地蔵様や観音様に十八願のご縁を授かるように手を合わせるのですか?

>娑婆でご縁に会うこと事がなくても心から願うような方は死後、生前お参りした如来・菩薩
>方は放っておきませんから虚しい事では決してありません

死後に生前お参りした地蔵様や観音様が阿弥陀仏に代わって、何かをしてくれるというのですか?

339 :298:2007/11/27(火) 23:40:23 ID:KKIpD8pA
>338

>>現在の信宗の坊さんに知識(善智識=如来より授かった知識をもって衆生済度(十八願)ができる方)は
>>いないのです、

ひょっとしたら、263さんと私の意見は違うかもしれないのですが、
私は、「現在の真宗の坊さんに知識は(あまり)いないのです」
あるいは、「真宗の坊さんだからと言って、知識とは限りません」
(そして、在家にも知識はいます)のように補って解しています。
ですけれども、「(あまり)いない」にしても、このように書くと挑戦的に
響くような気がするので、私はあまり好まないつもりです。
法論も好まないつもりです。
しかし、掲示板に書くと、法論のようになってしまっています。
これは、今の私が、掲示板のようなところで、どのように話してゆけばよいのか、
まだよくわかっていないからで、これから学んで行きたいです。
私は、自分が信を取ることを優先してきましたので、地蔵様や観音様については、
まだ勉強不足で、263さんに教わりたいと思っています。

>死後に生前お参りした地蔵様や観音様が阿弥陀仏に代わって、何かをしてくれるというのですか?

私が聞いたお話では、「阿弥陀仏に代わって」ではなく、
弥陀のもとに導くお役目をしてくださっていました。
338さんが、善知識に会いにゆくにしても、たとえば電車に乗るかもしれないですよね。
その車掌さんに、助けてもらうわけですが、「阿弥陀仏に代わって」は違いますよね。
摂取してくださるのは、もちろん阿弥陀如来です。



340 :298:2007/11/27(火) 23:54:17 ID:KKIpD8pA
>338
しつこくてすみません。補足です。
弥陀に一向専念は、もちろんのことです。ですけれども、信前の方は、
これはやろうとしてもできないはずです。どうやって、弥陀の方を向いたら良いのか、
わからないから、苦しんでいるのでしょう。
やろうとしてもできないから、たとえば20願の称名念仏があります。
そして、信を得るために、たとえば、2chのこのスレッドを見る。
これは、御文で言えば、「信心の沙汰」をしていることに当たります。
そのとき、このスレッドに書いている「人間」が、何かを助けてくれるのでは、
と期待して見るわけですけれども、だからと言って、一向専念無量寿佛を捨てているわけではないでしょう。
人間の代わりに、観音様や地蔵様に、正信に辿り着くのを助けてもらおうとする、ということだと思います。
263さんの考えは、私も知りたいですし、教わりたいです。
私も、観音様や地蔵様が助けて下さる話しを複数聞いていますし、自らの体験もありますので、
聞きたいと思うのです。

341 :774:2007/11/28(水) 00:01:21 ID:j+/5YAOn
遅くなりました。
>331
同一とは言っておりませんよ。秘事法門の一例として挙げただけです。
秘事法門は、江戸期においても摘発されれば、また巧みに形を変えてあらわれます
(全く別の人物が善知識として、全く違う場所で同じように信者を集め、
真実信心得た得ない、うちの善知識はホンモノ、あっちはニセモノだのと
絶対に結論が出ない戯論を繰り返している)。
あまり高等とは言えない脳内遊戯に埋没している点においては変わらないでしょう。
様々な秘事法門に共通するのは、我が集団の善知識こそ真に相伝を受けた者と言い
(無論、お聖教上の根拠はない)。
既存教団を仮想敵と位置付ける(私の善知識こそホンモノという
意識を強める効果があり、信者の結束を高める)こと。
人間の自己変革への欲求や、超日常への好奇心が無くならない限り、
こういった事象も無くならないだろうとは思いますが、
そういった欲求を起こさしめる根本無明こそが、実は輪廻の正因であると教えるのが仏教です。
にもかかわらず、凡夫の欲求に応じて起こる感覚・体験をもって払拭できたつもりになっている。
あたかも、その体験によって菩薩にでもなったかのごとく錯覚する。
仏教は一切智者の教えです。凡夫が、その欲求に耽溺するために説かれたのではありません。
むしろ、その甘美なる耽溺自体、偽りであり、毒であり、
そのために迷いを重ねてきたと教えられるのです。
試みに、あなたに信心を得させる強縁となった善知識様は、
何故、次第相承の善知識と言えるのか、証明してみて下さい。


342 :298:2007/11/28(水) 00:32:51 ID:ibEUp831
>341
先程上にも書いたのですが、どうも文体がうまく行きません。
口で話すときには、それほどきつく響かない気がするのですが、書き言葉だと、きつくなっています。
真宗のお話をできることはうれしいですので、少しずつ、文体を練習して、
掲示板でのコミュニケーションも上達したいと思います。
おつきあいくださることに感謝します。
善知識様ですが、「証明する」という発想が、どうなのでしょう、適切だと思いますでしょうか。
たとえば、774さんは、341の書き込みの内容を、ご証明できますか?
「証明」というのは、数学のことだと思うのですが・・・
私たちは、凡夫ですよ。わかり切ることは、ないからこそ、歎異抄第3段があるのでしょう?
では、誰でもいいのか、と言えば、もちろんそんなことはありません。
やはり、ご聖典と割符が合わないなら、いたずら事だと思います。
「一例として挙げただけ」とのことですが、341を見ても、やっぱり、何かしら、
イメージを形成しているような気がしますよ。
どこから、そう推測されるのか、私にはよくわからないので、おそらく774さんの先入観に
よるものだと思っています。ですから、私の書き込みのどこから、そのように推測されるのかを知りたいのです。
それと、できれば、「機法一体」と「機法合体安心」の違いについて、今少し説明してほしいです。
そして、774さんの領解は、私が引いたところと、合いますか。
私の書いていることへの疑問が解消されて行けば、信に近づくのでしょうか。
それを願っています。

343 :298:2007/11/28(水) 00:39:56 ID:ibEUp831
>341
それと、774さんが書いているのは、そもそも、真宗への疑いなのだと思います。
「凡夫直入で、易行で、正定聚だなんて、そんなこと、あるわけないじゃないか」
ということで、そう思うのは至極もっともですけれども、このスレッドは、
タイトルからして、真宗は本当だろうと感じている人が、正信を探すためのものだと
思って、書き込みをしたのです。
真宗に疑問を抱くのは、当然だからこそ、聖道門があるわけでしょう?
そうやって、弥陀が導いてくださっているのだと思っています。
その真宗への疑いこそが、本願疑惑心でしょう。ですけれども、それがあるのが
当たり前なのです。弥陀の光明に破砕していただくまでは、根本無明は晴れません。



344 :298:2007/11/28(水) 00:45:23 ID:ibEUp831
それと、774さんの歩みのスレがどれかわかりません。
もしよかったら、教えて下さい。そのスレで、774と検索すればわかるのでしょうか。

345 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 02:55:04 ID:cSLBMKme
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346 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 05:59:56 ID:iMEwFWEO
>298さん
 
  263です。あなたの言う通りです、よくご存知です。ただここでは

  これ以上話せません、無宿善の者に雑行と正業を論じると誹謗中傷の元となる謂れが
 
  あるので堅く禁じられています。ただあなたは信宗に興味のある方たちに

  伝えたい気持ちはわかりますよ。御文の第十二通 宿善有無の御文をみて

  ください、知っていると思いますが昔も今も変わりません。




347 :298:2007/11/28(水) 07:14:41 ID:UZ5uvv2K
263さん
書き込みありがとうございます。掟を守るのは当然のことです。
信を取るかどうか、私がはからっても、仕方ありません。
まことに宿善開発の機は、おのづから信を決定すべし。
正雑二行の沙汰、2chどころか、無宿善の機が見ている可能性があれば、できません。
しかし、この書き込みをいただけただけでも、こちらに書き込んだ意味がありました。
ありがとうございます。ご縁をいただけたことに感謝します。
昔も今も変わらない、ありがたいことです。次第相承の善知識のおかげです。

348 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:18:17 ID:ESbGrYkg
>>255,>>336
 僧と俗は完全にボーダレスになった。九五種の外道ではなく、仏法の片鱗でも保持している者
を探すことは容易ではない。
 蓮如は言う。「仏法は、知りそうもなきものが知る」。この現代で、「この人は仏法はなど、
およそ知らん人だろう」と思えるような人が、意外と心得ているものだ。「この人はきちんと仏
法について心得ている人だろう」と思えるような人が、意外とハチャメチャな考えをもっている。
知りたいことがあれば、まず、先入観を持たず聞くといい。「仏法というものは上下をいわずと
うべし」。蓮如はそう教えてくれている。

 誰に、何を、どう聞いていけばいいのか。親鸞は教行信証の冒頭で言う。「難思の弘誓は難度
海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」。
 親鸞は言う。難度海を度する大船は難思の弘誓であると。無明の闇を破する恵日は、無碍の光
明である。無碍の光明は、難思の弘誓に発する光だということだろう。親鸞はここで「難思の弘
誓」と言い、「難思議の弘誓」と言ってないところに注目する。難思の弘誓という言葉が示して
いる概念に何かヒントがありそうだ。難思の弘誓とは何か。大事なところだ。

 親鸞は、化身土巻の冒頭で言う。「至心回向の願、不定聚機、難思往生」と。ここで難思とい
う言葉が出てくる。難思の弘誓とは、「至心回向の願、不定聚機」という専門的な用語で示して
いる概念と何か密接な関係がありそうだ。

 化身土巻で親鸞は、阿弥陀経を議論する中で言う。
 いま方便真門の誓願について、行あり信あり、また真実あり方便あり。「願」とは、すなわち
植諸徳本の願これなり。

 いま、方便真門の誓願について、「行」という概念と「信」という概念が存在する。また、真
実という概念と方便という概念が出てくる。ここでいう誓願とは、植諸徳本の願である。

 「植諸徳本の願」。聞き慣れない言葉だが、大無量寿経を読む。大無量寿経で法蔵菩薩が立て
ている誓願の中で、第二十願に次のようにある。

349 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:19:05 ID:ESbGrYkg
(二十願) たとい我、仏を得んに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念を我が国に係けて、
諸(もろもろの)徳本を植えて、心を至し回向して我が国に生まれんと欲わんに、果遂せずんば、
正覚を取らじ。

 「心を至し回向する」つまり至心回向という言葉が出てくる。また、「諸徳本を植え」という
言葉が出てくる。難思往生とはこの第二十願に着目している概念であるようだ。親鸞はこの二十
願を、これを植諸徳本の願と言い、方便真門の誓願と言い、難思議の弘誓と言っている。馴染み
のある十八願ではない。この二十願をもって「難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破
する恵日」なりと言っているのだ。ここを間違わないで欲しい。この願について親鸞は次のよう
に言う。

 「行」とは、これに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。「信」とは、すなわち至心
回向欲生の心これなり。

 この二十願から親鸞は行と信を導く。行は二つある。善本と徳本である。徳本という概念は、
二十願の中に徳本を植えという言葉で出てくる。善本という概念は親鸞の独創だ。いずれにして
も親鸞は、善本・徳本という二つの概念を出している。いま、これは触れない。

 親鸞は言う。「機」について定あり散あり。「往生」とは、これ難思往生これなり。「仏」と
は、すなわち化身なり。「土」とは、すなわち疑城胎宮これなり。

 機とは器量と意味だ。人間の器という意味である。人には、個性・特質で定(静)というタイ
プと散(動)というタイプとがあるという。人間のタイプには定(息慮凝心)という静的な修行
方法が適している人と、散(廃悪修善)という動的な修行方法が適している人がいる。二十願は
その静タイプと動タイプの両方に向かって語られている。なお、人の器を定と散に分ける考えは
善導による。善導は、「一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散」とい
う。

350 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:20:07 ID:ESbGrYkg
 二十願からは難思往生という概念が出てくる。これを親鸞は難思往生という。二十願に基づい
て、人が二十願に相応した修行を行い、それに基づいて信を得れば、二十願が想定している内容
での仏教への関わりが生じてくる。二十願が想定している内容での仏教への関わり、あるいは仏
教への参加の形を親鸞は、難思往生という言葉で表している。難度海を度する大船、無碍の光明
も、全てこの難思往生がもたらしてくるものだ。

 二十願には、十八願とは違った二十願なりの行と信とがある。二十願の行を行えと言っている
裏にはそう言っている主体がある。それは誰か。親鸞はそれを化身仏だという。これは報身仏で
はない。真仏ではない。また、その世界は疑城胎宮であるともいう。
 二十願には二十願なりの世界観、真理観がある。二十願で行を行え、信を得よと言っているが、
それは十八とは違った独自の世界観だ。親鸞はそこを源信の考えに習って疑城胎宮の世界と名付
ける。ここを考えよう。

 観経に准知するに、この経にまた顕彰隠密の義あるべし。顕と言うは、経家は一切諸行の少善
を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして、難思の往生を勧む。

 疑城胎宮じゃ嫌じゃ。わしゃだまされたくない。直ちに真如界に導いてくれ。そういうリクエ
ストは当然あるだろう。化身仏はなぜ疑城胎宮の世界に入れと勧めているのか。ここが問題にな
る。この点を考えよう。

 観無量寿経という経典がある。観無量寿経という経典から推理していこう。観無量寿経には、
確か、真実と方便という二つの面があった。そうであれば、この二十願の世界にもそういう面が
あるだろう。「准知」とは、準じて推理するという意味だ。

351 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:33:43 ID:ESbGrYkg
>>255,>>336
 「この経にまた」とは、阿弥陀経を指している。親鸞はこの議論を阿弥陀経に関する議論の中
で説明している。二十願とは阿弥陀経の世界である。これは、親鸞独創の仏教観だ。観無量寿経
には真実と方便という二面性があった。阿弥陀経にも顕彰隠密の義つまり、顕と彰という深い意
味があるのだ。

 「顕」と言うは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心
を励まして、難思の往生を勧む。

 顕と彰の顕を考えよう。阿弥陀経を考えた場合に非常にはっきりしていることがある。阿弥陀
経は、善導大師を始めとして、多くの先人(経家)が様々に議論している。彼らは、揃って念仏
以外の全ての修行方法を嫌(きら)い、貶(けな)して善本・徳本の真門を開示している。善本
・徳本の真門とは称名念仏だ。阿弥陀経は、名号執持 〜 一心不乱を説いている。善本・徳本
の真門つまり、一心不乱の執持名号、称名念仏を勧めている。多くの先人が難思往生、つまり称
名念仏による疑城胎宮への往生を勧めている。

 ここをもって経には「多善根・多功徳・多福徳の因縁」と説き、釈には「九品ともに回して、
不退を得よ」と云えり。あるいは「無過念仏往西方 三念五念仏来迎」と云えり。これはこれこ
の経の顕の義を示すなり。これすなわち真門の中の方便なり。

 阿弥陀経には異訳本がある。これを襄陽石碑経という。阿弥陀経と同系列の経典だ。この襄陽
石碑経には、称名念仏が多善根・多功徳・多福徳の因縁であると言っている。それだけではない。
善導の法事讃という解釈本には、九品ともに回して、不退を得よと言っている。人には上品上生
から下品下生まで九種類のタイプがある。それぞれに修行法がある。これらの修行をもって不退
転の悟りを得よと言っている。称名念仏をもって不退転の悟りを得よと言っているのだ(親鸞流
の解釈)。あるいは、念仏して極楽浄土に行くこと以上に素晴らしいことはない。念仏を三念あ
るいは五念すればそれだけで仏は迎えてくれるともいう。こうした主張は全て、阿弥陀経の文字
を追っていけば理解できる顕の意味である。真門について言えば、これが方便である。

352 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:34:24 ID:ESbGrYkg
「彰」と言うは、真実難信の法を彰す。これすなわち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心
海に帰せしめんと欲す。

 顕と彰の内の彰を考えよう。彰は真実難信の法を示す。なぜ疑城胎宮を勧めるのか。疑城胎宮
を通じて不可思議の願海を明らかにしている。難思議の願海を明らかにしているのだ。これをも
って無碍の大信心海に導こうというのが仏陀の考えである。
 難思議とは何か。親鸞は信の巻で言う。「必至滅度の願 難思議往生」と。また証の巻でいう。
「真実証を顕さば、すなわちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度
の願より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり」。

  利他円満の妙位、無上涅槃の極果こそ、難思議往生の世界である。難思議往生の世界、利他円
満の妙位、無上涅槃の極果を光闡するため、化身仏はいったん方便の世界に導くというのだ。

 良に勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり、かるがゆえに「甚難」と言えるな
り。釈に、「直ちに弥陀の弘誓重なれるに為って、凡夫念ずればすなわち生まれしむることを致
す」と云えり。これはこれ隠彰の義を開くなり。

 阿弥陀経では無数の仏達が念仏を勧めている。二十願の信に、機に応じて無数の信がある。そ
こから利他円満の妙位、無上涅槃の極果の信を得ることは、普通は極めて難しい。だからこそ、
阿弥陀経は甚難の法といっている。何が甚難なのか。難思議往生が甚難なのだ。一方、善導大師
は法事讃でいう。阿弥陀仏の誓いは重複している。だからこそ、信のない者も、信のない中で二
十願の念仏を称えていけば、やがて難思議往生にいたる。

353 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:34:57 ID:ESbGrYkg
 親鸞の和讃を紹介しよう。
 定散自力の念仏も、果遂の誓いに帰してこそ、おしえざれども、真如の門に転入す。
 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

 真実の世界は難信の世界なんだ。いきなり入ることはできない。だからこそ、仏はそこへの入
口を設けた。真門という。真門を設けた如来の大悲の恩を理解し、だまされたつもりで一度は疑
城胎宮に入るといい。
 何をするのか。
 定善自力の念仏でいいんだ。散善自力の念仏でいいんだ。最初から信が得られるわけはない。
二十願を見てみよう。果遂せずんば、正覚を取らじとある。必ず遂行するぞと言っている。この
言葉を信じ、一度は疑城胎宮でいいからだまされたつもりで飛び込んでみるといい。称名念仏を
はげんでごらん。そうすれば、やがて真如の門に転入する。難思議往生を遂げるだろう。

 親鸞は、化身土巻の冒頭で言う。「至心回向の願、不定聚機、難思往生」と。
 二十願に、至心回向とあるのに注目して欲しい。二十願は、不定聚機に向かって語られている。
親鸞は、念仏の行者を正定聚機、不定聚機、邪定聚機に分ける。不定聚機とは、誘われれば念仏
を称えるが、誘われなければ称えられない。勧めれば念仏に向かうが、それがなければ念仏を称
えない。一定していない人をいう。邪定聚機は、勧めても念仏を称えない人、正定聚機は、勧め
なくても自分から念仏を称える人だ。

 勧めれば念仏に向かうに向かう人に向かって、親鸞は言う。難思往生を求めよ。真門に入れ。
いったんは疑城胎宮に身を委ねよという。そうすれば、おしえざれども真如の門に転入するだろ
う。これが、不定聚機にとっての難度海を度する大船である。親鸞はそう言っている。おしえざ
れども真如の門に転入す。称名念仏に励んでいけば、自然に難思議往生が開けてくる。これが他
力の本質である。

354 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 13:58:27 ID:ESbGrYkg
 仏法は聴聞に極まる。仏が表している言葉で、我々は何をどこまで知りうるのか。話を聞けば
どこまで分かるのか。仏法は聴聞に極まる。それでは、聴聞だけでどこまでいくのか。
 仏法は聴聞に極まるとは、器は不定聚だが、真門がどこか分からないという人に言っているの
だ。阿弥陀経を見て欲しい。無数の仏達は、称名念仏を勧めている。つまり、聴聞で聞こえてくる
仏法の究極は二十願の世界なのだ。法を聞けば真門までは至る。しかし、真門から真如門は念
仏を称え、自然に転入していく外に道はない。
 疑城胎宮から真如の世界には、称名念仏の他力による。聴聞を極めれば、真門に至るが、真
如門に至るわけでないことは重要なことだ。親鸞の三願転入の文を読もう。

 愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永
く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。 

 論主(曇鸞・善導)の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って善本・徳本の真門に回入した。つまり、
先人の指導によって、真門に至ったという。難思往生の心を発したという。しかし、難思議往生
の心を発したとはいっていない。親鸞でさえ曇鸞・善導の解義を仰いで真門に到達したが、そこ
から先は一心不乱の執持名号、称名念仏によるほかはないのだ。
  
 真門に立とう。そこは一心不乱の執持名号の世界だ。百人・二百人の先人にいくら話を聞いて
も、称名念仏がなければその先はいかない。百人・二百人の先人が導くのは、真門までである。
後は自らが念仏を称えるかどうかにかかってくる。

 このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと
云々
 歎異抄の第二章は仏法、言葉の限界を示している。    (以上)  数日カキコ不能。

355 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 15:21:07 ID:ESbGrYkg
 追加
 ちょっと大事なことを言い忘れた。

 聴聞で真門に至ると言ったが、至った箇所は、そこはまだ真門の外側である。
 真門の内側に一歩踏み込むのは、称名念仏による。ここの境界は明確にし
ないといけない。

356 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/28(水) 20:02:10 ID:ESbGrYkg
 今日だけは時間があるからもう少し足しておこう。

 仏法はどういう人に教わるか。
 仏法は、知りそうもないものが知っている。仏法を知っている者と、知らない者との分水嶺

聴聞でどこまで到達するか。
 外道の教え 聴聞で難思議往生に至る。信心が得られる 
 仏法    聴聞は、真門の外まで。聴聞だけでは信心が得られない。
仏法は聴聞に極まるとは、聴聞がなければ真門の外に到達できないということである
   真門の外に到達しようとおもえば、聴聞に極まる。
   その先は、思索と称名念仏がなければならない。

阿弥陀仏は誰を救うのか
 外道の教え 一切衆生全ての者を救う
 仏法    念仏を称える者を救うのみ。
 十方微塵世界の念仏の衆生をみそなわし、摂取してすてざれば、阿弥陀と名付けたてまつる。

念仏は何回称えるのか。
 外道の教え  称名念仏は1回でもいい。称えないもいい。
 仏法     称える念仏は、後にも先にもこれ一回だけという、そんな特殊な念仏を予定し
    ていない。次にも、次にも念仏が重ねられていくことが当然予定されてれいる普通の念
    仏を考えている。
     次にも、次にも念仏が重ねられていくことが当然予定されてれいる普通の念仏であれ
    ば、たまたま称えた瞬間に死ねば、結果として1回となる。
     しかし、通常の健康な人であれば、1回と称えるということは、2回、3回と繰り返
    し重ねていく。一心不乱(阿弥陀経)に称ていくものだ。

ゼロ回について
 外道の教え 念仏は称えなくても救われる。
 仏法    念仏のない者は救わない。1回が数の極限である。
                       明日から数日カキコ不能

357 :神も仏も名無しさん:2007/11/28(水) 23:43:52 ID:ESbGrYkg
>349
誤 方便真門の誓願と言い、難思議の弘誓と言っている
正 方便真門の誓願と言い、難思の弘誓と言っている

358 :7:2007/11/29(木) 01:18:17 ID:ftBKdklU
うーん・・・・S会は19願の勧め?というか自力聴聞の勧めばかりになっていたが、渡海さんは最近20願を勧めてばかりのような。

どこかに18願を勧めてくださる善知識はみえませんか・・・?

359 :298:2007/11/29(木) 02:02:56 ID:Y4+JFR4j
7さん
2chで善知識が紹介されるとは考えにくいです。
ご存知のように、止住百歳なのですから、もちろん今の世にも
善知識はいらっしゃいます。
まずは、信を取っている人に会う事です。
263さんは、地蔵菩薩、観音菩薩に手を合わせることを勧めています。
唱名念仏も、助業になると思います。
その念仏自体を往生の業にしようとするのではなくて、
阿弥陀仏を求めるが故に、念仏をするのです。
これでは20願だと思いながら、それでも弥陀を求めるために、念仏をします。
当流のすべては、南無阿彌陀佛の六字のうちにあるからです。
私たちは、人間界の衆生ですが、弥陀は本師本佛である故に、
善神も、弥陀へと導いてくださるのです。
通常の常識ではかっても、あまり意味がありません。
難思議往生を遂げ、弥陀の極楽浄土へと参るための道です。

360 :神も仏も名無しさん:2007/11/29(木) 19:34:38 ID:qBfWgMjB
>善本という概念は親鸞の独創だ。

十九願の願成就は法然上人だと思うけど
二十願の願成就って誰が言い始めたんでしょうね。

詳しい人教えてください

361 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 16:04:28 ID:uHwKOh3V
十八願成就は南無阿弥陀仏。
必ず仏に成さんとのみ親の呼び声。

十八願成就によって、他の四十七願は成就している。

だから、十九願の機も二十願の機も、南無阿弥陀仏を
となえる事が可能なのである。

南無阿弥陀仏は私たちがとなえるものではなく、
南無阿弥陀仏の呼び声が既にあったからとなえる事が
出来る事に気付かされた時に、十八願に転入する。

十九・二十願は、十八願に転入させる為の彌陀の悲願である。

362 :7:2007/11/30(金) 16:48:20 ID:pduQtcFX
確かに口から南無阿弥陀仏と称えることが出来るのはお釈迦様が仏説を説き、親鸞聖人、蓮如上人に至るまで
仏説を伝えてくださった方のおかげ、それはもちろん阿弥陀様のおかげ。

しかしその、「気付く」とはどういうことなんでしょう。
今、頭では合点出来るんですよ、だって南無阿弥陀仏という称名、自分でこさえた訳ではないんですから。
しかし、南無阿弥陀仏と称えてみても、ぼんやりとした不安はなくならない。変わらない。
阿弥陀仏の存在も、南無阿弥陀仏のお力とも、何の実感も沸かない。そう、どこにも歓喜がない。
救われた、という確信も無い。
二種深信ってどういう風に知らされるのですか?
救われない自分だということも、必ず助ける本願だということも、ただ耳を素通りしていくばかり。これはどういうことでしょう?

363 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 21:15:57 ID:uHwKOh3V
芯から不安が無くなるのは臨終の一念の時。
生きてる間は煩悩(不安・怒り・欲望etc)は絶える事は無い。

しかしながら、煩悩がいくらあっても、彌陀の光明の
中に摂取されている事には間違いが無い。
口にお念仏が出て、阿弥陀仏の事を語り合えるのが、
阿弥陀如来の光明に摂取されている歴然とした証拠。

不断煩悩得涅槃
摂取心光常照護

私達の中にどんなに煩悩があっても、
阿弥陀仏は
「私はあなた達と常に共にいる!煩悩など問題ではない!
既に私の光の中にいるのだ!南無阿弥陀仏!」
とおっしゃられているように私は味わっている。

364 :神も仏も名無しさん:2007/11/30(金) 23:37:24 ID:Yrsak5tT
いや、二十願成就文に
しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、
かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず
とあるから、二十願の行に善本があることは分かるんだけど
でもこの文を誰が二十願成就の文て言いだしたのかなと疑問に思ったの


365 :298:2007/12/01(土) 00:35:10 ID:s7xkf6vk
7さん
二種深信は、真実信心ですから、これも、弥陀からいただくものです。
7さんは、まだいただいていないのですから、「わからない」とわかることが、
尊いのだと思います。
それを、自分であれこれ考えて、むりやりにわかろうとするのは、
自分でわかると思っているからで、その種の方は、自力をたのんでいるのですし、
わかっていないのに、わかっていることにしてしまうのも、同じです。
「気付く」のではありません。
耳を素通りしてゆくのも、自然なことです。
そのような凡夫だからこそ、弥陀をたのむのですから。

366 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 10:35:13 ID:ElCh2B2B
十八願が成就している事は、
他の四十七願も成就している事だから、二十願も成就している事になる。
十八願が成就しているのに二十願や他の願だけが
成就していないのはおかしいではないか。

南無阿弥陀仏が阿弥陀仏の救いの成就の
お姿である事を信知すれば、諸行をたのんだり
称名を励む自力念仏から自然と離れてゆく。

367 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 10:39:33 ID:ElCh2B2B
私達は自分の称名や諸行や理解
によって救われてゆくのではなく、
阿弥陀仏の「必ず救う」と言う南無阿弥陀仏の
お呼び声によって救われてゆくのです。
本願成就の南無阿弥陀仏によって救われてゆく、それだけです。
「勅命のほかに信心なし。」なのです。

368 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 11:08:21 ID:7OmaeI15
それは十七願の念仏でしょ
諸仏が私たちの口を通して弥陀を讃歎してくださっているという
でも、私たちが称えているとしか思えない人たちが
あれやこれや考えてしまうそれを二十願の行と呼ばれたんではないの?聖人は
でも自分の称名や諸行や理解によって救われようとしていくことは大事
こう言っているように思うんだが。
称名しなさいと言われてすなおに助かると信じておられる方その人は
二十願じゃないような

369 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 11:20:02 ID:7OmaeI15
まあ、聖人は十九願も真実ではないと言われてしまったのだが…
私はここのところ難しいと思う。
なぜなら十九願も二十願も真実は説かれているから
でも、やはり法然上人の言われるとおり、浄土宗の安心は
ただ往生極楽のために疑いなく往生するぞと南無阿弥陀仏と申す以外にない
よね

370 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:51:51 ID:4aiv7vH6
> 358
>渡海さんは最近20願を勧めてばかりのような。どこかに18願を勧めてくださる善知識はみ
えませんか・・・?

 貴方は何か勘違いしているんじゃないか?>> 255で貴方は何と言っているんですか?。「どう
すりゃいいんだ。 〜 何を、どのように、求めていくべきか。」と言っているんだろう。>>
256では、「獲信者と断言される方、念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。
しかし、話をすると、何だか悔しいやら腹が立つやら。その心がどんな精神的世界に住み、どん
な境地にあるのか、サッパリ分からない。」と言っているではないか。貴方は、頂上を知りたい
のか、登山口を知りたいのか。どっちなんですか。

 頂上は、登山口から登っていけばやがて到達するだろう。今大事なことは、どこに登山口があ
るかということだろう。どこに入口があるかということだろう。
 親鸞会では登山口として19願を示した。観無量寿経を示した。19願を要門という。しかし
これはお門違いだった。
 
 また云わく、もし専を捨てて雑業を修せんとする者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に
五三を得。
 要門から入っても、真実に至る者は少ない。百人に一人か二人、千人に五人又は三人程度に過
ぎない。親鸞会は、万に及ぶ人がいても、真実に至る人は遂に一人もいなかった。

 何をもってのゆえに。いまし雑縁乱動す、正念を失するに由るがゆえに、仏の本願と相応せざ
るがゆえに、教と相違せるがゆえに、仏語に順ぜざるがゆえに、係念相続せざるがゆえに、憶想
間断するがゆえに、回願慇重真実ならざるがゆえに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆえに、慚
愧懺悔の心あることなきがゆえに。

 なぜそのようなことになるのか。雑縁が邪魔をするからだ。正念が失われるからだ。仏の本願
に一致できないからだ。教えと食い違っているからだ。正しい言葉に従っていないからだ。心が
連続しないからだ。思いが寸断するからだ。過去を丁寧にふり返ることがないからだ。怒りの心
など、様々な間違った見解が生まれ、煩悩が起きて寸断するからだ。慚愧懺悔が起きないからだ。
これだから要門から入っても、そこに止まる限り真実に至ることはない。

371 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:52:40 ID:4aiv7vH6
 今、貴方は、頂上の話を聞きたいのか。頂上がどんなに美しいところかを知りたいのか。それ
とも、そこに至る真実の門、入口を知りたいのか。どっちなんだ。

 誓願不思議をうたがいて 御名を称する往生は 宮殿のうちに五百歳 むなしくすぐとぞとき
たまう(和讃)
 信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、
名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。(歎
異抄)

 誓願不思議を疑って南無阿弥陀仏を称えていけば、宮殿の中で唯空しく、いたずらに五百年も
の長い時間が過ぎていくだろう。しかし、誓願不思議を信じて称えていけば、つまり難思の弘誓
を信じて称えていけば、必ずや真如の世界に達するだろう。
 難思の弘誓とは何か。辺地懈慢疑城胎宮にも往生しても、果遂の願つまり二十願によって必ず
真如の門に達する。これは名号不思議の力である。誓願不思議によるものだ。

 それ濁世の道俗、速やかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願うべし。

 社会的に様々な濁りが生じている時代の人々は、要門ではなく、速やかに円修至徳の真門に入
り、難思往生を願え。

 真門の方便について、善本あり徳本あり。

 真門は目的地ではない。入口である。通過点である。方法論である。しかしそこは善本と徳本
とが備えてある入口である。方法論である。善本だけの要門とは異なる。

372 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 11:54:28 ID:4aiv7vH6
 定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。「雑心」とは、大小・凡聖・一切善悪、お
のおの助正間雑の心をもって名号を称念す。

 入口を通過していくには、定専心すなわちひたすら精神の集中を求める心がある。散専心すな
わちより正しいことをひたすら行なっていこうと思う心がある。両方を含む心もある。大乗仏教
を学ぶ者、小乗仏教を学ぶ者、凡人、聖人、善人、悪人様々な人々が様々な心で称えていくのだ。
助業の心と正業の心とが入り交じって名号を称えていく。

 良に教は頓にして根は漸機なり、行は専にして心は間雑す、かるがゆえに雑心と曰うなり。

 教えの本質は、速やかに真実の世界に導く内容であっても、それを行じて行く器(うつわ)は、
実に反応が鈍い。行は念仏だけに絞っていても、心は様々である。だから、この心は雑心という。

 定散の専心とは、罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを「自力の専心」と名づくる
なり。

 二十願の世界には定散の専心もある。どうか不幸に見舞われませんように、どうか幸せになり
ますように。そう祈りながら称えていく念仏がある。これを全て自力の専心という。

 雑心の心で称えなさいな。定散心で称えなさいな。何も遠慮することはない。雑心の心ではだ
め、定散心ではだめ。そんなきれい事を言っていれば、だれも念仏を称えられないだろう。

 「善本」とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。かるがゆえに善
本と曰うなり。「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍
みな転ず、十方三世の徳号の本なり。かるがゆえに徳本と曰うなり。

 称えている心は自力の心でも、称えられている念仏は善本・徳本が備わっている。万善円備す
なわちあらゆる善が備わっているんだ。全ての善の本である。如来の徳号なんだ。一声称えれば、
あらゆる禍を徳に転換する。十方三世の徳号の本である。必ず真実の世界を開いてくるだろう。

373 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:20:52 ID:4aiv7vH6
 しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、
もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり。

 だからこそ、釈迦牟尼仏は智慧を絞って様々な人に教えた。自力の心を持っている人、定善の
器量の人、散善の器量の人に、定善の心、散善の心でいいから称えてみよと教えている。称える
者は疑いの心で称えても、称えられている念仏が疑いを晴らしてくるだろう。果遂の誓いを信じ
て永続的に称えていけば、必ずや真実が見えてくるだろう。


 不了仏智の徴には 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を 頼めば辺地に留まるなり
 仏智の不思議を疑いて 自力の称念好むゆえ 辺地懈慢に留まりて 仏恩報ずる心なし

 自力諸善の人は皆 仏智の不思議を疑えば 自業自得の道理にて 七宝の獄にぞ入りにける
 仏智を疑惑するゆえに 胎生のものは智慧もなし 胎宮に必ず生まるるを 牢獄にいると喩え
たり
 七宝の宮殿に生まれては 五百歳の年を経て 三宝を見聞せざるゆえ 有情利益はさらになし

 門の中に入ってからの問題と門の中に入る前の問題とを混同してはいけない。剣道は素振りに
始まり、素振りに終わる。その間に様々な技の学習があり、練習がある。心に迷いが生じ、悩む
ようになれば、いつでも素振りに戻る。素振りを繰り返し繰り返し練習する。
 今年、ワールドシリーズに出場した松井稼頭央選手は、渡米後、一時は大不振に陥ったという。
そのとき彼は、花形選手のプライドを捨て、野球初心者に戻ってひたすら素振りを繰り返し、バ
ッティングフォームを直したそうだ。

松井稼頭央選手には遠く及ばない我々が、初心者であることをどうして恥じることがあるだろう
か。肩に力が入っていてもいいんだ。さあ、やるぞとの思いで、力こぶが入って念仏を称えてもい
い。最初から肩に力を抜けと言っても意味がない。力こぶが入った念仏では、いつまでたっても
真価が現れない。だからといって、最初から力こぶを抜けと言っても、そんなことはだれにもで
きない。だからこそ、最初は力こぶが入っていてもいい。大事なことは、念仏を開始することだ。

374 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:24:13 ID:4aiv7vH6
 力こぶが入っていてもいいというのは、これは入口だ。方法論だ。いつまでもいつまでも力こ
ぶがとれなければ、力こぶがとれない間は真価は出ない。力こぶは取れていかなければならない
んだ。自然の心で、肩に力の入らない念仏を称えていかなければ本物ではない。しかし、力こぶ、
肩の力は、続けていく中でやがて取れていく。気づきが生まれてくれば、自然に治ってくる。そ
れが念仏の徳本という意味だ。
 素振りを繰り返していけば、徐々に気づきが生まれてくる。近くに指導者がいれば是正は速い
が、いなくてもフォームの乱れは徐々に直っていく。これが素振りの徳本だ。素振りには、初心
者が学ぶあらゆる学習事項が凝縮している。これが素振りの善本である。素振りの中で真実を体
験していきなさい。
 念仏は剣道や野球の素振りと同じだ。念仏を始めないことには、力こぶは抜けない。肩の力は
取れない。自然な他力の心は得られない。大事なことは、意識的に力こぶを抜こうとすることで
はない。自力の心を捨てようと言うことではない。自力の心でもいから、力こぶが入ってもいい
から、まず最初はだまされたつもりで念仏を始める。続けることだ。やがて気づくものがあれば
その中で力こぶが抜け、自在な自然な心がもたらされてくる。他力の心で金剛のバッティング
フォームが得られてくるだろう。これが果遂の誓いの本質である。
 18願の世界を説いてくれと言う。力こぶが抜け、肩の力が抜け、自然に念仏が称えられてい
く。これが18願の世界だ。肩の力を抜け、自然になれと言われても、確かにそれは遠い将来の
話とは決して言わない。しかし、今日現在の我々の話ではない。

375 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 12:37:24 ID:7OmaeI15
いやあ、十九願の念仏と二十願の念仏分けて考えることが
そもそも方便としての十九願を離れていない気がするんだよ
上中下とそれぞれ念仏を比較しているでしょ
何様なんだよということではないでしょうか?
阿弥陀仏の心である名号に果として差別があるはずがないじゃないかと
この念仏はちがうあの念仏はちがうと思っているその心が
上中下と差別を産んでいるのではないだろうか?
それは仏智を疑ってる姿ではないのかと


376 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 12:45:37 ID:5vWprmEy
>>370-374
                           ∧_∧
◎               へ          (´<_` )
  \    ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \
      彡____人  )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )  ウゼェんだよ! キモオタッ!
 ◎-●一( * *    ヽミ          |.      |   
      ((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉     | |   
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ-=_二__ ̄    \     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ       ̄\     / /
       (__))     ヽ        .\__/_丿
       |  |         ヽ         .|  |
       |  |______)          |  |
       |  〉三三三[□]三)        |  |
       ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/         \ ヽ
       ~~~|::::::::::::::::::/:::::::/             \ |
         |;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/            / ノ
        (___|)_|)           `-

377 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 12:48:53 ID:4aiv7vH6
>358
> どこかに18願を勧めてくださる善知識はみえませんか・・・?

往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼ
しめして、御念仏そうろうべし。(20願)

 不定聚の人は、どうかこれで極楽往生できますようにと、自力
の心、祈りの心をもって念仏をお称えください。肩に力が入るな
ら、力が入っていいんだ。力めば称えられるという人は、力んで
称えればいい。無理に無くそうと思う必要はない。

 わが身の往生、一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼ
しめさんに、御報恩のために、御念仏、こころにいれてもうして、
世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼ
えそうろう。(18願)(消息集)

 正定聚の人は、念仏の尊さを心に思い、力を抜き、力まずに
御報恩のために御念仏を称えてください。世の中安穏なれ、仏
法よどうか広まってくれ、そんな思いで、自然な気持ちで称えて
ください。(消息集)

378 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 13:26:34 ID:7OmaeI15
法然上人は十八願も十九願も真実とおっしゃって
二十願についてはさほど言及されてない
でも法然上人の教えはただ念仏すべしなんだよね


379 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:11:30 ID:ElCh2B2B
法然の教えそのままでは、身体的理由など
様々な理由で称名出来ない者達は救われない事になる。
称名出来る者達はすればよい。しかし称名出来ない者達も
全てを救うのが阿弥陀仏の呼び声である
南無阿弥陀仏だ。

380 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:17:04 ID:ElCh2B2B
十七願は諸仏称揚の願で、諸仏が称名し
阿弥陀仏を讃えている。
しかし、称名し讃えるなら、その前に南無阿弥陀仏の
名号が成就していなければならない。
だから如来の呼び声である南無阿弥陀仏は十七願が始めに来る
のではなく、あくまでも十八願成就の上での十七願成就なのである。
阿弥陀如来の本願成就の名号があるからこそ、
諸仏は称揚し賞賛するのである。

381 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 15:19:26 ID:4aiv7vH6
>>374 (重要なキーワードを入れるのを忘れていた)
誤 これが果遂の誓いの本質である。
正 力は継続から生まれる。継続は力なり。すぐには結果が出なくても、続けていけば、
やがて結果が出るだろう。これが果遂の誓いの本質である。

>375
 何が言いたいのかよく分からない。もっと考えを整理するといいだろう。

>378
 親鸞の考えと法然の考えが違うのは当然だ。僕と親鸞の考えに違いが
あっても不思議はない。
 他人を説得できるしっかりした自分の信念を持つことはとても大事なことだ。
あなたの言いたいことは伝わってこない。

382 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 15:22:54 ID:4aiv7vH6
>379
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる

 称名念仏しない人を救うとは、親鸞でも言っていない。

383 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 15:34:17 ID:ElCh2B2B
称名出来ない人達も救うのが阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏です。
無条件で救うのが「必ず救う、必ず仏にする」
という南無阿弥陀仏の本願召喚の勅命です。
称名が救いの条件で無いからこそ、私達は安心して称名出来るのです。
私達は南無阿弥陀仏でもナマンダブでもナマスアミターブッダでも
好きな表現で称名出来るし、また称名出来ない時は無理にしなくてよい。
それは私達が称名する前に、既に阿弥陀仏が
本願名号成就され、諸仏が称揚されているからです。

行も信も無い私達を救い仏にする為には、そこまでしなければならなかったのです。

384 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 16:43:03 ID:4aiv7vH6
> 380
> 十七願は諸仏称揚の願で、諸仏が称名し阿弥陀仏を讃えている。

 お伽噺は、子供を相手にするといい。お寺幼稚園「仏様のお話は」は、そろそろ卒業するとい
いだろう。背景の思想を考えようじゃないか。

> 383
>称名出来ない人達も救うのが阿弥陀仏の本願成就の南無阿弥陀仏です。

 馬鹿馬鹿しい話だ。

本願成就の文、経に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。
至心に回向せしめたまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せん。
ただ五逆と誹謗正法とをば除く、と。

 おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言
うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す(行の巻)。

 一念は例示ではない。易行の至極を顕開す。極限である。つまり一回を限界とする。一回を限
界とすると言うことは、本願成就の文で、ゼロ回を含まないと言うことだ。

 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、といえり(行の巻)。
真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。(信の巻)

385 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 16:44:10 ID:4aiv7vH6
 寂静無為の楽に入るには必ず信心を必要とする。真実の信心には必ず名号を具す。称名念仏が
備わる。(ただし、称名念仏があるからと言って、必ずしも信心があると言うことではない)。
だからこそ天親は最初、我一心に「帰命尽十方無碍光如来」という名号を付した。

> 無条件で救うのが「必ず救う、必ず仏にする」という南無阿弥陀仏の本願召喚の勅命です。

 仏道は善因善果。無因善果ではない。救いのバーゲンセール、大安売りするのはやめたらどう
よ。

 「帰命」は本願招喚の勅命なり(行の巻)。
 帰命が本願招喚の勅命なら、どうして南無阿弥陀仏を称えないで救われるということになるの
よ?
 本願招喚の勅命とは、念仏を称えよと言っていると言うことだ。称えないでも救いますよとい
っているんじゃない。

 称えないでも救われるという、外道のインチキ教義を立てるのは勝手だが、そんな教義に親鸞
の名前を使って貰いたくないものだ。

386 :298:2007/12/01(土) 17:07:11 ID:apn3YjDJ
>385
>「帰命」は本願招喚の勅命なり

これは全くその通りですが、渡海様の南無阿彌陀佛は自己流ではないですか?
(あるいは、自己流の方の教えを受けてはいないですか?)
そこまでご聖典を勉強されていれば、真実信心をいただいたときに、
これまで謎であった箇所が一気にわかり、積年の疑問も解消するのではないかと思います。
今、渡海様は、20願を行っているのです。20願も、もちろん素晴らしく価値のあるものです。
でも、渡海様は、18願を知りたいのではないですか?
知るよりも、自己流を進めたい、好きにしたい、という方もいます。
しかし、それでは如実修行にならないのです。

◎近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、
外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、
内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、
あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、
しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ(御文)

おそらく、「おほやうに」では駄目だからということで、坐禅をするのではないですか?
ご聖典に忠実であろうとすることは、とても素晴らしいことです。
ですけれども、ご聖典を読むだけでは、18願には辿り着けないのです。

387 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 17:43:51 ID:ElCh2B2B
称名が救いの条件では無いからこそ、
私が何らかの理由で称名も聴聞も出来なく
なっても、阿弥陀仏は必ず私を仏にしてくださいます。
私が自分で仏になるんじゃない、阿弥陀仏が
仏にする!とおっしゃられているから、
私は安心して認知症にも植物人間にもなれる。
だからこそ、私は時々、ああありがたい南無阿弥陀仏、
ととなえたくなる。
自分が救われるための称名など、私はとなえたくはない!

私が称名するのは、私が既に阿弥陀仏の
み光の中にあるから称名出来るのである!
阿弥陀仏のご本願があるから私は称名できるのだ。
それ以外の称名など私には必要無い!

388 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/01(土) 17:59:59 ID:4aiv7vH6
>387,>386
 全く仰せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり。この旨
を、よくよく思いとき、心得らるべきことに候なり。

 親鸞を離れ、自らが教祖になって我流の説を立てるのは勝手だが、親鸞が腰を抜
かすような教義を、「親鸞」名の下では主張されたくないものだ。
 後学相続の者が迷惑する。これこそが親鸞の教えだというなら、聖教の根拠を示し
たらどうなのさ。

389 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 18:01:41 ID:7OmaeI15
>>381
>何が言いたいのかよく分からない。
具体的にどこが分からないか教えてください
渡海さんみたいに文章は得意ではないので逐次的に
会話する形にしたいのです

>親鸞の考えと法然の考えが違うのは当然だ。
同一人物ではないのでちがうところが出てくるのは仕方ないと思いますが
親鸞聖人は法然上人の教えが間違っているから変えようという意図はなかったと思います。
それに聖人の教えはその時代の背景とまったく関係なく出てきたものではありませんから
法然上人の教えをふまえて聖人の教えをみていくとそのこころが見えてくるものだと
思います。

>>383
称名を名前を称(たた)えるととるものだと思いますので
必ずしも声は必要ではないと思います。
また人の声が届かない人にも弥陀や諸仏は自在に説法されていると思います。
阿弥陀仏の光をしょうげするものはないのだから

>>386
教えの内容が分からない以上何とも言えませんが
あまり思わせぶりに話すのはかえって悪縁になると思います。
有縁の方を誘ったほうがよいと思います。


390 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 18:22:36 ID:ElCh2B2B
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 即得往生 住不退転


乃至一念は乃至であり、必至一念ではない。

無称名もしくは称名一念と言う事だ。

だから称名不可能な人間以外の衆生も、
本願成就の名号によって救われる事が出来るのだ。

391 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 19:57:33 ID:4aiv7vH6
>390
 Izippari.
 Tohoo wa baka o aite ni suru gijyutu no motiawase ga nai.


392 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 22:33:06 ID:ElCh2B2B
渡海さんが俺を救うをじゃないから。
阿弥陀仏が俺を救うんだからいいんだよ。
阿弥陀仏の本願は増上縁だから、無因果じゃない。

俺は、何もしなくても、本願成就の名号によって仏になれる!

393 :神も仏も名無しさん:2007/12/01(土) 23:21:41 ID:ElCh2B2B
阿弥陀仏の呼び声南無阿弥陀仏一つで、称名・無称名、賢愚の区別無く全てが救われ、
生きて光明に摂取され、死して無上涅槃の証果を得るとは、なんと愉快痛快な事では無いか!

こうなれば、となえるなと言われても、思わず
南無阿弥陀仏!南無阿弥陀仏!と称えたくなると言うものだ。

394 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 00:08:24 ID:W1dfdJ0W
>318
> このスレッドの書き込みを読む限りは、私とは、相当考え方が違うのです。
> それでもお話することできるのでしょうか。

 固く考えることはやめましょう。考えが違う人と話し合うのは大事なことだと
思います。

>もう安心を得ている方ですか。

 さあ。なんといいましょうかね。

>また、私はお酒は飲まないのですが、大丈夫ですか。

 よろしいんじゃないですか。私も余り飲む方ではありません。

395 :\______  __________________/:2007/12/02(日) 00:16:47 ID:HO9EH4/C

          V
          /::::)(:::)(:::::::::::)(::::::^::::::::::\
      (::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ::::::::::\
     /::::::::::/ノ::::::::ノ::::::::ヽ:人::::::::::ヽ:::::::::::::::)
     (::::::::::/  ):::ノ::::ノ ) ソ ヾ::::::::::::丶::::ヽ
    (:::::::::/ 彡  ノ   ノ  :: 彡:/)) ::::::::::)
   (::::::::::/彡彡彡彡彡   ミミミミミミミ :::::::::::)
   ( :::::::// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |:::::::::)
     | =ロ   -=・=-  ‖ ‖ -=・=-   ロ===
     |:/ ‖    / /ノ  ヽ \     ‖ ヽ|ヽ       
     |/  ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ.   ..| |     
    .( 。 ・:・‘。c .(●  ●) ;”・u。*@・:、‘)ノ  
   ( 。;・0”*・o; / :::::l l::: ::: \ :。・;%:・。o )
    (; 8@ ・。:// ̄ ̄ ̄ ̄\:\.”・:。;・’0.)   
   .\。・:%,: )::::|.  ̄ ̄ ̄ ̄  | ::::(: o`*:c /..    
    \ ::: o :::::::::\____/  ::::::::::   /
      (ヽ  ヽ:::: _- ::::: ⌒:: :::::::: -_    ノ
       \丶\_::_:::::_:::: :::::_/::::  /
        | \ \ ::::::::::: :::::::::: ::: ::__/ |
    ̄ ̄\ 丶  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄    / ̄ ̄

396 :298:2007/12/02(日) 06:23:37 ID:gAaRZQD1
>388
>親鸞を離れ、自らが教祖になって我流の説を立てるのは勝手だが、親鸞が腰を抜
かすような教義を、「親鸞」名の下では主張されたくないものだ。
>後学相続の者が迷惑する。これこそが親鸞の教えだというなら、聖教の根拠を示し
たらどうなのさ。

おっしゃること、誠に正論であると思います。
「親鸞が腰を抜かすような教義」と感じられる部分について、具体的にご指摘くだされば、
ご聖典を示す様に致します。

397 :298:2007/12/02(日) 06:27:56 ID:gAaRZQD1
>394
>>もう安心を得ている方ですか。
>さあ。なんといいましょうかね。

渡海様。これは、ごまかしている言い方で、おもわせぶりな言い方ではありませんか。
「さあ。なんといいましょうかね」という段階は、真宗のご聖典で言えば、
どこに相当するか、わかりますか。


398 :298:2007/12/02(日) 06:50:21 ID:gAaRZQD1
私は、渡海様は、ご聖典を読み込んでいると思います。書いていない部分をどう埋めるか、
考えてこられたのでしょう。
「無称名で」という方がいらっしゃいますが、どう読んだらそうなるのでしょうか。
「称名と言われても、実際何をするのかわからない」という疑問が生じるのなら、
自然だと思います。
「現に南無阿彌陀佛と唱えているのだから」という方がいらっしゃいましたが、
それであるのなら、「南無鈴木太郎」でも、良いではないですか。
あなたが「南無鈴木太郎」と口に出したら、鈴木太郎さんの本願成就なのですか。
本当にその考え方で、安心が得られているのでしょうか。
わざわざ仏陀でなければ、見いだせないような説でしょうか。
安心が得られているなら、私がとやかく言う事ではないかもしれませんが、
自障障他になってはいないか、考えてみてほしいです。
そこで追求するのをやめたら、自障になりませんか。
真宗は、どうなっているのですか。日本は大乗相応の地ではないのですか。
ぬるま湯の教えではありません。総スカンを喰らう教え、誹謗されることが
約束されている教えです。
凡夫が救われることなど、認めたくない方々が山ほどいます。

399 :298:2007/12/02(日) 06:57:09 ID:gAaRZQD1
渡海様。我一心の一心は、18願においては、弥陀からの廻向なのです。その一瞬に、
極楽往生が治定します。これは、体験はともかく、教義上はそのように考えて
いらっしゃいますか。

400 :298:2007/12/02(日) 09:08:14 ID:gAaRZQD1
「無称名で救われる」という考え方が、やはりよくわかりません。
いずれ、称名するのだから救われる、ということでしょうか。
それとも、諸行往生のことをおっしゃっていらっしゃるのですか。

401 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:15:28 ID:tJnVyNE5
>400
横から口出しゴメン。多分、いわれを聞き初めて称名しようとした瞬間に死んでしまったという意味?

402 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:20:30 ID:2HpiVJMW
行も信も阿弥陀仏が南無阿弥陀仏に成就している。
私達が称名するとしたら、既に救われた事への報恩の念仏である。
だから、傷害や病気で称名出来ない人達も、無称名で救われるのです。

403 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 09:25:38 ID:N7DP2g3i
弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

歎異抄では「摂取不捨の利益」は念仏申さんと「おもひたつこころのおこるとき」にある

404 :298:2007/12/02(日) 10:07:23 ID:Y8cpctmi
>403
第一条では、「念仏申さん」の「ん」は、そのときよりも後の時点を示し(多念の相続です)、
これは御恩報謝の念仏が生まれたことを示すと思います。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて」が念仏をしたところ、
「往生をばとぐるなりと信じて」は、信心をいただいた一念、
「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は、多念の相続がはじまったことを示します。
同じ考えでしょうか?

405 :298:2007/12/02(日) 10:11:40 ID:Y8cpctmi
>401
お話いただける方がうれしいです。信心の沙汰は、蓮師も奨励されています。
微妙なお話しですね。称名できていないのですから、不定聞にとどまり、
往生不定ではないでしょうか。つまり、臨終の一念によって、
生まれ方が変わってくると思います。
ですので、「無称名で救われる」ということとは、違うと思います。


406 :298:2007/12/02(日) 10:13:29 ID:Y8cpctmi
>402
>私達が称名するとしたら、既に救われた事への報恩の念仏である

その前に、真実信心をいただくための、真実行であるところの念仏があると思います。


407 :298:2007/12/02(日) 10:16:12 ID:Y8cpctmi
>402
それとも、真実行は他力の念仏であるから、「私達が」という表現で、切り分けて示していらっしゃるのでしょうか?


408 :298:2007/12/02(日) 10:28:17 ID:Y8cpctmi
>387
387様には必要がないかもしれませんが、このスレには、
真実信心を探している方がいると思い、私は書き込んでいるのです。
弥陀を向いている人には、必ずご縁が現れることになっているからです。
387様は、私には、19願、20願、18願の三願転入のうち、
まだ19願にも入っていないように見えます。
「必要ない」と意固地になるのは、どうしてなのでしょうか。
それが、弥陀の本願を信じていない心であると、私は思います。


409 :298:2007/12/02(日) 10:43:44 ID:Y8cpctmi
>161
>いわゆる「詰め」られるような段階にまで至った時のことを思うと正直怖いです。

真実信心いただくために「詰め」のような段階があるとは、私は思いません。
私も恐かったですが、それは、弥陀の前に出るのが恐かったのです。
理屈では、「弥陀はどんな悪人でも救う」と聞いていましたが、
それでも、私は恐かったです。どうしても、弥陀を自分に引き寄せて考えてしまい、
「どんな悪人でも救う」という発想が理解できなかったからです。
世間でも、「怒らないから言ってご覧」という言い方がありますが、
実際言ってみると怒られたりします。こういう経験が先入観になっていたのだろうと
思います。


410 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:39:12 ID:2HpiVJMW
阿弥陀さんの方を向いている、んじゃない。
阿弥陀さんの方に向かせられたんだよ。

阿弥陀さんの方を向くような立派なもんなど私の中には無い。
金とか女の方ばかり向いているのが、この私。

そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

411 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:42:58 ID:jo1hnH7H
>>404
普通
「念仏申さん」は「念仏を称えよう」

だから「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は
「念仏を称えようというこころの起こるとき」と読む

本願寺出版社の現代語訳付き歎異抄の該当部分
「阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、
 必ず浄土に往生するのであると信じて、
 念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、
 その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与えくださるのです。」

ただし「念仏を称えようという思いがおこ」ったわけだから、後続には念仏がでることになる
それこそ一形(この肉体)が尽きるまで

412 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 11:55:28 ID:jo1hnH7H
「念仏もうさん」

まう・す【申す】〔現代かな遣い〕もうす《他動詞・サ行四段活用》
「まうさん」は未然形の(まう・さ)に、意志の(む)がくっついた形だから

「申そうという意志」

だから「念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき」は
「念仏を称えようという意志の起こるとき」

413 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:18:25 ID:2HpiVJMW
念仏申そうと思う瞬間に限らない。
阿弥陀仏や本願について思いを馳せた瞬間に、
既に阿弥陀仏の光明に摂取されているのです。

414 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 12:18:54 ID:jo1hnH7H
>>413
文証如何?

415 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:01:05 ID:jo1hnH7H
>>413
信巻
しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、
これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

文類聚鈔
「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。
きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。
またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

416 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:09:25 ID:W1dfdJ0W
>410
> そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
> 阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人
を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜ
ず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と(信の巻)

 ただ、もっぱら阿弥陀仏を念じる衆生あれば、仏心の光は常にこの人を照らして
摂め、護る。決して捨てることはない。

 金とか女の方ばかり向いているようなそんなノータリンの余の雑業の行者を照
らし摂むだろうなどということは、誰一人議論していない。問題にしていない。実
に馬鹿馬鹿しい話だ。

 阿弥陀仏を念じる衆生あれば救っていくというのが、現生に護り念じ、増上縁と
なっていくということである。

 少し、目を覚ましたらどう?

417 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:10:24 ID:jo1hnH7H
>>413
>往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき

「信じて」とあるけれども、信じるというのは仏願の生起本末を聞いて疑心のないこと。
「仏願」とは「至心信楽欲生我国乃至十念」が誓われた第十八願。
「生起本末」とは、自力では生死を離れる事のできない「私」を目当てとして、
仏が誓願を立て、五劫思惟し、そしてその成果である名号が今、私に届いているということ。
その仏願には乃至十念も誓われている。

一念多念文意
「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十八願)の文なり。
この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もしわがくにに生れずは仏に成らじ」
とちかひたまへる本願なり。
「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。
多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、
法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

418 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:11:43 ID:jo1hnH7H
>>417をふまえた上で

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、
往生をばとぐるなりと「信じて」念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき
すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

419 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:15:50 ID:W1dfdJ0W
>415
>またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。

 この信心は、名号(称名念仏 念仏行)を伴っている信心かい?
それとも、名号(称名念仏 念仏行)のない信心かい?

真実の信心は必ず名号を具す。名号は必ずしも願力の信心を具せざるなり。このゆえに論主建め
に「我一心」と言えり。(信の巻)

 真実の信心には必ず名号を具す。称名念仏が備わる。(ただし、称名念仏があるからと言って、必
ずしも信心があると言うことではない)。だからこそ天親は最初、我一心に「帰命尽十方無碍光如来」
という名号を付した。


420 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:38:24 ID:jo1hnH7H
>>416
>また云わく、ただ阿弥陀仏を専念する衆生ありて、かの仏心の光、常にこの人
>を照らして摂護して捨てたまわず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜ
>ず。これまたこれ現生護念増上縁なり、と(信の巻)

> 金とか女の方ばかり向いているようなそんなノータリンの余の雑業の行者

雑業は正業に対する言葉で、専修念仏以外の雑多な往生のための行業。
自力の雑行であり、往生を目標としない凡夫は雑業の行者とすらいえない。
「それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。」

それに「もっぱら阿弥陀仏を念じる衆生」というが、専念でも自力の称名ではだめ

化身土文類
「雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。
 まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。
 定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

自力の称名念仏も雑心の混じった往生業である。

421 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:39:44 ID:jo1hnH7H
>>419
>>411のとおり

>ただし「念仏を称えようという思いがおこ」ったわけだから、後続には念仏がでることになる
>それこそ一形(この肉体)が尽きるまで

422 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 13:58:05 ID:W1dfdJ0W
>420
 「徳本」とは如来の徳号なり。この徳号は、一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず、十方
三世の徳号の本なり。しかればすなわち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したま
う。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発して、諸有の群生海を悲引したまえり(化身土)。

すなわちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり(行の巻)。
円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理な
りと(序文)。

 南無阿弥陀仏は如来の徳号なんだ。徳号とは衆禍みな転ずる。悪を転じて徳を成す。だからこそ、
釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまう。阿弥陀如来は、もと果遂の誓いを発
した。継続の力をもって、必ず他力の念仏に転じていく。悪を転じて徳を成す。これが南無阿弥
陀仏なんだよ。

 もう、あんたら意地を張るのをやめたらどうよ?
 称名念仏のない信心があるわけないだろう。称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶ
でも入れていかないと称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる。

 あたりまえの話だろう。親鸞は、別におかしな事を言っているんじゃないんだ。

423 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 13:59:19 ID:jo1hnH7H
訂正>>417の一念多念文意→唯信鈔文意

>>419
唯信鈔文意
「乃至」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。
多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがために、
法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。

一念多念文意
「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、
みなかねをさむることばなり。
「一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。

十念は乃至が付いている
乃至は、行の一念から死ぬまでの間、多少・・・それら称名の数にこだわる必要はないということ

「信心をうるときのきはまり」
つまり
「;往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこる」
この信の一念に往生は決定し、その後の称名の数は上尽一形であれ下至一念・・・いや
たとえ名号を称える前に死んだとしても、喉が潰れ口称念仏できなくても救済から漏れない

424 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:04:42 ID:jo1hnH7H
>>422
自力称名の行者は、教は頓だが、機は雑。


まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。
ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。
つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、
楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、
出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、
大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、
信を生ずることあたはず、仏智を了らず。
かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

425 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:11:21 ID:jo1hnH7H
>>422
    自力称名のひとはみな 如来の本願信ぜねば
    うたがふつみのふかきゆゑ 七宝の獄にぞいましむる

    仏智不思議をうたがひて 善本・徳本たのむひと
    辺地懈慢にうまるれば 大慈大悲はえざりけり

    罪福ふかく信じつつ 善本修習するひとは
    疑心の善人なるゆゑに 方便化土にとまるなり

自力称名の人は方便化土に止まる

    仏智うたがふつみふかし この心おもひしるならば
    くゆるこころをむねとして 仏智の不思議をたのむべし

「仏智の不思議をたのむ」とは仏智の不思議に疑心のないこと。つまり
 「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし

426 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 14:56:55 ID:2HpiVJMW
阿弥陀仏の無条件の救いは難思議。
人間は理解しやすくするために、無条件の救いに条件をつけて狭めてしまう。

だから難思、双樹林下の救いになる。

427 :298:2007/12/02(日) 16:03:10 ID:4MJr4uUy
>410
>阿弥陀さんの方を向いている、んじゃない。
>阿弥陀さんの方に向かせられたんだよ。
>阿弥陀さんの方を向くような立派なもんなど私の中には無い。
>金とか女の方ばかり向いているのが、この私。

ここまでは、私も同じです。わかりにくくなるので、通常の言葉遣いで書きました。
弥陀のながいながいお育てにあずかったが故のことです。


>そんな私が阿弥陀仏の事をふと興味を持つ時には、
>阿弥陀仏の光明に摂取された時なんだよ。

ただ、ここが違います。これだと、光明摂取が複数回あるということでしょう?
光明摂取は生涯に一度であり、それにより極楽往生治定、その後は、
心光常護だと思います。
「ふと興味を持つだけで摂取」であれば、皆様摂取されているということでしょうか。
御文を読みましても、信を取っていない方々がたくさんいらっしゃるのを、
くり返し蓮師は嘆かれていらっしゃいます。

428 :298:2007/12/02(日) 16:18:30 ID:4MJr4uUy
皆様の書き込みを読みまして、いろいろ申し上げたいことはあるのですが、
論点が多過ぎて、書ききれません。
420のお書き込み「称名念仏によって、信心はいただけるのです」に
私は同感です。(その続きの部分に関しましては、意見が違います。)
この「称」とは、

◎「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、
はかりといふはもののほどを定むることなり(一念多念証文)

生涯ただ一度の称名にて信をいただき、一度いただいた信心は、金剛心であるが故に
相続されてゆき、一念はおのずから多念になります。
多念における称名は御恩報謝です。
一念で命終を迎えれば、理論上は一念になりますが、そのような方は
ほとんどいらっしゃらないと思います。


429 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:33:54 ID:2HpiVJMW
それは違う!
称名で信は得られない!
全てを無条件で救うという南無阿弥陀仏
の呼び声を聞く時に信を得る!

430 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:40:22 ID:15h7074L
自力の称名ではそうだろうけど
称名は弥陀がわたしたちに説法されている姿の顕現なので
称名で救われていると言えるんだけどね
この私の称名で救われるわけじゃない
まあ、分かってるだろうけど

431 :298:2007/12/02(日) 16:46:14 ID:4MJr4uUy
>430
他力の中の自力と、他力の中の他力のお話をしているのだと思います。
「称名は弥陀がわたしたちに説法されている姿の顕現」これは、
為物身のことでしょうか。あるいは、方便法身のことでしょうか。
「説法」は、廻向をわかりやすく言い換えたものでしょうか。
素晴らしい書き込みが多いのですが、誰が誰だかわかりません。
何かしらのHNがあると、とてもうれしいです。


432 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:47:45 ID:15h7074L
>>428
念から声へ、声から称へが法然上人からの流れですからね
でももともと念は観察の意味だったと言われてもいますが…

433 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 16:57:36 ID:15h7074L
>>431
為物身、方便法身、区別があまりつきませんが
回向というものだと思います。
還相回向の菩薩が自在に説法してくださるのも
弥陀の回向のひとつだと思いますし
知恵の光の徳とも思います。
HNをつけると肩肘はりますのでかえってコメントもしづらくなります。
レス番つけて批判してくださればそれなりの
返事は返すつもりですのでどうぞよしなに

434 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:17:55 ID:jo1hnH7H
>>428
レスアンカー間違ってない?
>>420には「称名念仏によって、信心はいただけるのです」こんなこと書いていないし、
それ以前にもその内容は書いていない

>◎「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、
>はかりといふはもののほどを定むることなり(一念多念証文)

秤は物の重さをそのまま、ありのままに示す。
他力の信心も他力のまま、自力を一切交えない

>一念で命終を迎えれば、理論上は一念になりますが、そのような方は
>ほとんどいらっしゃらないと思います。

で、「念仏もうさんと思い立つこころの起こった」その時死んだ人は往生できるできない?
また、発声能力を失い、口称念仏できないひとは?

435 :298:2007/12/02(日) 17:26:52 ID:4MJr4uUy
>434
ご指摘の通りです。428の私の書き込みは、(420に対してではなく)422の書き込みの

>称名念仏のない信心があるわけないだろう。称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶ
でも入れていかないと称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる。

に関してのものです。この書き込みの先頭に420があったので、間違えたのだと思います。

そして、私は「称名念仏のない信心があるわけないだろう」に同意したのですが、
表現に問題があると思い、言い換えました。

「称名念仏は、誰だって最初は肩に力が入り、力こぶでも入れていかないと
称えられやしないんだ。それでも、称え続けていく内に自然体になる」につきましては、
私は別の意見を持っています。

434の書き込みを見ますと、番号には>>、引用には>となっていますが、
2chでは、そのように書くのが本来なのでしょうか。もしそうであれば、
私もそのようにしたいと思います。



436 :298:2007/12/02(日) 17:34:30 ID:4MJr4uUy
>>432
法然上人によれば、「念声是一」(選択集)です。念については、
論註の上巻の最後のところにも書いてあります。

>>433
HNについてですが、わかりました。私も気楽に書くようにしますね。



437 :298:2007/12/02(日) 17:39:44 ID:4MJr4uUy
>>434
>秤は物の重さをそのまま、ありのままに示す。

なるほど、そのように解するのですね。
私は、ちょっと違うのです。弥陀の救いと行者を合わせ、本願相応のすがたにしなければ
ならないのです。
「ありのまま」では、「もののほどを定む」が、うまく解せないのではないのですか。

>他力の信心も他力のまま、自力を一切交えない
につきましては、文字上は私も全く同感でありますが、434様とは解釈が異なる
かもしれないと思います。

>で、「念仏もうさんと思い立つこころの起こった」その時死んだ人は往生できるできない?
この人は往生できます。

>また、発声能力を失い、口称念仏できないひとは?
弥陀の本願に相応した念仏を行うことはできます。


438 :298:2007/12/02(日) 17:52:34 ID:4MJr4uUy
>>411
これは私も「意志」で解しています。
顕義には、口称の御恩報謝の南無阿弥陀仏を唱えようという心が起こるとき、
隠義には、一念が多念に相続することを示します。
このようなことが将来に予定される予定が発生したとき、
すなわち、信心をいただいた時を指します。
信心自体が相続してゆくために、無間なる相続が起こるのであり、
「寝ても覚めても」となるのだと思います。
もちろん、私も口称念仏は、ふつうの方よりはたくさん唱えています。
ですけれど、不断に口称はできません。それでは凡夫が救われません。
信心の相続を指して、「念仏が念仏する」のようにも言えるのですが、
かえってわかりにくくなるかもしれません。



439 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:58:37 ID:2HpiVJMW
称名は往生の条件でも無いし、信心を得るための手段でもない。
法然聖人は「不回向の行」だと言っている。

440 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 17:58:41 ID:jo1hnH7H
>>435
>434の書き込みを見ますと、番号には>>、引用には>となっていますが、
>2chでは、そのように書くのが本来なのでしょうか。もしそうであれば、
>私もそのようにしたいと思います。

そうルール
2ちゃんねるブラウザを入れれば、>>を入れれば、そのレスがポップアップする
私はこれを使っています
ttp://janestyle.s11.xrea.com/

もう一つ、個人判別については
>435 名前:298[] 投稿日:2007/12/02(日) 17:26:52 ID:4MJr4uUy

この「ID:4MJr4uUy」はしばらく共通するので、誰かを特定できます

441 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:05:48 ID:2HpiVJMW
憶念彌陀仏本願
自然即時入必定

彌陀の本願を憶念すれば
自然に即時に(往生)必定(の位に)に入る

442 :298:2007/12/02(日) 18:11:02 ID:4MJr4uUy
>>440
ご教授ありがとうございます。場違いなくらい2chのことがわかりませんが、
このスレはご紹介いただきまして、見ることができました。

>>439
「不回向の行」という場合は、凡夫の側の善行を、往生のために廻向するのでは無い、
という意味ではありませんか?(選択集の回向不回向対を指しているのですよね?)
不回向すなわち発願回向です。
自分で善行積んで、その功徳を廻向して往生しようとするのでは無いと説明するための、
「不廻向」という表現であると思います。

御文:かるがゆゑに、凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。

「他力」という言い方も、同じ意図であると思います。
五念門に廻向門があるのですから、廻向無くしては往生できないと思います。
ただし、この廻向は、弥陀からの廻向であるのだと思います。

教行信証:つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、
二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

443 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:22:39 ID:jo1hnH7H
>>437
>私は、ちょっと違うのです。弥陀の救いと行者を合わせ、本願相応のすがたにしなければ
>ならないのです。
>「ありのまま」では、「もののほどを定む」が、うまく解せないのではないのですか。

その辺は取捨任情で
教行信証では称について細注では
 称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)

知軽重也 軽は軽の如く、重は重の如く称える 人間の讃嘆は主観が入っている
    (重くも軽くもなく如実そのままに讃える。法に入って法のまま讃嘆する)
銓也  =秤 物の物量を計り判定する。そのものの重量のままを計る 私計をまじえない
是也  正の意 名号の真如(真教?)の如く
等也  等しい 機と教が相応する 善くできた箱が蓋とぴったり合うように相応する
秤云正斤両也 天秤が釣り合うように 機教の分限を明らかに識知する

444 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 18:44:30 ID:15h7074L
>>436
なるほど。勉強になります。
思うのですが、善導大師から連なる日本の浄土教の流れは観経の下品下生を
中心にすえて大経を展開されているために大経の十念を称名念仏と捉えている
のだと思います。当然、親鸞聖人もその流れを継承されているので、
十念を称名ととるのに異存はないのですが…。

445 :参考に 梯実円和上の「一念多念文意講讃」:2007/12/02(日) 19:06:54 ID:jo1hnH7H
 「称は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり」
とは、称の釈であるが、ここには「となふる」と「はかり」という二義が挙げられている。
まず称とは名号を称えることであるというのは普通の釈であるが、
「称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり」というのは、
称名の称の釈としては異例である。
確かに称には「秤」の意味があって、「はかり」とも読むが、称名の称の意味とする例は聖人だけではなかろうか。
「行文類」 (『同』一五六頁)に『論証』下の讃嘆門の釈を引用されたなかに、
 かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、
斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに。
といい、称を秤の意味とされていた。そして称には、物の軽重を知るという意味があるといわれている。
また秤とは「斤量を正す」といわれるように正しい目方を量ることであるともいわれている。
ここに「はかりといふはもののほどを定むることなり」といわれたのがそれで、秤とは物の重さを正確にはかり
定めるものという意味であろう。しかしそれは称名のどのような事柄を顕しているのであろうか。
まず「行文類」では、秤は、そこへ加えられた物の重さを正確に表していくように、如実の称名は、
与えられた無碍光如来の名号の名義のとおりに衆生の無明を破り(破闇)、衆生の往生成仏の志願を満足(満願)
していく徳があるということを顕そうとされていたのではなかろうか
。いまもまた本願の称名は、「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生る」
という本願のいわれの通りに往生を遂げしめる働きをもっているが、それはまるで秤が顕すような正確さで
成就するといわれるのであろう。

446 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 19:36:42 ID:2HpiVJMW
憶念彌陀佛本願
自然即時入必定
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩

彌陀の本願を憶念すれば
自然に即時に必定に入る
ただよく常に如来号を称え
大悲弘誓の恩に応え報ずべし

其佛本願力
聞名欲往生
皆悉到彼国
自致不退転

その仏の本願力は
名を聞かせ、往生を欲わせ
皆悉く彼の国に到らせ
自ずと不退転に致らしむ

447 :298:2007/12/02(日) 19:36:46 ID:4MJr4uUy
>>443, 445
ご引用のように、「称名」とは、讃嘆門であるわけです。
ここでは、如実修行が説かれております。
「はかる」に相当するのは、「相応せん」の部分です。
細注のお話が出て参りましたので、この直前に「帰命」の注もございます。
ここでは、「命、使、教」と、他力であることを明かしておられ、また、
他にも明かしておられます。聖人のはかりしれぬ書であり、私も
生涯読み込もうとするであろうと思います。
なぜ讃嘆なのかと言えば、凡夫の側から、如来に合わせてゆくからです。
軽いは軽いと知り、重いは重いと知り、そこから名義のごとく実のごとく相応するように
合わせてゆき、ピッタリと定まったときを「是也等也」と。
自分ではどうにもならぬので、如来にすべてをお任せして、
如来と一緒になり、光明をいただきたいと讃嘆するのですが、
ここに自力の心が入ると、それが蓋となって、摂取の光明が入らないのです。


448 :298:2007/12/02(日) 19:43:44 ID:4MJr4uUy
「はかる」についてです。
軽いを軽いと知れば、重りを足して、合わせます。
重いと重いと知れば、重りを減らして、合わせます。
そして、ピッタリ合わさって「等」となったとき、摂取の光明をいただき、
往生が治定致します。
これで、「正斤両」も、わかっていただけるのではないでしょうか。


449 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 20:51:11 ID:15h7074L
結局、問題は口称が救いの条件に入るかということではないでしょうか?
念仏申さんという心がおこるときというのはかならずしも声に出そうとする心
つまり口業を起こす意業なのか
それとも、阿弥陀仏に救われた感謝の心がおきようとする瞬間の意業なのか?
信じた瞬間に信心は頂いていると思いますので、これが信の一念です。
信の一念に感謝を含めるのか?含めないのか?
こういうことだと思います。整理のため。

450 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 20:58:22 ID:jo1hnH7H
>>447-448
>>445
梯和上の解釈だと、行文類では、
まず「行文類」では、秤は、そこへ加えられた物の重さを正確に表していくように、如実の称名は、
与えられた無碍光如来の名号の名義のとおりに衆生の無明を破り(破闇)、衆生の往生成仏の志願を満足(満願)
していく徳があるということを顕そうとされていたのではなかろうか。

如実の称名は、その名義と等しく破闇満願の徳があることを顕そうとした
一多文類では
いまもまた本願の称名は、「名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生る」
という本願のいわれの通りに往生を遂げしめる働きをもっているが、それはまるで秤が顕すような正確さで
成就するといわれるのであろう。

如実の行者の往生が正確に成就することを示す事を示すために秤をもちいた、というもの

この辺、詳しく調べていないのだけど、解釈は色々あるように思う。

451 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:04:00 ID:jo1hnH7H
>>449
>信の一念に感謝を含めるのか?含めないのか?

歓喜初後の論題でありますね
この安心論題では、義としては歓喜はあるが、
信の一念は非常に短い瞬間のことなので人間の識でとらえられず、
したがって意業としては覚知できないという結論でした。

452 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:12:38 ID:15h7074L
なんだか汚くなってしまったのでもう一度

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて
念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり

念仏申さんと思い立つ心は、これから念仏をとなえようという口業をおこそうとする意業なのか
それとも、不思議に助けられたことを信じ、そのことへの感謝の心がおこる意業なのか

ということが問題の論点だと思います。

往生をばとぐるなりと信じた一念は信の一念、念仏申さんと思い立った一念は行の一念とよばれますが
往生よろこぶ心は信心に当然含まれていますし、よろこぶ心は感謝の心だと思います。
親鸞聖人はこうも諭されています。

そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、
もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、
信と行とふたつときけども、行をひとこゑするときき て疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。
また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。  これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。
(親鸞聖人御消息)

453 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:26:28 ID:15h7074L
>>451
なるほど。たしかにそうです。
人間に喜びの心をいただくからといってそれを人間側が認知できるとはかぎりません。
しかし、それでは、自分が信じたという自覚、認知も信の一念と同時であるとはかぎらないかも
しれません。行の一念は、自覚ということになるのでしょうか?

454 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 21:50:45 ID:jo1hnH7H
>>453
>行の一念は、自覚ということになるのでしょうか?

たしか行一念義は、後続の称名を規定する論題だっと思う
行の一念は「初一声の念仏」という説と、どの一声でもよい「称名の一声」という
いみであるとする二説があるようだ。

前説は上尽一形につながる念仏の初めの一声と解釈し
後説は初一声から上尽一形につながる念仏のどの一声に無上大利が有ると解釈する

だから、これは口業として顕れる称名だから自覚がある

455 :神も仏も名無しさん:2007/12/02(日) 22:03:49 ID:jo1hnH7H
いや、称名の数を沙汰するのが十念誓意で、行一念義は

桐谷和上の 真宗の安心論題
この論題は、一声の称名に無上大利の利益(浄土往生の大利益)があり、
諸行には有上の小利益しかないのに対して、第十八願の称名は、易行・易修の至極であり、
大利のあることをあらわし、称名正因の邪義を訂すものであります。

456 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 22:53:10 ID:W1dfdJ0W
> 428
 きちんと引用しよう。
「称」は、御なをとなうるとなり。また、称は、はかりというこころなり。はかりと
いうは、もののほどをさだむることなり。名号を称すること、とこえ、ひとこえ、
きくひと、うたがうこころ、一念もなければ、実報土へうまるともうすこころなり。
また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなうべし」となり。これは多念
の証文なり。おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあ
らそい、あるまじきことは、おしはからせたまうべし。 (一念多念文意)

 称はとなえるという意味である。ここにははかるという意味もある。称えたの
は、十声なのか、一声なのかということも問題となる。つまり、声なき念仏な
どはありえないということだ。これは称名念仏は口業である。
 念仏を聞いた人は、一念程のわずかばかりの疑念がない無いときに実報
土へ生まれる。ここで数量が問題で、一念程のわずかばかりの疑念でもあ
れば、実報土に生まれない。
 阿弥陀経は、七日もしは一日、名号をとなうべしという。ここでも数字が問
題になっている。多念を示す証文も多い。一回でいいのか、何回も称えるの
かという議論は生産性がない。
 しかし、声なき称名念仏、数の概念が生じない念仏などはナンセンスであ
る。これが称の意味である。

457 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 22:56:49 ID:W1dfdJ0W
> 429
> それは違う! 称名で信は得られない!全てを無条件で救うという南無
阿弥陀仏の呼び声を聞く時に信を得る!


 選択本願念仏集というは、聖人の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之
業 念仏為本」というは、安養浄土の往生の正因は、念仏を本とす、ともう
す御ことなりとしるべし。(尊号真像銘文)
 速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心をもって能入とす、とい
えり(行の巻)。

安養浄土の往生の正因は、念仏を本とし、必ず信心をもって能入とす。称
名念仏のない信があるのか?   

 南無阿弥陀仏の呼び声を聞く時
 本人が称えなくても、声が聞こえてくるのか?。どこの宇宙人だ?

 また言わく、信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生
ず。この人の信心、聞より生じて思より生ぜざる、このゆえに名づけて「信
不具足」
 貴方には、「信不具足の聞」という概念ないようだ。それこそ「思」がない
ということだろう。聞は思を伴って始めて信となる。疑いなき聞が信となる。

確信は体験から生じる。念仏の体験が無くてどうして疑いが晴れるんだい?

458 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/02(日) 23:02:27 ID:W1dfdJ0W
 称名念仏が無くて信心を得たという人がいれば、誰か紹介してくれや。

 定散自力の念仏(真門)を経由しないで、いきなり十八願の念仏を称え、一念で
信心を得たという人がいれば、拝んでみたいものだ。

459 :298:2007/12/03(月) 01:05:08 ID:UkjWl96M
>>456
>名号を称すること、「十声」「一声」「きくひと」「疑ふこころ一念もなけれ」ば、実報土へ生ると申すこころなり。(一念多念証文)

渡海様の引用は適切であり、今私が上に「」で書いたところは、はかっている様を、
「はかる」一語より、丁寧にお書き下さったものです。
実報土に生まれるのは、誰でしょうか。信心正因です。
「疑ふこころ一念もなし」の方です。

>>458
>定散自力の念仏(真門)を経由しないで、いきなり十八願の念仏を称え、一念で
> 信心を得たという人がいれば、拝んでみたいものだ。

少なくとも、私は知りません。私も経由しています。
理論的には可能ですので、真宗が繁昌している地域には、いらっしゃるだろうと
思います。

>>456
念の数を数えることは、凡夫にはできません。
ではどのようにして「はかる」のかと言えば、口伝があると、論註上巻の最後に
書いてあります。文字に書いてはいけないことになっているので、
ご開山も『一念多念証文』にて、

>おもふやうには申しあらはさねども

とおっしゃっています。

460 :7:2007/12/03(月) 01:33:27 ID:j3ehEZMj
渡海さん、自分が行きたいのは山の頂上です。当然登山口を知る必要があるという訳です。

ただ、称名念仏を繰り返していけば自然に十八願の世界に転入する、という言葉の響きに疑問を感じたのです。
自然に・・・それは、「いつとはなしに」その世界に行くのでしょうか?ある時点をもって、ガラリと世界が変わるのでしょうか。

298さん、口伝とは、これまた疑問を感じます。すると、親鸞聖人の師、法然上人は、誰から口伝されたというのでしょうか。
法然上人は、お経を繰り返し読まれて、遂に信心決定に至ったと聞いております。
法然上人は文字が全てではありませんでしたか?その師を否定するような親鸞聖人ではないと思うのです。

最近は混乱が増してきました。

461 :298:2007/12/03(月) 02:08:18 ID:UkjWl96M
>>460
親鸞聖人が、法然上人を否定されるはずがありません。
ただただ、法然上人の正意を明らかにしようとされたはずです。
選択集を読んでみて下さい。「お経を繰り返し読む」行が選び取られているかどうか、
ぜひご自身の目でお確かめください。
現代語訳ではなく、原典にお当たりください。

◎そのとき聖光房、改悔の色をあらはして、負の底よりをさむるところの抄物
どもをとり出でて、みなやきすてて、またいとまを申して出でぬ。しかれども
その余残ありけるにや、つひに仰せをさしおきて、口伝をそむきたる諸行往
生の自義を骨張して自障障他すること、祖師(源空)の遺訓をわすれ、諸天の
冥慮をはばからざるにやとおぼゆ。(口伝抄)

462 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 12:16:40 ID:Gav5Ykib
全て救うという阿弥陀仏の南無阿弥陀仏の呼び声以外に真実は無いというのに…

463 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 15:14:28 ID:Gav5Ykib
一切衆生を救う阿弥陀仏のご本願は、南無阿弥陀仏
の本願成就の名号として既に成就している。
それを聞信し憶念するものは正定の位に入り不退転となる。
よってその者にとっての称名は、全て報恩に他ならない。
信心を得るため、往生するために、念仏する者は、
既に名号に信心も往生も決定している事を知り、報恩として
念仏を称えるべきである。

464 :298:2007/12/03(月) 15:55:07 ID:9DGr86dK
>>462, 463
「聞信」とは何か、「憶念」とは何か、が大切であるわけです。
463における「報恩として」は、凡夫の意行として、書いていらっしゃるのでしょう?
その心をどうやって作るのですか?
信心も弥陀にいただき、報恩も現世の益としていただくからできるのです。
このように私は考えますけれども、信念を持って称名されているわけですから、
素晴らしいことであると思います。
私は、凡夫ですので、463さんのように、そのままで安心することができなかったので、
弥陀をたのむ必要があったのです。

465 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 17:48:26 ID:Gav5Ykib
報恩の思いでとなえてもとなえなくても構わないんですよ。
ただ、彌陀の呼び声を聞いた後の念仏は
みな報恩の意義なんだと心得て、称名すべきという事です。

念仏するたびにありがたく思わなきゃいけないと言う意味じゃない!
ありがたく思ってとなえる念仏も、ありがたくなくとなえる念仏も、
全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を
聞いた者にとっては、
となえる念仏全て、彌陀に救われた後の仏恩報謝の念仏と心得なさい、と言う事です。

466 :298:2007/12/03(月) 18:03:55 ID:9DGr86dK
>>465
なるほど、確かにその通りですね。
一度信をいただけば、その後は、どのような気持ちで唱えても、
御恩報謝になるからです。
すると、やはり、「全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を聞いた」とは
どういうことなのか、ということに集約されるのでしょうね。

467 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:16:50 ID:Gav5Ykib
南無阿弥陀仏とは、どんな愚かな者も優れた者も平等に、
みな全て、限りなき光と命を持ち、他の衆生を仏になさしめる働きを持つ仏にする!
という阿弥陀仏の本願成就の呼び声なんだという事。
簡単に言えば、どんな罪もさわりにならず善も助けにならず、
必ず仏にする!全て救う!という阿弥陀仏の呼び声なんだという事です。

468 :7:2007/12/03(月) 18:25:16 ID:WDfjos6P
>>466 すると、やはり、「全てを救うと言う阿弥陀仏の南無阿弥陀仏のご本願を聞いた」とは
どういうことなのか、ということに集約されるのでしょうね。

そこです、そこがもうどうにも・・・

469 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:47:37 ID:Gav5Ykib
全てを救うと言う阿弥陀仏のご本願は、
南無阿弥陀仏の六字の姿に成就している
と聞かせて頂くのです。

470 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 18:50:25 ID:Gav5Ykib
南無阿弥陀仏と本願成就し、私達に現に今、
呼び続け働きかけていると言う事です。

471 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 19:25:46 ID:Gav5Ykib
その事を聞信し、その後にとなえる念仏は、
仏恩報謝と仏徳讃嘆の念仏に他ならないという事です。

472 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 20:12:38 ID:0Zt4g5ni
>>464
ここあたりが出拠、かな?

蓮如聞書
一、蓮如上人仰せられ候ふ。信のうへは、たふとく思ひて申す念仏も、
またふと申す念仏も仏恩にそなはるなり。
他宗には親のため、またなにのためなんどとて念仏をつかふなり。
聖人(親鸞)の御一流には弥陀をたのむが念仏なり。
そのうへの称名は、なにともあれ仏恩になるものなりと仰せられ候ふ云云。

473 :神も仏も名無しさん:2007/12/03(月) 20:45:54 ID:ZI20FNAG
>>455
すみません。流れきるかもしれませんが。
往生の因と往生の益とは何がちがうのでしょうか?
因とは信をえた本人の因だと分かりますが、益とは誰の益ですか?
これまた称えた本人が益する、益しているという自覚をもつということでしょうか?
それとも一声の念仏そのものに大利の益が備わって広まるということでしょうか?
つまり、その念仏が自力の念仏とはちがうものになるということでしょうか?
またそのどちらでもないのでしょうか?
なんだか質問ばかりですみません。

でもやはり、念仏申さんと思い立つ心が、これから念仏をとなえようという口業をおこそうとする意業なのか
それとも、不思議に助けられたことを信じ、そのことへの感謝の心がおこる意業なのか
問題になるところだと思いますので。


474 :298:2007/12/04(火) 00:03:25 ID:F9YgAr3g
>>469, 471
ここに書いてあることには、ほぼ同感です。
ただ、この文を書いている方には、その内容はなく、ただ「信じる」ということでしょう。
私は、「真実行」という中身があると考えています。

>>468
真実行について知っている方に会って、尋ねるしかないと思います。
いくら考えても、わかるはずがありません。
教われば、すぐにわかるのです。

475 :298:2007/12/04(火) 00:09:27 ID:F9YgAr3g
>>472
ご引用の箇所には、まったくもって同感です。
「信」「弥陀をたのむ」念仏と、「そのうへの」念仏とは、異なるということです。
つまり、称名は信を伴うとは限りませんが、信は必ず称名を伴うので、
信心正因とするのです。

476 :298:2007/12/04(火) 00:13:29 ID:F9YgAr3g
>>455
まず大切なのは、学問して、念仏とはどのようなものか、わかって念仏することが、
信をいただくための念仏ではないということです。
信心為先という考え方は、とにかくまずは信をとり、その上で、
学問したいなら、我が身に信心を得た上で、それについて学ぶということです。
ですから、実際に信を取る上では、その種のことは、全く問題にはなりません。
一文不知の方でも、念仏することはできるからです。
しかし、信前の方が、弥陀をたのむ気持ちになるように、
疑問を解いてゆくことも大切だとされています。
広大な益は、名号を称えた方、如実に修行された方が、いただきます。
自覚を得るかどうかは、後念相続にかかっています。

477 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:10:46 ID:rKU535ig
>>459
>理論的には可能ですので、真宗が繁昌している地域には、いらっしゃるだろうと思います。

 また云わく、極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、恐らくは生まれがたし。かるがゆえに如来、
要法を選びて、教えて弥陀を念ぜしめて、専らにしてまた専らならしめたまえり(化身土)。

 極楽は悟りの世界である。縁に従って様々な行を次々と移っていくような雑善では、普通の人は
なかなか極楽に至ることができない。だからこそ、阿弥陀仏は念仏という重要な法を選択し、これ
を称えさせ、ひたすらひたすらこれを称えるように教えている。

 いきなり十八願の念仏を称え、一念で信心を得られるそんなスーパーマンには、もともと浄土真
宗など必要がない。

>どのようにして「はかる」のかと言えば、口伝があると、論註上巻の最後に書いてあります。

 多くの人が読んでない本を引用するなら、誤解の無いように責任を持って正確に引用したらどうですか。

 『経』(観経)に「十念」とのたまへるは、業事成弁を明かすのみ。かならずしも頭数を知るこ
とを須ゐず。「@蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るもの
これをいふのみ。十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふのみ。ただ念を積み相続して
他事を縁ぜざればすなはち罷みぬ。またなんぞ仮に念の頭数を知ることを須んや。もしかならずす
べからく知るべくはまた方便あり。かならず口授すべし。これを筆点に題することを得ざれ。

 @は「虫」偏に旁が「恵」、オンは「ケイ」。

478 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:11:53 ID:rKU535ig
 観無量寿経は下品下生で言う。極悪人でも十念の念仏を称えれば、往生すると。これは、念仏す
れば、それだけで往生に必要な業が整うということであって、必ずしも十という数を数えなければ
ならないということを言っているのではない。
 つくつくほうしというセミは、夏だけ鳴いている。春と秋を知らない。夏だけ鳴いているからと
言って、自分が鳴いている時期は夏であることを知っているだろうか。そんなことはない。夏であ
ることも知らないで鳴いているだろう。夏を知っている者だけが夏を知っており、夏にだけ鳴く蝉
は夏を知らない。
 念仏もそれと同じである。十念で往生するということは、神のような超人的な者が言うことであ
る。普通の人は、ただひたすら思いを重ね、継続的に念仏して余計なことに気を取られなければそ
れで十分である。どうして仮にも念仏の回数などを知る必要があるだろうか。そんな必要はないの
だ。
 もしどうしても知りたいというならば、他に方法がある。知りたいという人には口伝えで教えよ
う。浄土論註などのような本でわざわざ文字を介して教えるような内容のものではない。

 回数を問題にすることに意味があるか無いかということと、回数という概念が生じるものか生じ
ないものかという議論は別です。
 十回という回数を数える必要は全くない。しかし、回数という概念が生じないような念仏は念仏では
ない。

479 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 01:13:43 ID:rKU535ig
>ご開山も『一念多念証文』にて、おもふやうには申しあらはさねどもとおっしゃっています。

 ご開山という程に、親鸞には尊敬の念をもっているなら、正確に読んで欲しい。

 おもうようにはもうしあらわさねども、これにて、一念・多念のあらそい、あるまじきことは、
おしはからせたまうべし。浄土真宗のならいには、念仏往生ともうすなり。まったく、一念往生・
多念往生ともうすことなし。

 明確な回答には成らないけど、結論として一念でいいのか、多念がいいのかというような争いは
全く意味がないと言うことを推察して下さい。浄土真宗では、念仏往生という言い方はあるが、一
念往生とか、多念往生という言い方は存在しないのです。

 おもうようにはもうしあらわさねどもとは、一念・多念のあらそいは意味がないということのそ
の理由付けをうまく説明できないということを言っている。
 回数という概念が生じないような念仏があるかないかということを言っているのではない。
 称とは、数量の概念の生じる念仏を称えると言うことです。


>>460は後日コメント


480 :298:2007/12/04(火) 01:38:46 ID:F9YgAr3g
>>477
>いきなり十八願の念仏を称え、一念で信心を得られるそんなスーパーマンには、もともと浄土真
宗など必要がない。

十八願こそが易行なのです。ですから、十八願が一番簡単です。
易行であるから、難信であるのでしょう?
「そんなカンタンなはずがない」と。

>>478
>観無量寿経は下品下生で言う。極悪人でも十念の念仏を称えれば、往生すると。これは、念仏す
れば、それだけで往生に必要な業が整うということであって、必ずしも十という数を数えなければ
ならないということを言っているのではない。

観経における十念の念仏は、顕義であって、隠義ではないでしょう?
韋提希夫人は、十念の念仏にて救われていますか?
論註に書いてあるのは、十念を数えるには、神通が必要だと言うことです。
凡夫にはそれはできないので、「では、どうするか?」と言えば口伝があり、
それを紙に記してはいけない、とあるのです。
十念を数えることが異安心であるのと同じ様に、
一念覚知も異安心なのは、凡夫には神通がないので、認識できないからです。

>>479
一念多念を争っても意味がないのは、一念は自然と多念に相続されるからです。
ですから、一念と多念を争う時点で、邪義になっているとおっしゃっているのです。

481 :298:2007/12/04(火) 04:51:59 ID:F9YgAr3g
>>479
>おもうようにはもうしあらわさねどもとは、一念・多念のあらそいは意味がないということのそ
の理由付けをうまく説明できないということを言っている。

もしこの意味であれば、「もうしあらはしえねども」「もうしあらはすことあたはざれども」など、
可能を表す語が入るのではないでしょうか?
あるいは、「おもふやうにもうしあらはすこと、かたけれども」のような表現になると思います。
この場合は、意識的に「あらわさなかった」ことを言っていると思います。

つまり、文書にて、きちんと説明するわけにはいかないけれども、一念・多念で争うのが
おかしいということくらいは、わかる程度には説明しました、ということだと思います。

報土往生、化土往生を考え、そして、「実報土へ生まる」ということを考え合わせると、
「はかる」ということを説明している部分も、見えてくると思います。

◎名号を称すること、十声・一声・きくひと・疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。

これは、「はかりといふこころ」を説明している部分だと思います。


482 :神も仏も名無しさん:2007/12/04(火) 14:37:00 ID:nEv/dkIP
十八願は、無行無戒で救うという阿弥陀如来の本願なんだよな。
それが南無阿弥陀仏の名号と立身即行に成就してるわけだ。

483 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 20:19:21 ID:rKU535ig
>>480
>易行であるから、難信であるのでしょう?

 なぜ難信なのか。
 信心淳からざるをもってのゆえに決定なし、決定なきがゆえに念相続せず、また念相続せざる
がゆえに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆえ心淳からざるべし(信の巻)。

 信心が薄い(深く考えられない。深く話が聞けない。疑念が消えない(信不具足))。だから
腹が据わらない。腹が据わらないから一つの思いが連続しない。動揺して散漫になる。心は動揺
して散漫になるから腹が据わらない。腹が据わらないから深く考えられない。深く話が聞けない。
疑念が消えない。深く考えられない。深く話が聞けない。だから信心が厚くならない。
 十八願はどうして難信なのか、親鸞の言葉でおおむね説明は十分な感じがする。要するに悪循
環の中にある。難信ならば、十八願の念仏は、普通にはなかなか称えられない。

 厚い信心があれば腹が据わる。腹が据われば一貫した一つの思いが連続する。一貫した一つの
思いが連続すれば、深く考えられ、深く話が聞ける。深く考えられ、深く話が聞けるようになれ
ば心が厚くなる。心が厚くなれば信心ができる。一度でも南無阿弥陀仏を称えるものは実報土に
往生する。
 
 定散自力の念仏(真門)を経由しないで、ただ話を聞いただけで深い考えに裏打ちされた疑念
無き深い心ができ、生まれて初めて念仏を一回だけ称えたら、意外や意外、まさに驚異的な満塁
ホームラン、十八願の念仏だった。たった一念で信心を得た。まあ、そんな絵に描いたようなお
目出度い人がいれば、そんな人には最初から浄土真宗などは必要がない。

 まして、その一回の念仏さえなくても、深い考えをもった疑念無き心ができ、腹が据わった一
貫した一つの思いが連続するようになり、一貫した一つの思いがずっと連続していくから心も厚
いという人がいれば、僕は最初にその人を、嘘つき宗教詐欺師だろうと、最初にそういう目鼻を
つけて相手を観察するだろう。世の中に悪い奴はいくらでもいる。口程便利な道具はない。最大
の邪悪は、信心偽証の宗教詐欺師だ。どうせ金目当にいくらでも千三つの駄法螺を吐く。これで
金が取れると思えば、何でも言うだろう。

484 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 20:21:48 ID:rKU535ig
 世の中にはすごい人もいるなどと、金目当の千三つを子供のように無邪気に真に受ける人がい
れば、それだけで僕はそいつを馬鹿だと思う。嘘つき宗教詐欺師の餌食となるだろう。

>顕義であって、隠義ではないでしょう?

 隠顕は、親鸞の独創だ。法然にもない。まして、親鸞より数百年も前の曇鸞の解釈でそんなも
のを持ち出すことは見当違い。

>論註に書いてあるのは、十念を数えるには、神通が必要だと言うことです。

 神通が必要?。何を馬鹿なことを言っているのか(苦笑)。そんなものに神通などは必要はな
い。十念を数えるには神通が必要?。貴方は、日頃ほとんど念仏を称えてないようだ。貴方の言
葉には念仏の実感がない。まあ、念仏を称える称えないというのは本人の好き好き、自由だ。こ
れをどうこういうつもりはない。ただ、念仏を称えない人に信心がないというのは、宗祖の確信
だ。僕もそう確信している。親鸞の法を知ろうと思えば、継続的に念仏を称えている人の生の体
験を聞くことも必要だ。念仏は人に様々な体験をもたらしてくるものだ。

 十念を数えるのに神通が必要と言われれば、僕らは開いた口がふさがらない。僕は神ではない
けど回数を数えながら毎日念仏を称えている。回数を数えるなどということは実に簡単なことだ。
僕は、通常は念仏の後の一日のスケジュールが詰まっているから、時間を区切る必要で回数を数
えている。
 僕は市販の数珠を使っている。計数に神通などは必要がない。市販の数珠は珠の数が20個。
五会念仏(信の巻)を一サイクル称えると、僕は珠を一個進める。一巡すると100回称えたこ
とになる。これで約10分。二周すると約20分となる。これが在家の僕の最近の一日の称名念
仏、念仏三昧だ。最近は半跏趺坐で行っている。

 不断念仏(恵信尼消息)、つまり歩きながらとなえる念仏の場合には、一回称えたら珠を一個
進める。六畳の狭い部屋を僕は称えながらゆっくり歩いて二周する。念仏の数を数えるなど、子
供でもできることなのだ。


485 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/04(火) 20:24:00 ID:rKU535ig
>「では、どうするか?」と言えば口伝

 馬鹿馬鹿しい。数え方に口伝などはない。隠し事もない。こんな方法などは、念仏を称えてい
けば自然に分かる。ことさらどうのこうのという様な問題ではない。
 鎌倉の大仏の手の形、あれは数珠で念仏の回数を数えているときの形だ。鎌倉の大仏を建てた
人も、数珠で数えながら称えていたようだ。まあ、彼らも念仏の数を数えていたようだけど、お
そらく神ではなかったろう。

>十念を数えることが異安心であるのと同じ様

 数えることが異安心?。馬鹿馬鹿しい(苦笑)。馬鹿も休み休み言うものだ。
 もし始行の人の念は、数を記する、また好し。これまた聖教に依るなり(行の巻)


>>481
>可能を表す語が入るのではないでしょうか?

 最低一念でもいいと書いてある先人の証文がある。だから、一念でいいという主張には理があ
る。十念、あるいは一日、七日と、繰り返し、沢山称えよと書いてある先人の証文もある。だか
ら、たくさん称えよという主張にも理がある。
 一念でいいいえば、沢山称えよと書いてある先人の証文と矛盾する。沢山称えよと言えば、一
念でもいいと書いてある先人の証文と矛盾する。
 いまここで親鸞は、一念でも多念でもないという主張を出した。これは、一念説、多念説のい
ずれとも衝突矛盾する第三の説だ。これには先人の証文がない。正当づける根拠がない。だから
思うように言い表すことができないと言っている。
 こういうことはよくある。ある一つの確信を伝えたいんだが、聖教上の根拠が見つからず発言
を断念するということは、僕でもこの2ちゃんねるでさえよくあることだ。

486 :神も仏も名無しさん:2007/12/05(水) 02:34:07 ID:rwzjuHJK
263です。OCN規制で書き込みできない。反論もできない、ただ298さんだけが唯一真門を理解しています。渡海さんは熱心な方なのは認めます、ただ人の話しを受け入れる努力をしましょうね、余計なお世話ですが

487 :神も仏も名無しさん:2007/12/05(水) 02:53:06 ID:rwzjuHJK
続きに、渡海さんのように間違った解釈をし念仏申す方は三悪道に落ちいじめられるでしょう、理由は心の外に仏法をもとめるもの、法をそしる人なれば経の文字を悟らずして仏のたまわり、文のごとく義をとるものは三世諸佛の仇敵なり

488 :263:2007/12/05(水) 04:35:22 ID:rwzjuHJK
またまた渡海さん、須賀慈善薯の迷子の導っていう書物見てみ、面白いぞ。とりあえず気にいらんやろうけどたまには人の話し聞けや

489 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/06(木) 10:28:26 ID:pi6DDKIr
>460
>自然に十八願の世界に転入する、という言葉の響きに疑問を感じたのです。

 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する

 定器の者つまり静的な人、散器の者つまり動的な人、人にはこの二つのタイプがある(善導)。
静的な人や動的な人が、自分のタイプに合わせ、自分なりに努力して称名念仏していくことはと
ても大事なことだ。いつかは必ず救うぞという阿弥陀仏の誓いを信じ、決して諦めず、へこたれ
ず、継続的に持続的に繰り返し繰り返し重ねていけば、人はいつか必ず真如の世界に転入してい
く。力こぶの入らない、肩に力が入らない自然な気持ちで念仏が称えられるようになっていく。

 覚えざるに、真如の門に転入す。この部分について、教行信証は、「不覚転入真如門」とあり、
親鸞は覚に「オシヘ」とふりがなを振っている。「覚」という字に教えという意味はない。覚と
は、おぼえる・さます・さめる・さとるいう意味だ(広辞苑)。善導大師は般舟讃で、たとえ、
悟りには至らなくても真実の世界に入るという意味で言っているんだろうと思う。親鸞は、ここ
で意味を変え、二十願世界から十八願世界に入ることを示唆している。

 十九願世界から二十願世界に入るには、親鸞は様々な先人達の指導によった。親鸞が法然の下
を尋ねたのは、比叡山で論主(曇鸞)の解義を仰ぎ、宗師(善導)の勧化によったからだ。恒河
沙数の諸仏は、それぞれ自分たちの世界観世界にあって、その立場から広長の舌相を出だして、
遍く三千大千世界に覆いて、誠実の言をもって称名念仏を勧めている。誠実の言(ことば)とい
う有形の手段で勧めている。曇鸞・善導もその一人として広長の舌相を出だして称名念仏を勧め
ていた。だからこそ、親鸞は、意識的、自覚的に法然の世界に入った。十九願世界から二十願世
界へは、自らの判断・決断、決心で自覚的に入っていく。ボーダレスでなんとなくという世界で
はない。ここには決断がある。明確な一線がある。恵信尼の手紙によると、六角堂に百日こもっ
たという。不眠不休の荒行をやって決心がついたらしい。

490 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/06(木) 10:33:04 ID:pi6DDKIr
 ひたすら念仏を称えていく二十願世界からさらにその先の十八願世界に入るのは、自分と阿弥
陀仏だけの世界だ。誰の導きもない。自分と阿弥陀仏以外何者も介在しない無形の世界である。
これを他力という。自然という意味だ。

 野球選手はひたすらひたすら素振りを繰り返す。これによって力こぶの入らない、肩に力が入
らない自然なフォームができてくる。野球コーチが言えることは、「素振りをしろ」「繰り返
せ」「続けろ」までである。力こぶがなくなる、自然のフォームになる理想の世界への転入は、
素振りという行為を通じてもたらされてくる自然の変化である。そこは、本人がひたすら続ける
中で獲得していく以外に道はない。これによっていつフォームが変わるか。それは一週間後か、
一年後か、誰もわからない。本人は唯進むだけである。これがまさに他力本願の世界である

 その変化は、「いつとはなしに」その世界に行くのか?、ある時点をもって、ガラリと世界が
変わるのか。
 次に、ここを考えてみよう。

491 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 14:17:50 ID:YwXF3M9K
諸天・人民・けん飛ねん動の類も阿弥陀仏の名を聞いて救われる。

けん飛ねん動の類は称名出来ない。
しかし、名号を聞く事で救われる。

492 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 14:28:57 ID:YwXF3M9K
重誓げ に曰わく

『われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究きょうして聞こゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。』

彌陀の真意は明白だ。名号をとなえさせて救うのではなく、聞かせて救うと誓われてある。
十八願成就文には「聞其名号」とある。
彌陀の救いを狭める者の異見に惑わされるな。

493 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 16:06:16 ID:YwXF3M9K
名号をとなえる意義は、他の者たちに聞かせるから、となえる意義があるのだ。
彌陀の声である、必ず救う、という南無阿弥陀仏を聞いて、必ず救われる、と信じて南無阿弥陀仏と称える者は
既に自分の救われのために称名しているのでは無いと知るべきだ。

494 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 16:14:33 ID:YwXF3M9K
阿弥陀仏が必ず救うと誓い、南無阿弥陀仏と誓いは成就しているのである。

なのに更に自分で南無阿弥陀仏ととなえて、救われよう、どうにかなろうとするのは、
阿弥陀仏の誓いを信じず、何の為の本願成就の名号なのか聞いてないのだ。聞不具足とはこの事だ。
二十願の機とは、これらの輩を言う。
名号は十八願だが、機は二十願だ。

となえる事にとらわれて、本願成就の名号である事を信じていないのだ。だから信不具足と言う。

阿弥陀仏の、全ての衆生の救いの誓いは、
南無阿弥陀仏の名号に成就している。
だから称名出来ない者たちも救われるのだ。

495 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 16:19:18 ID:YwXF3M9K
必ず救う、という阿弥陀仏の声をたのめ。
それだけでは救われない、とか、それでは足りない、
などという自分の迷いの声にまかせるな。
必ず救う・必ず仏となさむ、という南無阿弥陀仏の声をたのめ。

その後の称名は全て仏恩報謝の念仏に他ならないのだ!

496 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 16:42:40 ID:YwXF3M9K
どんな煩悩や疑念が湧いても、「必ず救う」の現れである
南無阿弥陀仏を思えば、どんな煩悩や疑念も悪も
阿弥陀仏の救いを妨げる事など出来ないという思いが
湧いて来る。
これこそ、必ず救うという南無阿弥陀仏のお力によって
回向された安心であり信心である。

必ず救う南無阿弥陀仏!
必ず救われる南無阿弥陀仏!

497 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 17:58:04 ID:YwXF3M9K
南無阿弥陀仏は浄土往生だけではない!
かならずやこの世に極楽浄土を実現させるであろう!

498 :774:2007/12/06(木) 18:30:38 ID:Kxq6dHP1
>343-344
遅レス済みません。私の辿ってきた経緯は、まず、高校生の時、
『歎異抄』に衝撃を受けたのがはじまりだったかと思います。
その後、鈴木大拙師の『妙好人』を読み、その英知に満ちた生活に興味を引かれて、
三田源七師『信者めぐり』等々、妙好人関連の書物を読みました。
その根底に流れているものは阿弥陀仏への信仰無くしてはありえないと、
その信仰たるや何なのか、当時、強く思ったのでした。
以来、金子大栄師、曽我量深師、桐渓順忍師、稲垣瑞劔師などの著作を通して、
他力信心とは一体何か、悩んだものでした。特に、伊藤康善師『仏敵』には、心揺さ振られました。
しかし、一番のご縁は、加茂仰順師のご法話を聴聞させていただいた事だと思います。
師は、毎回毎度「お助けに助けられるのである」と繰り返し仰いました。
当時、私は何のことだかさっぱりわかりませんでした。
読んで(聞いて)、理解すれば(体験すれば)、救われる(気持ちが晴れる)
と言う構造をもとに信心決定をはかっていたからです。
私たちは、生まれてこのかた、こうしたギブアンドテイクの枠組で
物事を理解し、現にそれによって生活しています。しかし、一切智者たる仏の利他心はギブアンドギブ、
私たちの生き方とは根本的に違うのです。

499 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 19:38:38 ID:pi6DDKIr
>491
>ねん動の類も阿弥陀仏の名を聞いて救われる。

体をよじって風呂場を徘徊するゲジゲジに向かって「南無阿弥陀仏」と名号を聞かせたら、突然
ゲジゲジが、救われたと歓喜踊躍し、涙でもながせば、テレビのバラエティー番組が殺到するだ
ろう。

 台所を走っているけん飛の類のゴキブリに殺虫剤をかけ、同人「南無阿弥陀仏」と、名を聞かせ
たら、必ず救う南無阿弥陀仏!必ず救われる南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏の声をたのめ、南無
阿弥陀仏の声をたのめと、突然涙を流しましたなんてね。

 ところで、ゲジゲジやゴキブリは耳を持っているのか?。音が聞こえるのかな?。YwXF3M9Kな
どは、声も聞こえないけん飛ねん動の類かも知れん。

500 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 19:40:00 ID:pi6DDKIr
>499
誤 同人
正 同時に

501 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 20:16:07 ID:9u1bbe63
492
正解!!よくわかっている

502 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 20:25:49 ID:9u1bbe63
499
うるせえよ、おめえはようそんなわけねえことぐらいわかるべよ、だから不可思議と言んじゃねえかバカ

503 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 21:42:21 ID:YwXF3M9K
しかれば、もしは行、もしは信、一事として
阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
『教行信証』

504 :神も仏も名無しさん:2007/12/06(木) 23:01:35 ID:/7KgVjq4
>>502
悪口に悪口で対応したら負けになる。
相手の手に乗ったらいけない。

505 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 00:56:06 ID:cBcFbYm+
>504
 負けるが勝ち。
 法論は、勝っても負けても釈迦の負け。

506 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 10:51:16 ID:um4NkCz1
この俺ですら漏れてなかったよ。

507 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 11:27:00 ID:cBcFbYm+
>>504
>悪口に悪口で対応したら負けになる。相手の手に乗ったらいけない。

 相手に勝つことを考えることより、権をすてて実をとり、(偽を捨てて真を取り、)仮をさし
おきて真をもちいたいものです。

 善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。一つには勝他のためのゆえに経典を読誦す。 〜 善事、悪果報を得ん。
 法論は、勝っても負けても釈迦の負け。お釈迦様に恥をかかせることは慎みたい。 

>>503
>阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。

 南無阿弥陀仏は、清らかな願心をもって回向を完成させてくれているものだから、我々が称え
るものではないということを仰りたいのでしょうか。

 最近、「千の風になって」という歌が有名になっています。メアリー・フライさんというアメ
リカ人女性の詩だということが最近分かったそうです。題名はついてなかったようで、外国では、
「私の墓前で泣かないでください」というのが仮りの題名になっているそうです。今では、日本
でも多くの人が歌っています。日本語では、「千の風になって」という題で新井満さんが訳詞している。

 千の風になっては、私たちに誰が贈ってくれた歌でしょうか。それはメアリー・フライさんと
いう、アメリカの女性だそうです。故国に残してきた母がナチスに殺されたことを知り、悲しん
でいる友人に贈った詩だそうです。

508 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 11:27:44 ID:cBcFbYm+
 歌は聞くものですか。歌うものですか。千の風になっては、それを聞いた人が感動し、感動し
た人がそれを歌いだして広がりました。米国では、深く広く浸透しており、日本では、阪神大震
災のチャリティーコンサートで歌われたことで話題になったそうです。

 もともとはメアリー・フライさんという方が聞かせてくれました。詩に感動した人が、各地で
次々にそれを朗読し、日本でもそれに感動した人が訳詞し、曲を付け、日本語でも歌われていま
す。その感動は、遠くはメアリー・フライさんの清らかな心に発します。メアリー・フライさん
の清らかな心が、「私の墓前で泣かないでください」という詩となって世界中に回向され、聞い
た人が感動をもって自らも朗読し、歌い始めているですのです。おそらくこれは永遠に歌われ続
けるでしょう。

 聞くということ。それは感動を持って聞くことです。歌の原点は感動にあります。感動の原点
は、詩を聞いたということ、詩や歌に触れたということにあります。やがてそれは多くの人々が
感動を持って歌い始まっていくところで拡散しました。メアリー・フライさんの清らかな心が、
世界に公開的に回向され、届けられ、その清らかな心が多くの人の心に成就されています。

 聞其名号 信心歓喜 乃至一念も、そういうことといささかの矛盾もない。「千の風になっ
て」を聞いて感動した人が、感動をもって一度でも歌い出せば、そこではメアリー・フライさん
の清らかな心が歌う人に公開的に回向され成就される。一度歌った人は、二度歌うだろう。二度
歌った人は三度歌うだろう。その度に歌う人々は毎回メアリー・フライさんの新たな清らかな心
が満たされる。

 聞其名号とは、本願をきいてうたがうこころがないことをいう。「千の風になって」を聞くと
いうことは、そこで語られていることがまさに真実であると認識したということだ。認識が深け
れば深いほど、聞いた人には歓喜という形で感動が起きる。感動は、一度、二度、三度という歌
声を起す。

509 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 11:29:04 ID:cBcFbYm+
 「千の風になって」を、感動をもって一度、二度、三度と歌い、その回数が重なっていけば、
そこにはあのメアリー・フライさんの清らかな心と、そのたびにつながり、共通の感動、共通の
価値観、共通の世界観に往き、そして生まれていくことになる。
 
念仏を聞くということは、きいてうたがうこころがないことをいう。南無阿弥陀仏を聞くとい
うことは、そこで語られていることはまさに真実であると認識したということだ。認識が深けれ
ば深いほど、聞いた人は歓喜という形で感動が起こされてくる。感動は、一度、二度、三度とい
う称名念仏を起こす。 
 南無阿弥陀仏を、感動をもって一度、二度、三度と称え、回数が重なっていけば、そこにはあ
の仏陀の清らかな心と、そのたびにつながり、共通の感動、共通の価値観、共通の世界観に往き、
そして生まれていくことになるだろう。

 「千の風になって」を一度でも歌った人は、メアリー・フライさんの清らかな心の世界に入る
だろう。その一度とは、回数の極限である。本当に感動した人は、おそらく二度三度と口ずさむ
だろう。しかし、ゼロ回はどうか?。

 歌と称名念仏とは一概に比べられない。少なくとも南無阿弥陀仏を一度も称えないような人は、
「名号を聞いた人」「信心歓喜した人」とは認めない。これは仏陀のスタンスである。本願を聞
いた、歓喜した、というなら、少なくとも自らも一度は念仏を称えよというのが、浄土教のスタ
ンスなのだ。

 「千の風になって」については、感動もなく、むりやり歌わされて歌う人もいるだろう。そん
な人は、メアリー・フライさんの清らかな心の世界と共通の世界に立ったとはいえないだろう。
しかし、共通の世界に立った人は、きっと歌声がでると僕は思う。
 念仏が聞こえてなく、歓喜も無いんだが念仏だけは、ただいたずらに称えるという人はいるだ
ろう。しかし、本当に念仏が聞こえていて歓喜もあるという人は、必ずや二度、三度、十回百回
の念仏がでるものだ。

510 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 12:28:03 ID:4PgD/7MU
名号をとなえる事は大事だ。
しかし、名号をとなえなければ救わない、
というのが阿弥陀如来の本願と言うので
あれば、それは間違いだ!
名号をとなえる者、となえられない者全てを仏に成さん、
との誓いだから、弘願門と言う。

十八願成就文は聞其名号であり、称其名号ではない!

救いは南無阿弥陀仏の六字に成就しているぞ!

511 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 14:01:53 ID:cBcFbYm+
>510
>名号をとなえなければ救わない、というのが阿弥陀如来の本願と言うのであれ
ば、それは間違いだ!

至心信楽の本願の文、
『大経』に言わく、設い我仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が
国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ
五逆と誹謗正法とを除く、と。已上

 「乃至十念」というのは、名号をとなえなければ救わないということです。名号を
となえなくても救うとは言ってない。

>名号をとなえる者、となえられない者全てを仏に成さん、との誓いだから、弘願
門と言う。

 念仏の衆生を救うというのが阿弥陀仏です。日蓮さんや顕正会の会長のよう
な、念仏をとなえられない者まで全てを仏に成さんという趣旨ではありません。

512 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 14:45:35 ID:4PgD/7MU
十八願成就文は「聞其名号」とある!

様々な理由などで名号を称えられなくても、名号を聞かされて救われてゆくのである!

名号が、必ず救うという阿弥陀仏の誓いの成就した事を聞信して救われてゆくのだ。
乃至は必至ではない。
無称名でも救われてゆくのだ!

こっちが名号をとなえて阿弥陀仏の救いが完成するんじゃあない!
阿弥陀仏の救いは名号に完成されている事を聞信するのだ!

513 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 15:28:20 ID:zhirkgwT
ニート海難は今日も自宅に引き篭もって2chか

514 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 18:18:34 ID:4PgD/7MU
南無阿弥陀仏の名号を聞く者全て、
光寿無量、還相摂化の仏徳を得るのだ。

515 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 19:26:20 ID:4PgD/7MU
それは難信の中の極難信、不可称不可説不可思議の法だ。

自力の信では絶対に信じる事かなわぬ法なのだ。

ただただ彌陀の救いの誓いが南無阿弥陀仏と
成就している事を聞信するしかないのだ。
それが信じられないならば、称名しながら何度も何度も、
必ず救う、という南無阿弥陀仏のみ声を聞く事だ。

南無阿弥陀仏は必ず救う!
必ず救うが南無阿弥陀仏だ!

516 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 20:31:49 ID:cBcFbYm+
 4PgD/7MUさんも、一日で考えが随分変わってきたようだ。今後も徐々に分かってくるだろう。
今は変化途上にあるようだ。

 蛇足だが、4PgD/7MUさん以外の後学の相続の疑惑を晴らすためコメントしておきたい。4PgD/7MU
さんが問題提起してくれた。

>無称名でも救われてゆくのだ!

 阿弥陀は救いの安売りたたき売りをしているんじゃない。

 おおよそ往相回向の行信について、行にすなわち一念あり、また信に一念あり。行の一念と言
うは、いわく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。
かるがゆえに大本(大経)に言わく、仏、弥勒に語りたまわく、それ、かの仏の名号を聞くこ
とを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。当に知るべし、この人は大利を得とす。すな
わちこれ無上の功徳を具足するなりと。

 一念(極限の一回)も無い者には大利が無い。功徳は無い。当たり前だ。

517 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 20:33:13 ID:cBcFbYm+
>こっちが名号をとなえて阿弥陀仏の救いが完成するんじゃあない!阿弥陀仏の救いは名号に完
成されている事を聞信するのだ!

 「私の墓前で泣かないでください」という詩は、既に1950年代には完成していたんだ。現
代の人が今歌ってあの歌の清らかさが完成するんじゃあない!。
 現代において歌う人は、1950年代には既に完成していたその詩の心に、今自分が歌うこと
で、時間を超え、国を超えて共感する。歌うことで同じ価値感、同じ感動の世界に往き、生まれ
ていく。
 「千の風に乗って」を聞信したところは、メアリー・フライさんの感動に共感させて貰え、同じよ
うに歌わせて貰える世界だ。まことに有り難い世界という他はない。南無阿弥陀仏を聞信すると
は、十劫の昔に完成していたその心に、時間を超え、国を超えて共感し、同じ価値観、仏と同じ
感動の世界に往き、同一の価値感を共有する同一世界に生まれさせていただくことだ。まこと
に有り難い世界という他はない。
 メアリー・フライさんと共感する世界は、千の風になってに感動し、それを自分も歌うところ
で開かせていただける。仏と同じ価値感に共感する世界は、自分自身には南無阿弥陀仏を称えて
いくところで開いていただける。
 1回も称えない者は、聞信したものとは認めない。仏はそういうスタンスを取っている。


>それは難信の中の極難信、不可称不可説不可思議の法だ。

 メアリー・フライさんのあの心清らかな世界は、メアリー・フライさんの方から開いてくれな
ければ、世界中誰一人知ることはできなかった。メアリー・フライさんが始めて開いてくれた極
難信、不可称不可説不可思議の世界だった。

518 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/07(金) 20:34:29 ID:cBcFbYm+
自力の信では絶対に信じる事かなわぬ法なのだ。

 世界中の人がよってたかって様々に工夫を重ねても、メアリー・フライさんの心には及ばなか
ったろう。自力の信では絶対に信じる事ができないとはそういうことだ。

>ただただ彌陀の救いの誓いが南無阿弥陀仏と成就している事を聞信するしかないのだ。

 しかし、その心はメアリー・フライさんが詩の中に完全に成就させてくれていた。だから、我
々はその歌を聴かせて貰い、感動させて貰えている。
 我々は、メアリー・フライさんの感動を、自らもその詩を歌うことで表現させて貰うことがで
きる。同じように歌うことで、メアリー・フライさんと同じ精神世界を共有させて貰えるのだ。
ここに有り難い世界が成就されている。

519 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 21:01:52 ID:4PgD/7MU
無称名でも必ず救われる!

阿弥陀如来の本願は無条件の救いだ!

称名は救いの条件ではない!

520 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 21:23:10 ID:4PgD/7MU
南無阿弥陀仏と聞信しようが、称名しようが、
私達が阿弥陀仏のみ心を知る事など決して出来ない。
それは私達が阿弥陀仏と同じ仏となって初めて理解できるのだ。

521 :神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 21:31:11 ID:4PgD/7MU
私達にわかるのは、必ず救う、という阿弥陀仏の誓いが南無阿弥陀仏となって成就していると言う事だ。
南無阿弥陀仏は方便法身なんだ。仏様そのものなのだ。仏身そのものなのだ!

無称名だろうと関係ないのだ。必ず救われる!

522 :774:2007/12/08(土) 01:26:42 ID:pwqzXfJe
>521
無称名でも救われると親鸞聖人は仰ったか?
信心決定して、称名念仏称えるべしと仰っておられないか?

523 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 07:12:10 ID:+EG1Sc7F
じゃあ、称名出来ない人たちやけん飛ねん動の類は救われないのか?
教行信証に親鸞聖人は『大阿弥陀経』の願文を引用されている。
そこには称名ではなく、名号を聞いて、とある。

524 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 07:13:35 ID:+EG1Sc7F
人間だけを救うのが阿弥陀仏の本願じゃないぞ。
全ての衆生を救うのが阿弥陀仏の本願なんだ。

525 :774:2007/12/08(土) 08:38:26 ID:pwqzXfJe
>524
私たちは、虫ではありません。虫たちには、虫たちのための無上の方便があり、
私たちには私たちに合わせて説いて下さった法があります。
信心正因称名報恩です。

526 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 09:43:40 ID:+EG1Sc7F
身体的理由で称名出来ない人たちはどうする?
認知症で称名できなくなった人たちはどうなる?
一番大事なのは称名じゃない!
聞名号だ!

527 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 09:46:26 ID:+EG1Sc7F
虫も人民も諸天も、名号を聞く事で往生する!
だから弘願門なんだ!
人間だけしか出来ない教えなら弘願門とは言えず、二十願の真門に過ぎない!

528 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 10:06:33 ID:+EG1Sc7F
名号を聞かせて頂けた事に感謝し、称名出来る者たちは称名すればよい。それだけの事だ。

529 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/08(土) 11:32:08 ID:iJn2P0Vn
>>526
> 一番大事なのは称名じゃない!聞名号だ!

 面白いことを言う。

 526さんよ。それで、貴方には名号が聞こえたのか、聞こえてないのか?
 称名念仏をしているのか。していないなのか。
 身体的理由で称名出来ない人か、できるひとか。

 名号が聞こえたときの526さんと、聞こえてないときの526さんと、何が変わったんですか?

 救われた526さんと、救われてない526さんとは、何がどう違うんですか。
 救われてないときの526さんというのは、あり得るのか、ありえないのか。

 聞名号したゴキブリと、聞名号してないゴキブリと、どこがどう違うんですか?
 救われたゴキブリと、救われてないゴキブリとの違いはなんなんですか?

530 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 12:09:48 ID:+EG1Sc7F
聞こえた聞こえた!
「変わらなくても救う!仏にする!」
という南無阿弥陀仏の声が!

ゴキブリさんに南無阿弥陀仏と言った。
ゴキブリさんはどう思ったのかわからん。
浄土でお互いに仏になって語り合えば良い事だ!

みんな仏になれるんだ!南無阿弥陀仏だぞ!

531 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 12:15:08 ID:JRJCGfQv
ゴキブリ渡海難と遊ぶスレはここですね。

532 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 12:48:32 ID:+EG1Sc7F
渡海さんが、たとえ様々な理由で称名出来なくなっても、
阿弥陀仏は必ず仏にすると言っている。
その証しが南無阿弥陀仏だ!

533 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 13:13:45 ID:KNI2bRZu
浄土への拉致か

534 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 13:20:05 ID:+EG1Sc7F
拉致じゃない。

摂取の光明だよ!

535 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 13:38:38 ID:KNI2bRZu
極楽浄土じゃなくて天国に行きたいんだけど?

536 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 13:49:08 ID:+EG1Sc7F
知らん!
極楽でいいんじゃないか〜?、

537 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 14:01:18 ID:KNI2bRZu
金色の阿弥陀物がちょっとなあ、怖いんだけど。

538 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 14:06:45 ID:+EG1Sc7F
金は何ものにも犯されない仏徳を現す為に、
仏像の色は金色にする。『西方指南抄』を読んでみたら、
法然聖人の詳しい解説が載っている。

だから実際の阿弥陀仏の色や姿は実際に
浄土に生まれてから確認すればよい。

539 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 14:21:48 ID:KNI2bRZu
あと宝石じゃらじゃらで美川憲一っぽいのがなあ。

540 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 14:30:33 ID:+EG1Sc7F
宝石なんかよりも、もっと素晴らしい光明を
我が身から発する事が、浄土では可能だぞ!

541 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/08(土) 20:49:10 ID:iJn2P0Vn
>523
 親鸞は、大阿弥陀経を二箇所で引用している。行の巻と真仏土巻である。

仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経に言わく、第四に願ずらく、「それがし作仏せし
めん時、我が名字をもって、みな八方上下無央数の仏国に聞こえしめん。みな、諸仏おのおの比
丘僧大衆の中にして、我が功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・@飛・蠕動の類、我が名
字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せん者、みな我が国に来生せしめ、この願を得ていま
し作仏せん。この願を得ずは、終に作仏せじ」と。 (行の巻)
  <@ 「絹」の字の糸偏を虫偏に変える。 音は「ケン」>

 大阿弥陀経に言わく。私が小乗仏教の学習を修了し、小乗仏教の辟支仏になれば、様々な価値
観・世界観を有する無数の価値観国・世界観国それぞれに自分はやがては名を轟かせようと思う。
賢人達・哲人達・学習者達に、私は私の実力を認識して貰えるようにしよう。 今後設立する極
楽学校の素晴らしさをきっと分かって貰えるようにしよう。才能ある人々(諸天)・普通の能力
の人々(人民)・@飛・蠕動の類まで、私の名声を聞けば必ずや希望を持ち、優しさを抱くよう
になるようにしよう。私の極楽学校の素晴らしさに小躍りするような人々は、必ずや極楽学校に
招こう。この誓願を完成して自分は、教育者として大乗の仏になろうと思う。それができないう
ちは、自分は大乗の仏としての真の教育者に成ったとは思うまい。

542 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/08(土) 20:50:19 ID:iJn2P0Vn
『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』支謙訳 に言わく、仏の言わく、「阿弥陀仏の
光明は最尊第一にして比びなし。 〜 もろもろの無数天下の幽冥の処を炎照するに、みな常に
大明なり。諸有の人民、@飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつる者、
慈心歓喜せざる者なけん。 〜 仏の言わく、「それ人民、善男子・善女人ありて、阿弥陀仏の
声を聞きて、光明を称誉して、朝暮に常にその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所
願にありて、阿弥陀仏国に往生す」と。已上 (真仏土巻)

 大阿弥陀経に言わく。釈迦は次のように言った。阿弥陀仏の光明は最も素晴らしく、比べるも
のがない。無数の世界の暗がりを全て明るく照らす。無数の人々、空を飛ぶ虫、地を這う虫の類
に及ぶまで、阿弥陀仏の光明を知らない者はない。阿弥陀仏を一目見れば、心に優しさを持ち、
歓喜しない者はない。 〜 釈迦は言った。さあ、人々よ、善男善女の方々よ、阿弥陀仏の声を
聞き、その光明の素晴らしさを称賛し、朝に夕べに、一時も休まず常にその光を称賛し、心を尽
くして決して絶えることがなかったなら、その心の願うところに従って阿弥陀の国に往生する。

 大阿弥陀経は言う。「光明を称誉して、朝暮に常にその光好を称誉して、心を至して断絶せざ
れば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生す」

 舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは
一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にし
て乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にまし
まさん。

 大阿弥陀経も阿弥陀経も、同じことを言っていると解すべきだろう。 

543 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 21:03:44 ID:KNI2bRZu
あれだわな、「救うぞ、救うぞ」と声を出す阿弥陀仏像を売ればいいんだよな。
昔はそういう技術なかったからしょうがないけど。

544 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 22:33:28 ID:+EG1Sc7F
俺は、阿弥陀仏の木像の胸から足にかけて、南無阿弥陀仏と墨で書いた。

俺の阿弥陀仏像にはふさわしい姿だ。

545 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/08(土) 23:00:53 ID:iJn2P0Vn
>544
 阿弥陀仏というのは、自分は既に救われているんだということを
強弁したいための小道具なんだろうか。

 何の強弁なんだろう。救われてないと思うことは、恐いことなのか

546 : ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/12/08(土) 23:07:54 ID:sM3QBOWl
     _____
   /::::::::::::::::::::::::::\                  _
  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\            /  ̄   ̄ \
  |:::::::::::::::::|_|_|_|_|           /、          ヽ はぁ?何知った風な口聞いてんだ?
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       | 
  |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ      | 黙ってろ、キモオタ!
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)          ノ_ ー  |     | 
/|   <  ∵   3 ∵>          \. ̄`  |      / 
::::::\  ヽ        ノ\           O===== |
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547 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:11:29 ID:ySR4Qncy
来迎を待つことはいらないということですが
来迎図を見たり平等院鳳凰堂を参観したりするのは
楽しいですね。

548 :774:2007/12/08(土) 23:29:30 ID:pwqzXfJe
>547
来迎図もありがたいが、正定聚の常来迎はもっとありがいです。       次に、称名がいらないと言っている者には、再び信心正因称名報恩と言いましょう。
あなた自身、身体的不自由さがないならば、行住座臥、称えなさい。
声に出すことが出来なければ、心のうちに称えなさい。
自分が称えられるのに、他人が称えられないからと勝手な理由づけをして
怠惰にまかせて称えないのであれば、君は称名報恩を
忘れている異安心です。

549 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:29:59 ID:+EG1Sc7F
南無阿弥陀仏を聞信する人たちには、平生からあの来迎図にあるような
諸仏、諸菩薩、諸天善神、善鬼神、龍王、魔王までが幾重にも取り巻いて
お守り下さると思って見ているので、ありがたくなりますなぁ。

550 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:40:06 ID:+EG1Sc7F
私は、称名出来る者も出来ない者も
本願成就の南無阿弥陀仏によって救われると言った。

私が怠惰だと?そうです私は怠惰です!
気が向いた時しか称名出来ない怠惰な私だ。
しかし、こんな私を救う為の本願成就の南無阿弥陀仏なんですよ。

となえなさいとおっしゃる方は、人に言うくらいだから、
始終口で心で称名されているんだろう。
しかしな、そんな称名エリートだけを救う小さい本願成就の南無阿弥陀仏じゃないんだよ!

阿弥陀仏は、「十方衆生を必ず救う」と南無阿弥陀仏となって言っている!

妄念妄執のとりこになって、南無阿弥陀仏をとなえるのもおろそかな私でも、必ず救うと言っている!

551 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:43:11 ID:+EG1Sc7F
だから、称名出来る者も無称名の者も本願成就の南無阿弥陀仏で救われるんだ!

552 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:50:41 ID:+EG1Sc7F
私がいつ、「称名がいらない」などと言ったか?!そんな事は言ってない!

「無称名でも救われる」
「称名出来る者は称名すればいい、他に名号を聞かせる事になる」と言っている!

553 :神も仏も名無しさん:2007/12/08(土) 23:58:56 ID:+EG1Sc7F
もっと言おう。
仏様の話も聞こうともしない、念仏なんて
何の得にもならん、金の方がよっぽどいいと思う私こそ、
本願成就の南無阿弥陀仏のお目当てなんだよ!

阿弥陀仏様はなぁ、必ず必ず救う!南無阿弥陀仏に成就しているから、安心しろよ!って言って下さるんだよ!

554 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 00:00:24 ID:+EG1Sc7F
そんじゃ明日の朝早いんで寝ます!

必ず救う南無阿弥陀仏!
必ず救われる南無阿弥陀仏!

555 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 00:18:54 ID:VLVEXgpR
一切衆生を救ったので仏になった。その後の衆生は取り残された。

556 :298:2007/12/09(日) 01:22:17 ID:OgN0/UOn
渡海 様

「口伝などあるはずがない」と簡単におっしゃいますが、
渡海様おすすめの、坐禅念仏(名称が違ったら、ごめんなさい)についても、
ちゃんと教えるとしたら、どうなさいますか?

手紙になさいますか?

やはり、直接お会いして、ねんごろに、
「座り方は、こうですよ」「呼吸は、こうやって・・・」
「声の出し方はですね・・・」と教えていって、
それではじめて、同じく行じていただけるのではありませんか。

後世まで、伝えて行く価値のある法があるときに、
「直接お会いしてお伝えするように」という指示になることが、
それほど不思議なことでしょうか。

生涯にただ一度で満足することのできる、正真正銘の選択の念仏は、
今に至るまで、きちんと伝わっているのです。

ご聖典にも、口伝についての記述は、一度や二度ではありません。

557 :298:2007/12/09(日) 01:26:20 ID:OgN0/UOn
>>486
263さん、ありがとうございます。
urlが変わっていることを知らなくて、
書き込みができなくなっていました。
おすすめの御本も、さっそく探して読んでみようと思います。



558 :298:2007/12/09(日) 01:36:47 ID:OgN0/UOn
>>498
774さん、歩みを教えてくださってありがとうございます。
「お助けに助けられるのである」ということだけでは、
その中身がわかりません。


559 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 08:27:45 ID:QI5O0ecR
皆さんおはようございます!南無阿弥陀仏!

560 :774:2007/12/09(日) 08:37:42 ID:mfM3LS8O
>552
即入寂静無為楽 必至信心為能入

清浄之因唯信心
易行の極致を言うならば、信心と言わねばなりません。
私が死の淵に立たされた時、身口意に念仏を称えることが出来るだろうか。
そこを見越しての本願なるが故に、他力回向を易行の極致とされたのが仏意でしょう。
故に、我が身口意をたのむことなく、弥陀の誓願ひとつに、救われる。
かくなる上は、唯能常称如来号。何もお返しできるものを持っていない(機の深信上)
我らが、どこまでも救う大きく弘い本願力に感謝するには如何すればよいか。
十悪五逆の私を必ず助けると回向された南無阿弥陀仏そのもので、
お礼するのが最上でありましょう。怠惰に流され、煩悩に流され、
ご恩もご恩と思わない我らに、そこまでご準備いただいたかと味わえば、
無称名「でも」救われるなどと主張して、喜ぶよりは、
十悪五逆の私を必ず助けると呼び掛け続けてくれて、ありがとう。
信心正因称名報恩と喜ばせていただきましょう。

561 :298:2007/12/09(日) 08:48:24 ID:OgN0/UOn
「南無阿弥陀仏!」の元気な方、おはようございます。

>>492
>彌陀の真意は明白だ。名号をとなえさせて救うのではなく、聞かせて救うと誓われてある。
>十八願成就文には「聞其名号」とある。

「聞」も「其」も解釈していらっしゃいますし、元気でありますので
一見無茶苦茶なようでありますが、ご聖典に沿っていらっしゃることは、
とてもよくわかります。


562 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 09:29:02 ID:QI5O0ecR
お助け成就の南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏はお助け上手!

563 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 09:30:44 ID:L3kPnzcj
宮崎の綾には浄土真宗を崇拝してのカルト詐欺教団あり 人の弱みにつけこみ金を巻き上げる卑怯者がいる
きおつけろ!

564 :774:2007/12/09(日) 10:43:05 ID:mfM3LS8O
>558
私も当時、全く意味がわからず、この方の言われる信心とは何なのか
ずいぶん苦しみ悩んだものでした。
お助けに助けられるとは、結局、他力と言うことだったのです。
私は助かろう、助かろうと要求していましたが、その要求自体本物ではなかったと言うことです。
また、信じたあかしが欲しい、浄土に参る証明書が欲しいと要求しましたが、
みな嘘ものであったと言うことです。死ぬまで十悪五逆を造り続ける私が、
煩悩心によって要求し、煩悩心によって獲たものは、浄土の因とはなりません。
全く清浄で一片の曇りもない願行で出来上がっている「私を必ず仏となす」
というお助けのみが、真実清浄であったのです。
その成就された法に助けられるのであって、助かりたいとか、助かったとかいう感情も、思いも、
何一つ足していくことはなかった。仏の助けたい一心のみでしか、
救われがたい煩悩成就の私であったのです。ご苦労のかけっぱなしで、南無阿弥陀仏


565 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 10:50:53 ID:QI5O0ecR
そうだ、必ず助けるの南無阿弥陀仏以外に何もない。

勅命の他に信心無し。

566 :298:2007/12/09(日) 10:59:51 ID:kN7YKFOI
>>564
そういうことであれば、774さんは、法に出会うこと叶わなかったので、自分で自分を納得させた、
ということになると思います。(その意味では、565の方も同じです。)
しかし、こういうことを言われても、おもしろくないでしょう。
ですので、私の書き込みも、そろそろやめようと思います。

567 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 11:20:32 ID:hrlRMJXw
要求が偽もの、っていうのがよくわからないです。
要求は報われると思います。


568 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 11:56:09 ID:B3n9kAmR
>556
> 渡海様おすすめの、

 親鸞聖人が、八百年も昔に直弟の真仏に勧めた方法です。恐らく、全てのお弟子さんに勧めて
いたでしょう。真宗教団はこれによって爆発的に拡大したと考えています。

>坐禅念仏(名称が違ったら、ごめんなさい)

 五会念仏と呼んでほしいものです。怪しげな方法ではありません。
 唐の時代、唐仏教の頂点にあった法照禅師が唐の皇帝に教え、以後、中国全土に広がりました。
唐の時代に全盛の中国仏教を支えていたのがこの五会念仏だと思います。
 日本には、天台宗第三代座主の円仁大師が遣唐使として中国に留学し、これを持ち帰ったと聞
いています。日本天台禅の本流です。
 弁慶が坐禅をしている像があれば、それは五会念仏をしているところでしょう。

> ちゃんと教えるとしたら、どうなさいますか?

 五会念仏はきちんと教えないといけない。しかし、教えるのは、五分、十分くらいです。方法は決し
て難しくない。

569 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 11:56:57 ID:B3n9kAmR
> 手紙になさいますか?

 僕のインターネットの書き込みを見て五会念を始めた人はたくさんいます。メールで問い合わ
せをしてくる人もいます。隠すような方法ではありません。親鸞は、八百年も昔に人々に教え、
その書き物が残っています、

> やはり、直接お会いして、ねんごろに、
  リクエストがあれば可能な範囲でお付き合いします。

> 「座り方は、こうですよ」「呼吸は、こうやって・・・」「声の出し方はですね・・・」と教
えていって、それではじめて、同じく行じていただけるのではありませんか。

 難しい方法ではありません。僕は、禅寺にもしばらく通っていました。僕の場合、禅寺で教わ
った座り方に、五会法事讃略抄での記載内容を上乗せしているだけです

> 後世まで、伝えて行く価値のある法があるときに、「直接お会いしてお伝えするように」とい
う指示になることが、それほど不思議なことでしょうか。

 なんのことを仰っているのでしょうか

570 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 11:58:41 ID:B3n9kAmR
> 生涯にただ一度で満足することのできる、正真正銘の選択の念仏は、今に至るまで、きちんと
伝わっているのです。

 これまでお会いした中で、私が五会念仏をお勧めした方以外で、五会念仏を実行している方に
お会いしたことはありませんでした。
 五会法事讃略抄は、親鸞の著作の中では教行信証に次ぎ、大般涅槃経要文と共に非常にボリュ
ームのある書物です。真宗にとっては歎異抄などとは比較にならない程、はるかに重要な聖典で
あると考えています。
 しかし、本願寺のデータベースでさえ、これを掲示していません。聖典集にも記載していませ
ん。
 普通の人がほとんど触れない「真宗聖教全書 全五巻」の末巻の中で発見しました。小さな文
字で真筆とありました。全文が漢文です。
 浄土真宗の中では、完全に無視されている書物です。私は、自分がそれを発見するまで誰から
もその存在を教わったことがありませんでした。私は、曾我量深さんの著作はほとんど読みまし
たが、その中でもこれに触れている文はなかったと思います。
 五会念仏の実践は、あるとき突然タブーになった。これを脅威と感じた勢力があったのでしょ
う。これによって真宗教団は骨抜きになった。時代は恐らく徳川時代初期だと思います。
 僕は、五会念仏で長年の大きな疑問の一つが氷解しました。「正真正銘の選択の念仏は、今に
至るまで、きちんと伝わっている」というのは、貴方の幻想だと思います。

>ご聖典にも、口伝についての記述は、一度や二度ではありません。

 五会念仏は重要な教えだという話しと、念仏の回数を数えることは簡単なことであるという話
をすり替えることはやめましょう。

571 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 11:59:23 ID:QI5O0ecR
納得してもしなくても別にいいじゃあないですか、そんな事は。

必ず救うの南無阿弥陀仏がありますよ!
私が救われないっていくら思っても、阿弥陀様は
必ず救う、南無阿弥陀仏に成し遂げている!
と言ってるんだから大丈夫ですよ。

阿弥陀仏様の仰せがあるから、安心して迷ったり悩んだり出来るんですよ。

絶対沈まない本願名号のタンカーに乗っていながら、
このタンカーは大丈夫だ、いや沈むかも、
と言ったり思ったりするだけ。だから凡夫なんです。

阿弥陀仏と同じ仏になったら迷いも悩みもしない。
しかしそれはお浄土に行かなければ絶対に無理だと思います。
ただし、本願名号に救われた人は、迷いながらも悩みながらも、
心のどこかで本願名号の救いの確かさも感じている事でしょう。

煩悩の雲に覆われても、本願名号の光明なよって、雲は光っているのです。
全くの黒闇では無いのです!

572 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 13:33:25 ID:QI5O0ecR
座禅念仏する人もしない人も、みな南無阿弥陀仏で救われる。

俺も座禅念仏やってもいいよ。
ただし、「仏恩報謝、仏徳讃嘆」でな!

でも面倒くさいからや〜めた(笑)

往生礼讃の習礼しよーっと

573 :774:2007/12/09(日) 15:33:48 ID:mfM3LS8O
>566
別にあなた様に救ってもらうわけじゃありませんから、
何を言われても一向にかまいませんよ。いつか、何もかも忘れてしまう時が来る。
思いも、記憶も、大切にしていたものも、求めていたことも、間違いないという信念さえも。
南無阿弥陀仏を称えることさえ忘れてしまう、阿弥陀如来のご恩徳も、先生から教わったことも。
自分が誰かさえわからなくなってしまうことでしょう。
何がよりどころになるのでしょうね。弥陀が私のことを離さないこと以外、ないのでは?


574 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 15:42:07 ID:QI5O0ecR
私が阿弥陀仏を忘れても
阿弥陀仏は決して私を忘れない、と
それが南無阿弥陀仏だぞ、と。
うん、774さんの意見に同意。
昔、先生がおっしゃってた事を思い出した。

575 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 15:44:12 ID:VLVEXgpR
阿弥陀仏ばんざーい!

576 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 15:47:04 ID:QI5O0ecR
信念も体験も無くても、五会念仏出来なくても
本願成就の南無阿弥陀仏がある!!

577 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 21:28:01 ID:B3n9kAmR
>>570
 一つ付け加えておきます。
 五会法事儀讃略抄は、今までの真宗学の常識を覆すような様々な
重要な親鸞の主張が記載されています。
 真宗教団は、五会法事儀讃略抄を隠し続けておきたいのだろうと思
います。しかしそのようなことが何時までもできると思えば大間違いで
しょう。いずれ近い将来、真宗学は、五会法事儀讃略抄によって教義
の大幅な書き換えが迫られるでしょう。それができなければ、真宗教
団は、社会から相手をされなくなるとおもいます。
 五会法事儀讃略抄がもっと人々に読まれるようになったとき、人々
が抱いていた様々な疑問は、多くが氷解すると思います。

578 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/09(日) 21:29:54 ID:B3n9kAmR
>577
誤 五会法事儀讃略抄
正 五会法事讃略抄

579 : ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/12/09(日) 21:44:01 ID:5U6JPDvo
    彡川三三三ミ
   川出 :::\,) ,,/::ヽ
  出川::::::::ー◎-◎-)
 ..川(6|::::::::  ( 。。))
 出川;;;::∴ ノ  3  ノ  
   ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ

580 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 21:52:59 ID:QI5O0ecR
あ、僕も短いですが浄土真宗にとって重要な親鸞聖人の
真筆の文章を知りました!
『浄土本縁経文』です!『真宗聖教全集・五 拾遺部 下』P95に載ってます!

「若し人多くの罪造れば、地獄の中に堕つ應(べ)し。
わづかに彌陀の名(みな)を聞けば、
猛火(みゃうか)清涼(しゃうりゃう)となると。」

彌陀の名号を聞く事に無上の功徳あることが示されていますよ!

五会念仏がどうした!大事なのは聞名号だよ!

581 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:06:56 ID:QI5O0ecR
まだまだありますよ!
『往生要集云』です!同書収録!
それによると「…無量清浄佛のみなをききて、歓喜踊躍して、
みのけいよだつことをなし、ぬけ異津留がごとくなるものは、
みなことごとく宿世宿命にすでに佛事をなせるなり。
それ人民あて、うたがふて信ぜざるものは、みな悪道のなかより
きたりてお悪いまだつきず、これいまだ解脱をえざるなり。」

582 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:08:05 ID:QI5O0ecR
まだまだありますよ!
『往生要集云』です!同書収録!
それによると「…無量清浄佛のみなをききて、歓喜踊躍して、
みのけいよだつことをなし、ぬけいづるがごとくなるものは、
みなことごとく宿世宿命にすでに佛事をなせるなり。
それ人民あて、うたがふて信ぜざるものは、みな悪道のなかより
きたりてお悪いまだつきず、これいまだ解脱をえざるなり。」

583 :298:2007/12/09(日) 22:24:03 ID:kN7YKFOI
>>576
「易往無人」そして、
「因を修すればすなわち往く、修することなければ生まるること尠なし」
を考えていただければと思います。
以前、法然上人のお名前が出ていたと思います。
できれば、選択集を読んでほしいと思います。

>>577
五会法讃は、御本典にも引かれていますのに、どうしてそんな
秘密文書のようなことをおっしゃるのですか。
しかし、礼拝が身業であることすら忘れられていることが多い今日です。
大事な問題提起になると思います。

584 :298:2007/12/09(日) 22:27:36 ID:kN7YKFOI
聞名号も、五会念仏も、同じことを言っていると思います。
一念多念で争う意味がないのと同じです。
すべて、「真実行」が昔から伝わってきていることの
証拠としてあげられていることです。
私たちが救われるために大切なのは、
「それが何を意味しているか」ということです。

585 :神も仏も名無しさん:2007/12/09(日) 22:32:50 ID:QI5O0ecR
因も果も、全て阿弥陀如来の清浄願心の回向にあらざるもの無し。

私達は本願成就の名号を聞信する一念に無上利益を得て、
その後の称名全て仏恩報謝の念仏、自行化他、自他聞信の念仏に他ならない。

586 :298:2007/12/09(日) 22:33:50 ID:kN7YKFOI
>>580
>若し人多くの罪造れば、地獄の中に堕つ應(べ)し。
>わづかに彌陀の名(みな)を聞けば、
>猛火(みゃうか)清涼(しゃうりゃう)となると

これは、三途の黒闇がひらかれるという事でしょうか?
たいへん興味深いです。

587 :774:2007/12/09(日) 23:57:41 ID:mfM3LS8O
>567
私の思いはみんな偽物ですよ。偽物じゃないのはただひとつ、
私を業障から必ず解き放ち、必ず輪廻の鎖を断ち切り、必ず最上の仏となすと誓って下さった、
本願、その願が成就した名号以外ないですね。
私たちは認めてほしい、信心得たい、知りたい、食べたい、
尊敬されたい、安心したい、どこを突いても欲望の固まり。
私の欲望が本物か?必ず欲望・煩悩の鎖から解き放ち、
もう迷わせないと言う弥陀の本願が本物か?どちらが本物なのか取捨するも、面々の御はからいです。
>574
いい言葉ですね。仏力他力本願力。本願力にて往生す。南無阿弥陀仏
諸仏が称讃されるまんまのお名号が私の腐った口から出るなんて、
腐った心に思い浮かべることが出来るなんて、
ありえない事が、起こっておりますね、今のただ今。あなたまかせの年の暮れ。不可思議、不可思議。
南無阿弥陀仏


588 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/10(月) 00:53:16 ID:m2P6FGyG
>> 580-582
貴方とは「聞」という言葉の定義概念が違うので、僕は貴方とこれ以上議論しない。

 「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし(信の巻)。
 「疑心あることなし」すなわち信心について、真実の信心は必ず名号を具す(行の巻)。

 称名念仏のない聞名号なんて、僕は全く受け入れないよ。

>> 583
>どうしてそんな秘密文書のようなことをおっしゃるのですか。

 従来の真宗学の常識をひっくり返すようなことがたくさん書いてあると理解しているからです。
 両本願寺の聖典に収録が無く、本願寺のデータベースからも排除され、高田派のホームページ
にも全く記載がないからです。
 なお、いまここでそれを議論のテーブルに出すつもりはありません。これに関しては、嫌という程、
僕と本願寺の坊さんとの膨大な量の議論が2ちゃんねるの過去ログに残っているはずです。

>聞名号も、五会念仏も、同じことを言っていると思います。
  見解を異にします。

>「それが何を意味しているか」ということです。
  考えることでなく、実践するかどうかだけの問題と思います。


589 :298:2007/12/10(月) 02:59:21 ID:ANM6LSmj
>>588
>>聞名号も、五会念仏も、同じことを言っていると思います。
>  見解を異にします。

ということは、選択の念仏は、複数あるということですか。
あるいは、五会念仏は20願、聞其名号は18願ということでしょうか。
私は、行巻が述べているのは、凡夫を即座に弥陀に救い摂らせる、
真実の行ただひとつであり、これこそ、法然上人、親鸞聖人、蓮如上人が
広めようとしたことだと考えています。
もちろん、行巻にも複数のことが書いてありますが、それは、廃立のためであり、
述べたいことは、真実の行ひとつです。
もちろん、20願の実践と、信後の御恩報謝の念仏については異なりますが、
それは行巻の本意ではありません。


590 :298:2007/12/10(月) 03:00:36 ID:ANM6LSmj
>>「それが何を意味しているか」ということです。
>  考えることでなく、実践するかどうかだけの問題と思います。

何を指して、「考える」とおっしゃっているのかがわかりません。
真実「行」とあるように、実践するためのものです。
非行と呼ばれる行を行い、弥陀から信心賜ることにより、
はじめて疑問が氷解し、真宗が理解されます。

私は、渡海様が念仏しているのを否定しているわけではありません。
文証をもとに、いろいろ復刻しようとなされているのであれば、
それは尊いことです。
しかし、素直にご聖典を読めば、法は自ら考え出すものではなく、
伝えられてきているものを教わるものだとわかるはずです。
しかし、18願に出会える前までは、各自で実践するしかありません。
弥陀を向いている方には、ご縁が現れるはずです。
その際に、一枚起請文にありますように、「一文不知の愚鈍の身になして、
尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、
智者(ちしゃ)のふるまいをせず」になれるかが肝心だと思います。
(もちろん、何が本物かを理性でわかるためには、ご聖典が頼りになります。)

591 :298:2007/12/10(月) 03:29:05 ID:ANM6LSmj
>>567
これは信後のことをおっしゃっているのでしょうか。

もし、信前の方であれば、特定の人物に向くのを止め、
自分の心を変えようとするのも止め、ただ弥陀の方を向こうとして
南無阿弥陀仏を言い続ければ、必ずご縁が現れると思います。

592 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 08:12:14 ID:f95QzT6p
念仏となえ続けて安心出来るならな、
法然聖人も親鸞聖人も比叡山を降りる必要はなかったんだよ!!

そんな簡単な事ぐらい何故わからないか?

そんなに称名漬けになりたいなら、比叡山で得度して常行三昧やってこい!

そんな根性も無いくせに、しょせん本願名号の上で甘えていきがってるだけだろが。

593 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 08:58:39 ID:f95QzT6p
渡海さんもな、そんなに称名したけりゃ五会念仏とか
言わずに比叡山で常行三昧やってみろよ!
きっと信心正因称名報恩の教えがありがたく思えるだろうさ。

結局は、必ず救うという誓いの成就した南無阿弥陀仏に甘えていろいろはからっているだけなんだよ。

594 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 09:19:18 ID:f95QzT6p
常行三昧を満行すれば、阿弥陀仏の姿を感得出来るぞ。
比叡山の方から聞いた。
もっとも、へたしたら死ぬ危険性もあるから江戸時代から封印され、
昭和に入って酒井氏が復活させるまで行われなかったほどの難行だがな!

595 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/10(月) 11:46:53 ID:m2P6FGyG
>> 589
>選択の念仏は、複数あるということですか。

 貴方の言っていることの意味がこちらに伝わらないということです。
 意味が伝わらないということは、考えていることが違うんだろうと思ったということです。
 同じ見解なら、意味がこちらに伝わらないということはないと思います。


>> 590
>何を指して、「考える」とおっしゃっているのかがわかりません

「それが何を意味しているか」という言葉は仕切れトンボです。普通は、「それが何を意味して
いるかと」言えばその次に「考える」と続くのでしょう。それが何を意味しているかと考えると
言うことは、私には必要がないと言うことです。
 念仏の方法が分かりましたから、考えることはもう私にはありまえせん。あとは言われた方法
をそのまま実践するだけです。


 「私は、渡海様が念仏しているのを 〜 理性でわかるためには、ご聖典が頼りになりま
す。」これが貴方の考えているところでしょう。私は、一日の中で、十分なり二十分なりひたす
ら称えるだけです。それで完結します。

>>592-594
 あなたとは言葉の定義が異なり、宗教の信念が違います。同じテーブルで議論はできません。

596 :    \___________/:2007/12/10(月) 11:59:48 ID:rTW2isuR
           ○
            。
            .

        彡川三三三ミ              _
       川川 ::::::⌒ ⌒ヽ          /  ̄   ̄ \
      川川::::::::ー◎-◎-)         /、          ヽ
     .川(6|::::::::  ( 。。))         |・ |―-、       |
   , ―-、川;;;::∴ ノ  3  ノ        q -´ 二 ヽ      | はぁ・・・
   | -⊂) \_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ          ノ_ ー  |     |
    | ̄ ̄|/ (_ ∧  / 、 \        \. ̄`  |      /
    ヽ  ` ,.|     ̄  |  |         O===== |
      `− ´ |       | _|        /          |
         |       (t  )       /    /      |

597 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 14:54:44 ID:f95QzT6p
渡海さんの主張は、本願名号で救われるんじゃなくて、
南無阿弥陀仏を、ある一定の方法と時間をかけて
称える事で救われる、と言う事だな。

以前、本願寺布教使を名乗る人物に五会法事讃略抄を
持ち出した主張を論破されたくせに、また持ち出して来るんだな。

598 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 16:13:47 ID:laEx3hOY
基地外オヤジこと渡海難は無視しましょう。

599 :774:2007/12/10(月) 16:23:49 ID:f+Ubhizs
>591横レス失礼します。
自力適わず流転してきたのに、まだ続けるのですか。
己がはからいすっぱりやめて、弥陀の思惟にまかしゃんせ。

600 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/10(月) 19:34:59 ID:m2P6FGyG
>> 597
 論争相手にいつまで僕を引っ張り出そうとするの?。貴方が僕とまともな話ができると思ってい
るのか?
 貴方の主張は、一部の本願寺布教使さんとは肌が合うんだろう。あなたのような考えを持って
いる布教使さんはたくさんいると思う。
 僕が貴方と歯車が噛み合うことはない。宗教的信念が水と油の関係で、よって立つ土俵が全く
違うからね。僕は、自分の正当性を貴方のような考えの人に力説するつもりは全くないんだ。自
分の良心を捨てて貴方のような考えに同調しようとも思わないしね。
 他の人を探してくれ。

601 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 19:40:00 ID:f95QzT6p
己がはからいあるままで
必ず救うの南無阿弥陀仏を聞け!

602 :神も仏も名無しさん:2007/12/10(月) 20:58:48 ID:f95QzT6p
真宗聖教全集を読んで、親鸞聖人の真筆を読んだくらいで
特別な何かを得たと思ってる誰かさんがおかしくて(笑)

どうせ出すなら本願寺にも収録されてない
『浄土真宗安心相傳抄』とか『信海聞書』ぐらい読みなよ。
このスレに来る人が真宗聖教全集よんでないと思って書いたか?
そんな根性丸出しのあんたがな、五会念仏とか言っても無駄よ。

五会念仏が既に比叡山で行われていた事ぐらい説明してやれるんだろうな。
きちんと説明しろよ。わかった?渡海「さん」

603 :774:2007/12/10(月) 21:56:11 ID:f+Ubhizs
お軽お同行の歌
どうせ他力になれぬ身は、自力さらばと暇をやり、
わしが胸とは手たたきで、たった一声聞いてみりゃ、
この一声聞いてみりゃ、この一声が千人力。
四の五の云うたは昔のことよ。
じゃとて地獄は恐ろしや、なんにも云わぬがこっちのねうち、
そのままこいよのお勅命。
いかなるおかるも頭が下がる。
連れていこうぞ、
連れられましょうぞと
往生は投げた投げた

如衆水入海一味、よくぞ言われた南無阿弥陀仏。

604 :298:2007/12/11(火) 00:34:19 ID:5n24krEa
263 様
おすすめの本、入手できました。思ったよりも、小さい本でした。
他宗他派を誹謗せず、正雑二行の沙汰もせず、うつくしい念仏者でありたいと
思いながら、これで良いのか自問しながら書き込んで参りましたが、
真実信心の貴重なご本までご紹介いただき、心より、感謝申し上げます。
とても楽しみにしながら、今晩読もうと思います。
南无阿彌陀佛

605 :774:2007/12/11(火) 00:53:02 ID:B2KiRUd1
今の今まで、はからっていた。ああしなければ助からない、こうしなければ助からないと。
必ず助けると仏意でもって拵えた本願があるのに。
何か秘密があるんだと思っていた。何か方法があるのだと思っていた。
凡夫の理由など要りはせぬ。ただ、弥陀の助けたいという思いのみ。
すべて用意できたぞ、お前の往生は間違いないぞ。願も行も皆、私のために拵えて下さったのに、
俺は助かっている、あいつは助かってないと自力妄念を働かす。
妄念の奴隷となって、弥陀の本願を、願成就のお名前を、
あっちに置いたり、こっちに定義づけしたり。はからってはからってはからい続けて何十年。
妄念は凡夫の地体
妄念の外に心はなしと
この腹決めて
知った思うた覚えた事をあてにせず、
己が心にあいそをつかして南無阿弥陀仏。

606 :298:2007/12/11(火) 02:29:14 ID:5n24krEa
>>602
私は真宗聖教全集も持っておりません。
『浄土真宗安心相傳抄』や『信海聞書』も、
親鸞聖人の著作なのでしょうか。
聖人の著作であれば、ぜひとも読みたいのですが、
どのようにして入手すれば良いのでしょうか。


607 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 04:34:20 ID:+c8OUD79
俺は>>602さんではありませんがネットで調べてみた。

『浄土真宗安心相傳抄』→「親鸞面授の人びとー如信・性信を中心として」(自照社出版)
http://blog.goo.ne.jp/azumando/e/6bb92f8b5315bfc9b20626dff55e656c

『信海聞書』→グーグルではうまくでてきません。もしかしたら『真宗大系(正・続)』とか『真宗叢書』とかに入っているのかも
         下記はネットで調べられた書物らしきもの
         織田顕信,浄勝寺本「信海聞書」について,同朋大学論叢 50,仏教思想・文献,1984
         宮崎円遵「親鸞上人と関東の門弟」『龍谷教学』17  東京大会記念特集号

608 :298:2007/12/11(火) 05:20:01 ID:5n24krEa
>>607
大変ご親切にありがとうございます。探してみます。


609 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 08:28:06 ID:axDpLY39
>608
> 私は真宗聖教全集も持っておりません。

http://kobayashi.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/3941?osCsid=2803506058c42289d8fdcee73d3f5860

610 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/11(火) 20:21:59 ID:axDpLY39
>460
> 自然に・・・それは、「いつとはなしに」その世界に行くのでしょうか?ある時点をもって、
ガラリと世界が変わるのでしょうか。

 また、往生は、何事も何事も、凡夫の計らいならず、如来の御誓いに、任せまいらせたればこ
そ、他力にては候え。ようように計らいおうて候らん、おかしく候(消息集)。

 極楽浄土への往生というのは、どんなささいなことも、凡夫の自由にはなりません。必ず達成
させるぞと言っている果遂の誓いを信じ、永続的、持続的に続けていくほかありません。果遂の
誓いだけが持続の力になります。これが他力です。いつとはなしにかわるのか、ある時点でガラ
リとかわるのか。それは如来に任せるほかありません。自然の成り行きです。自分で様々に推し
はかっていらっしゃるようですが、こちらから見ると見当違いでおかしさを覚えます。

 いつとはなしに変わることもあれば、ある時点をもってガラリと変わることもあるでしょう。
親鸞はそう言ってくれている。自分からあれこれ色々考えることではない。親鸞の意思は明確だ
と思う。

 歎異抄は何と言っているか。「回心ということ、ただひとたびあるべし」。大きな転換は一回
だけだという。しかし、これは「いつとはなしに」おきたものか、突然起きたものか分からない。

611 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/11(火) 20:23:58 ID:axDpLY39
 渡海難はどうか。僕は昔は念仏なんか称えてなかった。それが突然、一瞬で変わったという自
覚がある。確か、41歳くらいのときだったおもう。もう随分昔になってしまった(苦笑)。
 その昔、僕はあるひとから、しばしば「念仏と称えろ、念仏を称えろ」と、耳にたこができる
くらい言われていたものだ。「僕なんかね、よる寝る前に布団の上でこう座って称えるんだよ」
「夕べな、妻に起こされたよ。『貴方どうしたの』って。寝ながら南無阿弥陀仏を寝言繰り返し
ていたんだ」。「お前は念仏しないから信心ができないんだ」などともさんざん言われたものだ。

 その先生と、喧嘩別れのような形で決別したのが32歳くらいの時だった。十年以上、非常に
世話になって教えをうけていたが、最後はものすごい形相で分かれたものだ。今はもう故人とな
られ、非常に懐かしい。先日、数十年ぶりに奥様にお会いしてきた。

 「そうか、このことだったのか。こんなことだったのだ。おーい、真宗は潰れるぞ。真宗はひ
っくり返るぞ」。僕は夢中になって女房に詰め寄って行ったときがあった。女房は「何言ってい
るの?」とポカンとしていた。辺り一面が、非常に明るくなった。あのときはおそらく瞳孔は通
常の倍以上に開いて興奮状態にあったんだろうと思う。そんな興奮状態が僕の場合にはたしか半
日くらい続いた。

 これは悟りと言うんだろうか。禅の坊さんに確認しようと思って禅寺に通った。まあ、タイミ
ング悪くて確認できなず。その直後、大病をして禅寺とも疎遠になり、確認することも面倒にな
った。それ以後、僕は念仏に絶対の信頼が涌いたんだ。恐らく、脳の中に、それまでなかった特
殊な回路が、質的にできたんだろうと思っている。

 僕は、この話はあまりしない。まだ正確な確認が取れてないからだ。しかし、ガラリとかわる
のかどうかという点では、少なくとも僕には突然やってきた。ただし、これが万人にそのように
ありうるのか、ぼくだけであるのか。徐々に変わるのか。普遍的なことを言う資格は僕にはない。

 親鸞は、そんなことを心配するのはおかしく候と言っているから、まあ、あまり親鸞から笑わ
れないようにしたいものだ。

612 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 20:50:55 ID:+7hYwuCS
南無阿弥陀仏は教
南無阿弥陀仏は行
南無阿弥陀仏は信
南無阿弥陀仏は証
南無阿弥陀仏は真仏土
南無阿弥陀仏は化身土

つまり顕浄土真実教行証文類とは、教巻から化身土巻に至るまで、
全て南無阿弥陀仏の由来、教え、意義、活動相を示したものと私はとらえる。

南無阿弥陀仏は阿弥陀仏
南無阿弥陀仏は本願
南無阿弥陀仏は大無量寿経
南無阿弥陀仏は無量光明土
南無阿弥陀仏は不可思議光仏
南無阿弥陀仏は無量光寿の仏身
南無阿弥陀仏は久遠実成
南無阿弥陀仏は願成就の仏体
南無阿弥陀仏は立身即行


南無阿弥陀仏は真如法性!
南無阿弥陀仏は金剛宝戒!

613 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 21:26:24 ID:+7hYwuCS
浄土真宗が滅びるなら滅びよ!

本願成就の名号、南無阿弥陀仏を説く事はやめはせぬ!

全て仏となさむ!
南無阿弥陀仏!

614 :華厳屋 ◆R7vEXkH2/E :2007/12/11(火) 23:13:52 ID:qfoiOzsn
渡海難に聞きたいが、
『難行、易行』をどう解釈する?

615 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 23:16:50 ID:SMJcN51i
なんかこのスレは「渡海難とゆかいな(=頭のおかしそうな)仲間たち」になってるな

616 :神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 23:41:28 ID:z1onXVvj
渡海難をあぼ〜んしてるんで、
「ゆかいな(=頭のry)仲間たち」しか見えない。

617 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 00:34:20 ID:It/cDdqC
>614
 コメントしてもいいが、やめておきます。

「渡海難に」と呼び捨てにしているのは、本気で聞きたいということではないようだ。
「聞きたいが」と、「が」という助詞もついている。
 聞きたいが、聞きたくもない。『難行、易行』をどう解釈する?。まあ渡海難のいうことなど
聞きたくもない。

 こんな自問自答のレスなんだろうと思うので、コメントしません。

618 :華厳屋 ◆R7vEXkH2/E :2007/12/12(水) 01:12:56 ID:VD1Y8vLt
はあ。
ただ率直に質問してみただけなんだがな。


気を悪くさせて悪かったな。

619 :298:2007/12/12(水) 01:48:07 ID:iyf9WFEZ
>>609
ご親切にありがとうございます。
それから、263さま。迷い子の導きですが、私には、三業相応の御恩報謝の南無阿弥陀仏の
お話が、ありがたかったです。
意業を問わず口業で御恩報謝になると聞いていましたが、あのようにやると、
自力の心のよろこびが増しますので、本当にありがたく思いました。
南無阿弥陀仏

620 :298:2007/12/12(水) 01:53:24 ID:iyf9WFEZ
親鸞聖人の著作をご紹介くださった親切な方、
もしまだ信を取っていらっしゃらないなら、
ぜひ信を取ってください。
ここで興味を持って検索したら、総合サロン13にも信を得てそうな方が
いらっしゃいました。私は信を得ている皆様のお話を聞いてみたいですが、
コンタクトの取りようがわかりません。
それでも、真宗が確かに生きているとわかるだけでも、
とてもとてもうれしいです。

621 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 10:48:22 ID:It/cDdqC
>>256
>獲信者と断言される方、念仏を喜んでおられる方、にも何人か出会うことが出来た。しかし、
話をすると、何だか悔しいやら腹が立つやら。その心がどんな精神的世界に住み、どんな境地に
あるのか、サッパリ分からない。

 僕は真宗と約40年近く付き合ってきた。最近分かったことがある。真宗には、内人と外人と
がいる。僕は外人だ。おそらく貴方も外人なんだろう。

 1から10まで、数える場合にどう言うか?。イチ・ニ・サン・シ・ゴ・ロク・シチ・ハチ・
クゥ・ジュウと言うでしょう。反対の場合、なんて言いますか?。ジュウ・クゥ・ハチ・ナナ・
ロク・ゴ・ヨン・サン・ニ・イチと言うでしょう。

 日本語学校でもそういうふうに教えるそうです。そうすると外人生徒さんはどう思うか。
 「おかしい。なんかおかしい」
 「どこがおかしいと思うんですか?」
 「いや、わかんない。わかんないんだけど、何かおかしい。この先生は、日本語を知らないん
じゃないか」
 「わかんないでおかしいと言われても困るんだけど、どこがおかしいの?。」
 「いや。わかんない。おかしい・・・。」
 外人に日本語を教えるとこんな会話があるそうです。体はおかしいと感じるんだけど、何がお
かしいか生徒は言えない。おかしいところが言葉にならない。でも、体はおかしいと感じている。


622 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 10:49:16 ID:It/cDdqC
 外人さんはどこがおかしいと思っているかわかりますか?。行きは「シ・シチ」と言いながら、
帰りは「ヨン・ナナ」と言っているでしょう。行きが「シ・シチ」なら、帰りだって「シチ・
シ」になるんじゃないか。どうしてそうならないんだろう。この先生は、日本語をよく知らない
んじゃないかとなるわけです。
 逆に、日本語を母語としている我々日本人は、外人がそんなところで引っ掛かるなんてことが
想像もできないんですよ。「え〜!。そんなところで引っ掛かっていたの!?」と、相手が引っ
掛かっていたところが分かると、僕らは絶句してしまう。

 物心つく前から10歳位までの間に親から日本語をしっかりと叩き込まれた我々は、日本語が
母語です。日本に30年近く住んでいる外人でも、成人してから日本語を外国語として勉強し、
日本に住むようになった人は、日本にその半分の15年しか住んでない15歳の少年の言葉と比
べて、普通はやや違和感がある。
 真宗の教えを3歳から10歳位までの間にしっかりと叩き込まれた人、こういう人は真宗が母
語になる。僕は19歳のときから真宗に触れた。その意味で、真宗は外国語であり、僕は真宗の
外人です。僕の家は宗教など全くない家だった。親父は、顕真大師と弘法大師の違いも知らなか
った。旦那寺が真宗であることも死ぬまで知らない人だった。お袋は、「親鸞よりは日蓮の方が
いいわね」と言っていたキリスト教びいきの完全無宗教だった。

 外人と内人との間には越えられない壁がある。行きは「シ・シチ」と言いながら、帰りは「ヨ
ン・ナナ」と言うところに疑問を真っ先に感じ、「おかしい。この先生は日本語を知らないんじ
ゃないか」と思う外人の感覚と、「え〜!?そんなところがわからなかったの」と、仰天する内
人とは、感覚が違う。

623 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 10:50:51 ID:It/cDdqC
 3歳から10歳位までの間に、いわばおじいちゃん、おばあちゃんにだっこされながら、子守
歌のようにして真宗の話を聞かされてきた人は、まさにそれが母語になっている。嘘も本当も、
真綿が水を吸い取るように吸収している。しかし、外人はそうはいかない。理性で分別していき
ます。ぼくに真宗を教えてくれた人は、真綿が水を吸い取るように真宗を吸収しており、完全に
それが自分の血肉の一部になっていた人だった。理性しか入口のない僕とは、亡くなるまで調和
することがなかった。

 2ちゃんねるでも、真宗を母語としている人はたくさんいる。阿弥陀は架空、極楽は観念、本
願は創作物語だというと、強い抵抗を示す人、これは真宗を母語として小さいときに叩き込まれ
た人々だ。
 外人には外人なりの感性がある。昔、曾我量深さんという真宗学者がいた。僕はその人の本を
ほとんど全部読んだが、結局最後まで親しみを感じなかった。彼などは、典型的な真宗が母語の
内人だ。内人としては素晴らしい理論を展開しているが、行きは「シ・シチ」と言いながら、帰
りは「ヨン・ナナ」と数えることには、何の疑問も持たない人だった。隔靴掻痒というのは、僕
はまさに曾我量深さんに当てはめている言葉だ。僕の真宗論は、いわば、曾我量深さんに影響を
受けながら、曾我批判が原点になっている。

 もし、貴方も真宗を母語とする内人と話が合わないと思うなら、その感覚は大事にするといい。
彼らは行きは「シ・シチ」と言いながら、帰りは「ヨン・ナナ」と数えることに、説明が無くて
も何の抵抗もない人々だ。説明を要求する外人である僕らは、彼らと感性が違う。内人の議論は、
豪快な面があるが、実に荒削りで僕などはついて行けない。ただ、よく読むと、親鸞も蓮如も、
明らかに外人に向かって、実に丁寧に説明している。親鸞も蓮如も、常に回りはみな外人ばかり
で、当時は、内人などは一人もいなかったのだ。

624 : ̄ ̄ ̄ ̄\| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/12/12(水) 11:11:44 ID:xtLds85c
  |           __  冫:::::::::::::::|
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   レ'"~ ,-,、 !   ! ' '" ̄ .ノ===\=::::|
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   !〉ー― '"( o ⊂! ' ヽ   ∪   リ ろ)
   i  ∪  ,.:: :二Uニ:::.、.    : : :  )丶 」  ゼェゼェ…ハフーッ
   .! : : : : r' エ┴┴'ーダ ∪ ; ; ; ; .i 丿
   i、: : : :  ヾ=、__./    : : : ノ  )    も、もえええぇ!萌!
    ヽ. :、∪ ゙ - ―-    ,;  ∪  !
     ヽ.  :.          .:.     ノ
       ヽ  ヽ...       .   .イ
       (_  、::..      ...:_/
         ~"' ‐-----‐ ''"~

625 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 11:18:05 ID:It/cDdqC
>618
> 気を悪くさせて悪かったな。

 まあ、お気になさいますな。他人にものを聞こうと思ったら、日頃のプライドは
一時、かばんの中にでもしまう癖をおつけになるといいでしょう。
 私も、他人のことが言えるような義理じゃなく、いつも失敗しているんですが、
ものを尋ねるときの礼儀だけは、お互いに心がけたいものですよね。聞きたく
ないことは盛んにぶつけてくるのに、こっちが聞きたいことは、相手はなかなか
答えてくれないものだ。

626 :神も仏も名無しさん:2007/12/12(水) 11:32:54 ID:H1BpTGyo
五会念仏は比叡山で親鸞聖人がいる前からずっと行われてたんですが。

じゃあどうして親鸞聖人は比叡山を降りて法然聖人の所に行く必要があるの?

627 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/12(水) 12:56:49 ID:It/cDdqC
>>626
>じゃあどうして親鸞聖人は比叡山を降りて法然聖人の所に行く必要があるの?

 とってもいい疑問ですね。是非自分で考えてみるといいでしょう。
 五会念仏は比叡山で親鸞聖人がいる前からずっと行われてた。それでも親鸞聖人は比叡山を降
りて法然聖人の所に行った。だから、其の名号を聞けば救われる。人間だけを救うのが阿弥陀仏
の本願じゃない。一番大事なのは称名じゃない。聞名号だ!

 まあ、そういう理屈になるんでしょう。
 会話は、言葉の定義が一致して始めて成立する。言葉が違えば十人十色、いろいろな考えがあっ
ていい。貴方は、自分の言葉でご自由にお考えになるといいでしょう。


628 :神も仏も名無しさん:2007/12/12(水) 13:31:51 ID:H1BpTGyo
わかってるじゃないの(笑)
五会念仏の「真似事」やって、ほんの少し心が安らいだとしても、
本当に苦しい事悲しい事にぶち当たった時に、何の役にも立たないよ。

渡海さんは、教祖になりたいだけ、自説を広めたいだけなんじゃないの。

629 :神も仏も名無しさん:2007/12/12(水) 13:50:29 ID:H1BpTGyo
五会念仏の真似事じゃなくて比叡山行って本物の五会念仏やりなよ渡海さん!

比叡山に行く根性もやる気も無いんだろ!
娑婆で楽して自説を広めたいんだろ!

こんな掲示板に書き込む暇あるなら、とっとと比叡山行って五会念仏や常行三昧やりなよ!

630 :華厳屋 ◆R7vEXkH2/E :2007/12/12(水) 15:53:59 ID:VD1Y8vLt
以後気を付けます。

ということで改めまして、
渡海難さん、
貴方は難行と易行をどう解釈されますか?

是非お聞かせください。


631 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 00:42:43 ID:BI9ky3FY
皆さん、京都の『花園大学』をご存知ですか?
日本全国で唯一の『禅』を学べる大学。それが花園大学です。
京都に泊りがけでおこしになられる方。是非『早朝坐禅』に参加してください!
http://www.hanazono.ac.jp/zen/mind2.html



632 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/13(木) 19:59:11 ID:02CkO+PH
 このスレも、そろそろ終わりに近づいているようだ。書き込む人も少なくなっている。
 最後になるかも知れないが、内人と外人の感覚の違いをもう少し説明しておこう。

 形もましまさぬ様を知らせんとて、始めて弥陀仏とぞ聞き習いて候う。阿弥陀仏は、自
然の様を知らせん料なり(末灯抄)。

 阿弥陀仏は色も形もない。形而下的な概念ではない。形而上の概念を伝達することを目
的として創設されている架空の存在である。始めて阿弥陀仏というものを比叡山で教わっ
たとき、そのように聞きました。阿弥陀仏というのは、自然という概念を説明するための
説明上の概念である。方法論である。手段である。

 阿弥陀仏が架空の存在だというのは、あったり前の話だ。我々外人はすぐに理解できる
当たり前の考えが、内人にはなかなか理解されない。考えたら理由は簡単だった。彼らの
多くは、例えばおじいちゃんおばあちゃん達にだっこされ、耳にささやくように浄土真宗
桃太郎さんのおとぎ話を聞かされて育ってきたのだ。阿弥陀仏桃太郎さんが自分の血肉の
一部になっている。今になって、桃太郎さんは架空の存在だったんですよと言われれば、
自分の全人格が否定されたような気分になるようだ。

 四歳、五歳の子供をだっこして、おじいちゃんおばあちゃんが、「阿弥陀仏とはね、色
も形もなく、形而上の概念を伝達するための合目的的創作物なんだよ」などと言うはずが
ない。「昔むかし、法蔵菩薩様がおってな」というところから話が始まる。信じられない
話だが、彼らはこれが自分達の基本的価値観の一部を構成している。

633 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/13(木) 20:01:06 ID:02CkO+PH
 逆に我々外人に理解できないことがある。内人がいう「ああ、有り難い。有り難い」と
いう言葉だ。この気持ちが全く理解できない。その人の中では、何を有り難いと思って言
っているのか、さっぱりその正体が心に伝わってこない。「お念仏は有り難い」こういい
ながら、どう有り難いにのか分からない。結局、実体がないところで「ああ、有り難い。
有り難い」と言っているだけ。結局、彼らは、先祖からの口移しの惰性で有り難いとだけ
言っている。そういうことに気がついだのは最近のことだ。彼らは心にもなく「ああ、有
り難い。有り難い」という。それでも彼らは言葉の良心に恥じらいを感じない。我々が有
り難いという場合には、先に心にそういう思いがある。そして有り難いという。心になけ
れば言葉にならない。
 しかし彼らは、周囲の視線で言葉が出る。周囲の視線が自分に向かっていると、心にも
なく、「有り難い」という音を乱発する。演技乱発の元は蓮如にある。「有り難い」とい
う言葉を使わないで、別の言葉でその思いを表明してみて下さいというと、それは言えな
い。なぜなら、それ以外の言葉を子供の時に、口移しされていないのだ。

 先祖からの惰性には恐ろしいものがある。心にないこと、全く実感もないことを口先だ
けで言う。外人は最初ここに目くらましを食う。しかし、言葉の良心に恥じらいを忘れさ
せる教育が、浄土真宗寺院などでは先祖代々、何百年も伝承されてきているようだ。坊さ
んの全部とは言わないが、2ちゃんを見ていると、教団にはヘソとつむじが奇形化してい
るの坊主がわんさかといる。

634 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 20:28:28 ID:KSN9YVxn
>>633
>ヘソとつむじが奇形化している

軽々しく人間の体について「奇形」なんて表現はするな。



635 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 20:45:19 ID:lHc31f63
渡海さんのいうことのほうがよくわかります
所詮「在家専門仏教」っていうのは「奇形」なんです
仏教は漸修 在家から出家まで一直線につながっている
「解脱」っていうのはあくまでゴールの目安です
苦をなくす道は在家にも適用でき効果があるのです
中身のない「腹をすかせた仏」になってはいけません


636 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 21:05:41 ID:lHc31f63
だいたいこのS会系統の思考をするひと人は頭が硬すぎます
座禅組んで念仏となえるということだけで目くじらをたてる
足の形じゃないんです 蓮華座は背筋が一番ピンとのびて集中できる座法なんです
あなたがたもS会にいたとき正座して聴聞したでしょう
正座も金剛座っていう背筋がのびる座法なんです
ちなみに安定度は 蓮華座>半跏>金剛座です
本当は座禅組んで聴聞したほうがいいんですよ





637 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 22:05:55 ID:PrskZ4jk
浄土真宗の教えがわかりにくいんじゃなくて、
自分のはからいを一切否定されているから、もの足りない
だけだろ?

かと言って永平寺や比叡山に行って得度してまで真剣に
行を究めるわけでもなく、ちょっと称名したくらいで
浄土真宗はひっくり返るだの、親鸞聖人の頃に浄土真宗は
爆発的に広がっただの大嘘ばかりこく、渡海と言う人の人間性が
信用出来ないだけなんだよ。


永平寺や比叡山に行けないんだろ渡海さんは。

こんなところで書き込む暇あるなら早く比叡山でも永平寺にでも行けよ!!

638 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 22:08:25 ID:VxnQTOoy
,

639 :神も仏も名無しさん:2007/12/13(木) 23:27:19 ID:XeT6uo8/
渡海難は奇形児である
まで読んだ。

640 :神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 15:17:10 ID:cOdKQ4ai
ご本願聞いても念仏しても、ありがたいと思えない
私達の為の、本願成就なんだよ!

641 :神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 15:28:31 ID:6jZmOWiB
>>632
>このスレも、そろそろ終わりに近づいているようだ。書き込む人も少なくなっている。

全て渡海難のせい。基地外が一人で持論を展開したために誰も近寄らなくなっただけ。

642 :神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 19:42:07 ID:cOdKQ4ai
私達が何をやっても、称名しても、聴聞しても、決して仏にはなれない。
しかし、阿弥陀仏の本願によってのみ、仏となれる。

その証が、南無阿弥陀仏

643 :神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 19:46:30 ID:cOdKQ4ai
彌陀の本願・光明・名号の前では、私達の中のいかなる善も悪も、一切が無効である。

644 :神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 19:56:51 ID:cOdKQ4ai
南無阿弥陀仏を讃嘆せよ

645 :神も仏も名無しさん:2007/12/16(日) 13:55:05 ID:p2qBDIqm
帰命尽十方無碍光如来に報謝せよ

646 :神も仏も名無しさん:2007/12/16(日) 13:55:58 ID:p2qBDIqm
南無不可思議光如来に礼拝せよ

647 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/18(火) 09:57:08 ID:7nQg+ckA
 ここのスレに書き込む人もほとんどいなくなった。いままでの流れは、一応
終息したと考えていいだろう。
 議論として、十分に尽くされてこなかったものが一つだけある。>>125である。
 実にいい疑問だと思う。これをすこし考えてからこのスレッドの幕引きにした
いと思う。 

648 :神も仏も名無しさん:2007/12/18(火) 11:17:13 ID:ATkVfr/9
>>647
                           ∧_∧
◎               へ          (´<_` )
  \    ≫ ̄ ̄ ̄ ̄彡ヽ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄⌒    \
      彡____人  )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\       )  お前がスレを潰したようなもんだろ、勝手に終わらせるな!
 ◎-●一( * *    ヽミ          |.      |   
      ((_ _ (( ( ;;-=- ̄=─ ̄ '⌒ヽ〉     | |   
 ‘,'.∴・,‘・(ε ((  ヽ-=_二__ ̄    \     | |
  ,'.・∵  ヽ_____ ノ       ̄\     / /
       (__))     ヽ        .\__/_丿
       |  |         ヽ         .|  |
       |  |______)          |  |
       |  〉三三三[□]三)        |  |
       ノノノノ:::::::::::::::::::::::::::::/         \ ヽ
       ~~~|::::::::::::::::::/:::::::/             \ |
         |;;;;;;;;;;;;;;;/;;;;;;;/            / ノ
        (___|)_|)           `-

649 :774:2007/12/18(火) 17:15:52 ID:mEr0Zixx
せっかく妙好人のスレを立てていただいたのだから、
スレタイ通り、妙好人と称された方々の言動に学ぶスレとしませんか?
妙好人スレは2CHではこれだけのようですし、例をあげて、
いろいろコメントするのも法味を味わうにはいいかもしれないと思うのですが。

650 :神も仏も名無しさん:2007/12/18(火) 17:45:11 ID:iBN0qIqd
うん

651 :神も仏も名無しさん:2007/12/18(火) 17:48:34 ID:iBN0qIqd
あ書けた

>>649
去る者は追わず
気を取り直していきましょうよ
音頭はまかせました(w


652 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/18(火) 19:29:19 ID:7nQg+ckA
>>649
 774さんが特に急いで御議論したいことがあれば、どうぞお先になさるといいでしょう。>>125
は、それらが尽き、最後の締めがくれば、そのときゆっくり行うのが相応しいかと思います。

 なお、僭越ながら、妙好人だけは私も自称させていただいておりますので、お聞きになりたいこ
とがあれば、可能な範囲でお答えさせて頂きます。


>>651
>気を取り直していきましょうよ
   何か、気落ちなさっていらっしゃったんですか?。

>音頭はまかせました

 私もしばらく見守らせて頂きます。

653 :7:2007/12/19(水) 06:54:58 ID:YX4JrpCK
ちょ・・・

654 :774:2007/12/20(木) 00:06:49 ID:W6iVdbRj
自称妙好人の話ではなくて、妙好人と呼ばれた方のお話がしたいと私は思っています。
渡海さん、ごめんなさい。
一番目は、大拙先生が海外にもご紹介された才市お同行から。
才市がご法義の風邪を引いた
念仏の咳が出る出る。
という歌が残されていますが、
皆様、ご法義の風邪とは何でしょう?また、念仏の咳とはどのようなお念仏なのでしょうか?
妙好人と呼ばれた才市お同行の身に(仮に)自分を置き換えて、
考えていくのはどうでしょうか?


655 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/20(木) 08:58:24 ID:4AY2hsS5
>>654
>自称妙好人の話ではなくて、妙好人と呼ばれた方のお話がしたいと私は思っています。

 はいはい。そうでしょうねぇ。そんなこたぁ、最初から分かっていましたよ。私を妙好人と呼
んでくださるのは、自分を除けば、善導大師と親鸞聖人のお二人だけですからね。他にはいませ
んね。私には、善導大師と親鸞聖人が、おお、お前こそ21世紀の妙好人じゃ、上上人じゃ、人
中の希有人じゃ、人中の最勝人じゃ、よくきたよくきたと、目を細めて暖かく迎えてくれている
んですよ。

>渡海さん、ごめんなさい。

 いえいえ、お気になさいますな。あなたから妙好人と言われなくても、決して気落ちなんかし
ていませんよ。

>才市お同行から。

 また、いきなり大層難しい例を持ち出してきますね(苦笑)。
 
>才市がご法義の風邪を引いた念仏の咳が出る出る。という歌が残されていますが、

 だれもこんな歌は知らないでしょう。僕も知らない。才一さんの歌は一つ一つが短い。全文を
示したらどうですか。貴方は全文を知っているんでしょう。

656 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/20(木) 09:02:48 ID:4AY2hsS5
>ご法義の風邪とは何でしょう?

 風邪ひいたとき南無阿弥陀仏と咳が出たんでしょう。
 才一さんの歌は、一貫して全部が同じ心が貫いている。特定のもの一つ二つを読まなくても分
かりますね。

 「ごほんごほん。出る出る南無阿弥陀仏と咳が出る」ということでしょう。才一さんの咳は機
法一体の南無阿弥陀仏。あさまし。あさまし。ごほんごほん。ありがたや。ありがたや。南無阿
弥陀仏、南無阿弥陀仏。ごほんごほん。ごほんごほんと咳が出る。南無阿弥陀仏と咳が出る。南
無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、ごほん、ごほん。

 何にも考えないでも、御法議の咳が出るとは機法一体の咳がでるということじゃないですか。
咳を歌っている詩には機法一体という言葉が出ていない?そんなこたあどうでもいいんですよ。
才一さんは、何も考えないでも、自然に咳が出る。南無阿弥陀仏と咳が出る。こんな凄い人は、
後にも先にも才一さんしかいませんよ。ごほんごほんと咳が出る。南無阿弥陀仏と咳が出る。

>(仮に)自分を置き換えて、考えていくのはどうでしょうか?
 才一さんの腹には座れませんが、才一さんの心はいつでもやさしく伝わってきますわね。

657 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 11:43:35 ID:ksj5wDAe
              _
                /ゝ)
             /. /
少しは懲りろ!   /./       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       ∧_∧//      < また貴様か!
      (;´Д`)     i i i   \______
      /    ヽ       i i i  _
     ./| |   | |  =ニニニ_ ̄__t_)
    / \ヽ/| |        
   /   \\| |
   / /⌒\ し(メ、     i i i
 / /    > ) ヽ\  ノノノ
/ /     / /   \ヽ 
し'     (_つ    \ \   /ヽ
           ; "・ .∴ヽ(.ノ: / )i iヽ-、_へ    ,ヘ
          '',, : :―― / / i i i iヽ . ̄ ゙― ノ /
    n_    _/;    i  .ノ / /ノ-' ̄ ゙ ― 、__ノ
  _ノ 二二二、_( _Д_ ;)-ヽ_ノ-' 渡海 難
  ゙ー ''~      ∨ ̄∨

658 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/20(木) 12:40:27 ID:4AY2hsS5
>656
誤 才一
正 才市

659 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 13:46:47 ID:awMoi+pL
なんか渡海を釣るスレになってるんですが・・・
近頃は育てる漁業推進ですか?

それならお暇いたします

660 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 14:03:02 ID:KJI7PnjW
>>659
>近頃は育てる漁業推進ですか?

ここは渡海難とかいうKYなおっさんを〆るスレです。

基本的に渡海は無視してください。どうせ呼びもしないのに勝手に来て独演会をやってるだけなので。

661 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 18:13:16 ID:PD52hz5H
まともな真宗のスレはあまりないし
グタグタにするのはもったいないのでは。
初めて(間違えて)きてざっと読んだだけなんだけど
なんか色々心に残っている。
これも縁なんでしょ。

662 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 18:51:11 ID:009e+Emz
阿弥陀さんと出会って以来、念仏に絡めとられてどうにもならん。
娑婆に未練がありすぎて、もっと流転をと願っても、
今生限りでお別れとは情けない話だ。

663 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 19:15:57 ID:BnLITzl9
>>662さん

還相として、またこの世界に戻って、縁ある方々をお浄土に導くんですよ。

664 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/20(木) 19:48:41 ID:4AY2hsS5
>>659
>それならお暇いたします
 そろそろ終わりに近いと言うことでしょうかね。

>>660
>どうせ呼びもしないのに勝手に来て独演会をやってるだけなので。

 事実上の独演会をやっているのは、あんたも同じでしょう。こうやって、相手してくれる僕がい
るだけ、あんたは幸せなんですよ。

>>662
>念仏に絡めとられてどうにもならん。

 心配しなさんな。絡めとられたと誤解しているところが、念仏に絡めとられず、愛想尽かされて
しまった証拠だ。
 貴方は今後も、繰り返し繰り返し流転が続く。悪いことは言わない。地獄に堕ちないように注意
するといい。まあ、人のことは言えない。僕もお互い様だけど。  (/≧◇≦\)アチャー!!

>>663
>還相として、またこの世界に戻って、縁ある方々をお浄土に導くんですよ。

 そんなこたぁ、> 662さんに言うには千年早すぎる。まあ、地獄の底から濡れねずみになって戻
って来なければ幸せだ。

665 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/20(木) 19:55:23 ID:4AY2hsS5
>664
誤  事実上の独演会をやっているのは、あんたも同じでしょう。こうやって、相手してくれる僕がい
  るだけ、あんたは幸せなんですよ。

正 誰も呼んじゃおらんのに、勝手に来て、事実上の独演会をやっているのは、あんたも同じでしょ。
 こうやって、相手してくれる僕がいるだけ、あんたは幸せなんですよ。

666 :661:2007/12/20(木) 20:02:30 ID:PD52hz5H
>>662
なんか深いなあ。しかも名文。寂しい。
>>663
妙好人さまなんですか?
ちょっと難しくてわからんですよ。
念仏をとなえれば自分も662さんも渡海難も導いてくれるのですか?


667 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 20:15:20 ID:BnLITzl9
地獄落ち決定の濡れネズミが仏にならなければ、
私も仏には決してなるまいと言った法蔵菩薩様が、
仏となって南無阿弥陀仏となって、呼び掛け知らせて
下さってますよ。

地獄落ち決定がゆえに往生決定だぞ、と。

668 :661:2007/12/20(木) 20:40:01 ID:PD52hz5H
な、なるほど。
ちょっと心強い気がしたです。

669 :神も仏も名無しさん:2007/12/20(木) 21:22:41 ID:BnLITzl9
必ずたすく、の仏様の声を思っていれば、
その証が南無阿弥陀仏の六字に現れていると思えば、
我が妄念妄執がいかほどあろうと、まったく障りに
なりません。

だから無碍光仏ともお讃えするのです。

670 :298:2007/12/21(金) 01:28:16 ID:mqXrvSxC
>>655
>私を妙好人と呼 んでくださるのは、自分を除けば、善導大師と親鸞聖人のお二人だけですからね。

そんなことを言っているから、自障障他を繰り返すことになるのです。
私たちは、短命の機ですよ。ご聖典読んでわかったつもりになるのではなく、
わからないところをわからないとわかり、知っている方に教わるまでは、
どれほど流転しても真実信心いただくことは叶いません。
渡海様が知ったかぶっている間にも、一文不知のような方、
ご聖典を読んだことがないような方でも、日々彌陀に救われています。
どうして、そのような出会いが無いのかを、考えた方が良いと思います。

671 :7:2007/12/21(金) 09:25:02 ID:QtWn85zV
渡海さんお話の感想。
「念仏を正しく唱えていけば自然に救われる」というお話には何だか納得できませんでした。何とも自力っぽい話ではないでしょうか?。
自分のほうから御本願に手をかける、とはこういうことか・・・と感じた次第です。
それに、弥陀の本願に救われたなら、十方諸仏から称賛される、と聞いております。二人だけとは?
また、地獄は一定住みかぞかし、と弥陀の本願に遭われてから親鸞聖人が告白されているお言葉は、二種深信からきていると思うのですが、
そういった味わいが感じられず、未信の私ですが、何とも言えず違和感のようなものを感じます。

 妙好人と呼ばれる方々は、不思議と分かり合えるというか、ピンとくるようなものがあるようですが(とはいえ人間の身では完璧ではないでしょうが)
このスレにも何人かみえた妙好人らしき方同士、レスを交わしてお互いにピンときている不思議な感じが伝わるものがありました。
また、そうではなく話が食い違って浮いているように感じる方もあります。
やはりこういうスレの存在は、現在の浄土真宗を知るうえで大切だと思っています。

というか、自分のとってはこの問題を受け止めていくうえでとても有益でありました。感謝しています。
私はもっともっと本願に遭われて喜んでみえる方にレスしてもらいたいと願っています。

672 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/21(金) 13:04:49 ID:wOosspWW
>>670
>そんなことを言っているから、自障障他を繰り返すことになるのです。
 ほほう。なるほど。大変興味深いお話ですね。どこかに自障障他がありましたか?

>ご聖典読んでわかったつもりになるのではなく、

 なるほどなるほど。大変興味深いお話ですね。ところで、わかったつもりになっているとは、
どなたのことを仰っていますか。

>わからないところをわからないとわかり

 わかり? はて?。
 心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり(蓮如)
 わからないとわかるとは、どなたのことを仰っていますか?。

>知っている方に教わるまでは、どれほど流転しても真実信心いただくことは叶いません。
      はて?何のことを仰っていますか?。

>渡海様が知ったかぶっている間

 はてはて、私も凡夫の身、そう言うこともあるでしょうね。ところで、知ったかぶっていると
は、何を根拠に仰っているんでしょうね?

>一文不知のような方、ご聖典を読んだことがないような方でも、日々彌陀に救われています。
   それで、あなたはいかがですか。救われましたか?

>どうして、そのような出会いが無いのかを、考えた方が良いと思います。
   はて?。何のことを仰っているんでしょうね。

 ところでこれらのことが、何か妙好人と関係があるのでしょうか(微笑)

673 :神も仏も名無しさん:2007/12/21(金) 14:46:41 ID:ElltFQby
簡単な事です。渡海さんを仏にする!その証しが南無阿弥陀仏だぞ!
という事です。それさえ聞いたら、自力がいくら交じろうが
関係ありません。どんな想いも行為も、本願成就の南無阿弥陀仏を
さまたげる事はできないのです。

後は称名念仏を一億回となえようが、座禅しようが、
まったく本願には障りないのです。
なぜならば、本願に何かを付け足す事も、何かを差し引く事も出来ないからです。
本願を邪魔するものなど、何も無いんだ、と知る事です。

阿弥陀仏の本願成就は宇宙より広く大きいのです。誰も何もそれを遮る事は出来ないのです。

それを知った人が仏様に礼拝しようが読経しようが座禅しようが称名しようが声明しようが滝に打たれようが、
全て仏徳讃嘆・仏恩報謝の行為に他ならないのです。

その中でも一番、最も易行なのは称名念仏とご聴聞です。

阿弥陀仏の光寿無量、往還二回向の仏徳を讃え報謝しましょう。

なまんだ〜なまんだ〜

674 :神も仏も名無しさん:2007/12/21(金) 18:37:53 ID:ElltFQby
どうぞ妙好人さんのお話を進めて下さい。

ちなみに、僕は梯先生が書かれた『妙好人の言葉』という
本にすごく影響を受けたと思います。
それからお聖経を読み返し、わからない所や
疑問は本願寺の先生に質問しました。

結果、本願成就の南無阿弥陀仏に行き着いた。

必ず助くが成就して
南無阿弥陀仏となりたまい
我らを摂取の光明に
包んで仏と成したもう。

我が身の妄念深いほど
輝く光明ありがたし
妄念の湧くそのたびに
彌陀の光明思います。

報謝無くとも救います
あみだほとけのありがたさ
疑念煩悩湧くたびに
それでも救うの南無六字
見ては念仏となえます。

675 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/21(金) 19:59:15 ID:wOosspWW
>>671
>「念仏を正しく唱えていけば自然に救われる」というお話には何だか納得できませんでした。

 なるほど。なるほど。
 本当を言えば、正しく唱えたところが救われたところと言いたいんですけどね。
 正しく唱えるとは、正しく「南無阿弥陀仏」と称えるという意味です。

>何とも自力っぽい話ではないでしょうか?。

 自力ではいけませんか。世の中に、いきなり他力になれる人はいない。自力は駄目、他力でな
ければだめ、そんなこと言っていれば、誰も救われない

>自分のほうから御本願に手をかける、とはこういうことか・・・と感じた次第です。

 いけませんか?
 自分のほうから御本願に手をかけるそんな人を救うはずがない。自分のほうから御本願に手を
かけるような奴まで救うなどと、そんな凄い仏様がいるわけない。自分が知っている仏様は、自
分のほうから御本願に手をかけない人だけだ。それ以外の仏様などいるわけない。まあ、貴方は
そんな風に疑っているんでしょうね。

 果遂の誓い、真に故あるかな。自分のほうから御本願に手をかけるような人でも、念仏さえ称
えていれば、必ずや必ずや、いつかはきっと救ってみせる。私たちはその果遂の誓いを信じて称
えていくだけなんですよ。

>二人だけとは?
     ??

>何とも言えず違和感のようなものを感じます。
    なるほどなるほど。感性は十人十色でしょう

676 :298:2007/12/22(土) 00:33:03 ID:ec1utiD/
>>672
>どこかに自障障他がありましたか?

ほぼ全てがそうだと思って下さい。また、レスします。

677 :神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 00:53:39 ID:JVHouu7v
仏教宗派って、それぞれ魅力感じるんだけど、
日蓮系と浄土真宗だけは駄目だな。(浄土宗は好き)
浄土真宗って何か戒律あるんすか?
あと、あの門主っつうんすかい?
何、あの世襲?
あの一族養う為にある教団の様な気がして仕方ない。
仏教(?)で世襲はもう駄目だろ・・・

678 :298:2007/12/22(土) 01:28:08 ID:ec1utiD/
>>672
>ところで、わかったつもりになっているとは、 どなたのことを仰っていますか。

渡海様のことです。
ですけれども、お返事読む限りでは、自障障他をお続けになるつもりのご様子。
私が有縁の方に望みますのは、彌陀の本願に救われて欲しいということです。

679 :神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 02:48:03 ID:l7Cr3KJ5
677
どこに魅力感じる?

680 :298:2007/12/22(土) 02:50:47 ID:ec1utiD/
>>672
>わからないとわかるとは、どなたのことを仰っていますか?。

「わからないとわかる」のは、宿善のある方です。
御文様を幾度も読み、「これは読むだけではわからないのだ」とわかり、
尋ね始めます。
南无阿弥陀仏


681 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 13:06:49 ID:GEWpRArz
>>676
>>どこかに自障障他がありましたか?
>ほぼ全てがそうだと思って下さい。

 全くもう、渡海難は人格最低。自分(298)は、自障障他など絶対しないのに、渡海難は、一
から十までほぼ全てが自障障他。最低だ。

>>678
>>ところで、わかったつもりになっているとは、 どなたのことを仰っていますか。
>渡海様のことです。

 全くもう、渡海難は人格が最低。何も分かってないのに、わかったつもりになっている。自分
(298)は、渡海難と違って、分かったつもりになどにはなってないぞ。だからこんなに素晴らし
い。渡海難はほぼ全てが最低だ。

>お返事読む限りでは、自障障他をお続けになるつもりのご様子。

 渡海難は、自障障他を続けるようだ。自分(298)には決して自障障他などはない。見てくれ、
自分(298)はこんなに立派だ。渡海難は自障障他ばっかりだ。渡海難はまったくもって最低だ。

>私が有縁の方に望みますのは、彌陀の本願に救われて欲しいということです。

 少しでも有縁の方は、どうか渡海難のような馬鹿にはなりませんように。むしろ私(298)を
見て下さい。私(298)はこのように立派に彌陀の本願に救われ、とても立派な人間です。私
(298)のようなこんな立派な人に少しでもなって欲しいということです。

682 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 13:08:08 ID:GEWpRArz
>>680
>「わからないとわかる」のは、宿善のある方です。

 渡海難は宿善がないから、自分(渡海難)が分かってないことを知らない。まったくもってほ
ぼ全てが自障障他だ。それに比べ、自分(298)はこんなに宿善がある。みてください。私
(298)は御文様を幾度も読み、「これは読むだけではわからないのだ」とわかった。自分はわ
からないと立派にわかったから、知っている方に立派に教わり、このように立派な真実信心をい
ただきました。見て下さい。自分(298)は素晴らしい人間である。素晴らしい信心のある人間
である。渡海難は、まったくもってほぼ全てがが悪い。

 渡海難は、何一つ分かってないのに、それすら知らない。渡海難はそれを知っている方に教わ
らない。どれほど流転しても渡海難は真実信心をいただくことは叶いません。渡海難は、信心が
ない。人格が悪い。渡海難を見習ってはいけません。私(298)を見て下さい。自分(298)はこ
んなに素晴らしい人格者である。こんな素晴らしい信心者なのである。渡海難を見習ってはいけ
ません。私(298)を見て下さい。

 298は何が言いたいんだ?。自分(298)の方がお前(渡海難)より上だと言いたいのか??

 298がどんな感想を持ってもそれは自由だが、これが妙好人の話とどんな関係があるの?

683 :298:2007/12/22(土) 13:17:48 ID:CkSYRquC
>>681, 682
渡海様が書き込まれているのは、私の文章に対する、うがった解釈でしょう?
そのようにして、まわりの方のことば、ご聖典の文章に、耳を傾けてこなかった
生き方の結果が現れているのです。
「読めども読めず」その姿が、はっきりと現れています。
私は批難されても、構いません。しかし、法を批難させてしまえば、
渡海様のためにならないと、私たちは信じているのです。
そのための掟であり、それであるが故に、肝心のことはお話するわけには
参らないのです。
また、今晩お返事致します。

684 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 13:44:00 ID:GEWpRArz
>683
>渡海様が書き込まれているのは、私の文章に対する、うがった解釈でしょう?

 うがった解釈か、真っ当な解釈か知らんが、枝葉の議論ではなく、根元の議
論をしてほしいものだ

>>670 妙好人とどんな関係があるのか?。話はどこに起点があったのか。妙
好人の話は、単なる枕詞だったのか。枕詞なら、それはそれで対応する。

 妙好人の話がどうなっているのか?。僕に向けて自障障他の人格攻撃をするの
は勝手だが、自障障他の人格攻撃なら僕は相手をしない。
 まともな話をしようというなら、話の本筋をはっきりさせてほしいものだ。

685 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 14:05:34 ID:GEWpRArz
>> 683-684は無視して欲しい。撤回だ!!

>>683
>しかし、法を批難させてしまえば、渡海様のためにならないと、
   僕を何かリモコン操作しようとしているのか? 気持ちの悪い奴だ。

>私たちは信じている
   どこのどういう集団だ? 気持ちの悪い奴だ。

>そのための掟
   どこの掟?。  気持ちの悪い奴だな

>それであるが故に、肝心のことはお話するわけには参らないのです。
   人に見せないいろんなものを腹に隠しているようだ。  気持ちの悪い奴だな

>今晩お返事致します。
 以後、僕は貴方と話をしない。返事無用。>> 683-684は無視して欲しい。
 気持ちの悪い得体の知れない貴方とは、僕は話をしない。これは自己防衛だ。

686 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 14:08:35 ID:GEWpRArz
>>685
誤 >> 683-684
正 >> 681-682, >> 684

687 :7:2007/12/22(土) 14:09:39 ID:joOUlMXB
掟とか お話しするわけにはいかない肝心なことって 浄土真宗と関係あるの?

親鸞聖人は肉食妻帯されて、戒律を破られた。
誰にでも話すわけにはいかない秘密があるなどと言って土蔵秘事を行った、息子善鸞を勘当された。
これだけ分かりやすく親鸞聖人が示していただいているというのに。

688 :神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 16:37:41 ID:CpWLAlij
誰にでも話す訳にはいかない秘密があるなどど言って土蔵秘事(見様見真似の偽造秘事)を行なった
息子を勘当したとしたら、というふうにも解釈できるのでは?深いですなぁ。

298さんは(念仏行者)=妙好人ですよ完璧に。これほど熱心な方はそうはいないと思います。


689 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/22(土) 20:45:37 ID:GEWpRArz
>688
> 298さんは(念仏行者)=妙好人ですよ完璧に。

 そうかねぇ?

 念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり(善導・教行信証)

 妙好人には、完璧な妙好人も非完璧な妙好人もいない。いるのは単に妙好人。
 念仏する者は妙好人。信心があっても、無くても、念仏する者は妙好人。馬鹿でもちょんで
も、念仏する者は妙好人。善人でも、悪人でも、自損損他するひとでも、念仏する者はみな妙
好人。善導は、念仏する人を、人中の好人なり、人中の妙好人なりという。だから、渡海難も
妙好人。信心がなくても、あっても、馬鹿でもちょんでも、渡海難は、念仏するから、その一点
で妙好人。人中の好人なり、人中の妙好人なり。善導大師は渡海難を、そう言ってくださる。

>念の数を数えることは、凡夫にはできません。(>>459 名前:298 )

 298さんが念仏を称えている人とは、僕には思えんなぁ。
 念仏を称えていたなら、>> 459のような発言は出ないだろう。妙好人ではないだろうと思うよ。


690 :298:2007/12/22(土) 20:53:08 ID:eLof3Zl/
浄土真宗に関心のある全ての方にとり、重要なニュースであると思います。

親鸞:「教行信証」自筆本に未知の書き入れ
http://mainichi.jp/select/today/news/20071222k0000m040167000c.html

私もとても興味が有ります。

691 :298:2007/12/22(土) 20:55:43 ID:eLof3Zl/
>>687
7様は、以前の7様と、同じ方ですか?
掟については、御文様にいくたびも書いてありますし、改悔文にも
書いてございます。
あるいは、蓮師を認めない方でしょうか。

692 :神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 22:29:35 ID:dLlVdoln
妙好人でなくとも必ず救うの南無阿弥陀仏

無量寿経-十八願-法蔵菩薩

十八願成就文-彌陀同体の釈尊(五徳瑞現)

弥勒名号付属(弥勒が仏になった時、阿弥陀仏の救いを説く→彌陀の名号法の永遠性)

観経-阿弥陀仏(住立空中尊)「除苦悩法…」と釈尊説示に応じて出現
阿弥陀仏の名号は南無阿弥陀仏(下品上生説示時)
→十八願成就

阿弥陀経-阿弥陀とは光寿無量の意(十二・十三願成就

六方諸仏讃嘆(十七願成就

南無阿弥陀仏

693 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 01:55:17 ID:d+95xntM
改悔文?

694 :298:2007/12/23(日) 02:02:43 ID:5krfDkGl
>>693
「改悔文(がいけもん)」は、「領解文(りょうげもん)」とも呼ばれます。
どちらの名称にも、深い意味があると私は考えています。
検索エンジンで調べれば、全文が読めると思います。

695 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 02:05:25 ID:deuTDfjx
妙好人には、完璧な妙好人も非完璧な妙好人もいない。いるのは単に妙好人。
 念仏する者は妙好人。信心があっても、無くても、念仏する者は妙好人。馬鹿でもちょんで
も、念仏する者は妙好人。善人でも、悪人でも、自損損他するひとでも、念仏する者はみな妙
好人。善導は、念仏する人を、人中の好人なり、人中の妙好人なりという。だから、渡海難も
妙好人。信心がなくても、あっても、馬鹿でもちょんでも、渡海難は、念仏するから、その一点
で妙好人。人中の好人なり、人中の妙好人なり。善導大師は渡海難を、そう言ってくださる。

うんにゃ違います。第十八願の真実信心(至心・真楽・欲生・の三信)を如来より賜った人を妙好人というのです。空念仏の人を妙好人とは
いいません。このことの意味は聞いた人にしか理解できません、そして渡海さんはまた愚痴るのでしょうよ、無理もありません、それが普通でしょう。

教行信証の初めに、(いくど生を重ねても遭わせて頂くことは困難であり、真実の清らかな信心は永遠のときをかけても、
                  (十八願)           (如来より賜る信心)               

うることはむつかしい。さいわいにして、この行と信とがえられたなら、遠く過去からの因縁によるものと、
                  (往相回向)(還相回向)       (宿善)         
                      
よろこびなさい。)     

  



696 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 02:10:12 ID:d+95xntM
ああ、領解文のことか。


あの横入りすみません、298さんに対して7さんが聞いてることと同じことを聞きたいんですが(私はS会退会者です)、

「真実の行」とか「人に言っちゃいけない大事なこと」とか「おきて」というのは
具体的に何を指すんでしょうか?よければここに書ける範囲で教えてほしいのです。
(人に言っちゃいけないことは、言っちゃいけないくらいだから書くのはたぶん無理でしょうが。あと、
もしかしたら、人に言っちゃいけないこと・善知識から直接教えてもらうこと=示談・善知識との一対一のやり取りのことでしょうか?)


というのもS会出身者には「秘密にしてるものがある=土蔵秘事」という頭があるもんで。
(なぜならS会では教義面では「善鸞のような秘密の教えは間違っている」としているし、
また、S会の源流であるK会では、示談の場面についてさえも、発行している本の中で明確に書いている。
なのでS会出身の人は、秘密主義=あやしい、と思ってしまう。7さんもそんな感じじゃないでしょうか?)


298さんは言ってることがしっかりしておられる感じなので、その298さんがおっしゃっている[大事なこと]の具体的な中身が知りたいです。

どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m

697 :298:2007/12/23(日) 02:32:45 ID:5krfDkGl
>>696
蓮師は不信を問うことを奨励していらっしゃいます。
おかしいと思う事があれば、問うのが良いことです。
次第相承の善知識は、そのような仕組みにより、
尋ねる方を待っていらっしゃいます。
これにより、掟がありながらも、宿善の機は、
おのずから信に至るのです。
次第相承の善知識の説法を十年聞いていても、
尋ねぬ方は、それを知ることがありません。
「真実の行」とは「南无阿彌陀佛」です。
「掟」には、いろいろありますが、肝要なものは、「当流のすがたを
見せるなかれ」「正雑二行の沙汰をするなかれ」です。
(掟自体は、公開されています。御文様で読めます。)
誹謗正法について、散善義に「未造業」とあるでしょう。
衆生は掟により、守られているのです。
「示談」云々は、違います。また、「示談」というのは、本来そのような
意味ではありません。
あくまでも、法談に対するものであり、「信心の沙汰」と一緒です。
ただしこれは、恐いもの(いわゆる「詰める」ようなもの)ではありません。
そのようなものであれば、そこに正信はないと思って下さい。
また、示談で信は取れません。
「秘密にしてるものがある=土蔵秘事」とのことですが、
S会では、御文様は読まないのですか?
「秘密にせよ、秘密にせよ」と、しつこいくらいに書いてあります。
正法が公開されているのであれば、なぜ、誹謗正法が「未造業」になるの
でしょうか?
また疑問があれば尋ねてください。書ける範囲で書きます。
また、2chに限らず、「真実信心」や「極楽往生治定」「信決定」などの
表現で検索されて、いろいろな方の意見も読んでみてください。

698 :298:2007/12/23(日) 02:34:36 ID:5krfDkGl
>>695
本願聞かれている方でしょうか。
日々、「うたた難し」を実感しております。

699 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 02:40:53 ID:d+95xntM
>566 :298:2007/12/09(日) 10:59:51 ID:kN7YKFOI
>>>>564
>そういうことであれば、774さんは、法に出会うこと叶わなかったので、自分で自分を納得させた、
>ということになると思います。(その意味では、565の方も同じです。)
>しかし、こういうことを言われても、おもしろくないでしょう。
>ですので、私の書き込みも、そろそろやめようと思います。

もう一つ疑問があります(連続ですみません、これで最後です)。
564・565の書き込みを読んで私は、このお二人も他力信心を得た方にように思ったのですが、
298さんは、自分で自分を納得させた、と書いておられます。

564・565の書き込みのどこを読んで、そう判断されたのですか?
自力他力の水際(これはS会用語?)が含まれていると思ったので、ぜひお聞きしたいと思いました。

どうも、連続質問ですみませんが、よろしくお願いいたします^^


700 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 02:57:12 ID:d+95xntM
1つ目のレスありがとうございます。

>次第相承の善知識は、そのような仕組みにより、尋ねる方を待っていらっしゃいます。
これにより、掟がありながらも、宿善の機は、おのずから信に至るのです。

ううん、やはりそういう善知識というのは、ひっそりと待っておられるのですね。

>「真実の行」とは「南无阿彌陀佛」です。>「掟」には、いろいろありますが、肝要なものは、「当流のすがたを
見せるなかれ」「正雑二行の沙汰をするなかれ」です。

ありがとうございます。このおきては、確かに御文章かなにかで見たと思います。

>あくまでも、法談に対するものであり、「信心の沙汰」と一緒です。>また、示談で信は取れません。

では、何によって信を取ることが可能なのでしょうか@@???

>「秘密にしてるものがある=土蔵秘事」とのことですが、>S会では、御文様は読まないのですか? >「秘密にせよ、秘密にせよ」と、しつこいくらいに書いてあります。

S会でも御文章は読みましたが「うしぬすびとといわるるとも・・・」のところを、
「これは現代にそぐわないもの。蓮如上人の時代には、真宗者だと知られただけで命の危険にさらされたから、秘密にしなさいと言われたんだよ」
と聞かされました。それでけっこう納得してたのですが・・・

>また疑問があれば尋ねてください。書ける範囲で書きます。>また、2chに限らず、「真実信心」や「極楽往生治定」「信決定」などの
表現で検索されて、いろいろな方の意見も読んでみてください。

アドバイスありがとうございます。調べてみます。

701 :298:2007/12/23(日) 02:58:25 ID:5krfDkGl
>>699
まず、根本的なことから書きます。
「他力」というのは、もともとできない相談なのです。
私たちひとりひとりは、「自分」なのですから、
何をやったって、どう考えたって、どう思い込んだって、
自力になるはずです。
それなのに、なぜ皆が、「他力」「他力」というかわかりますか?
それは、用語を丸暗記しているからです。
ですから、「他力」と言うだけで、他力信を獲ているかはわかりません。
564では、弥陀をたのんでいません。
565でも、弥陀をたのんでいません。
知っている方にとっては、簡単にわかることなのです。
御文様を繰り返し読んで下さい。凡夫でも、わかるように書いてあります。
「知っている人に聞け」と書いてあります。
ご聖教が最高ですが、読んでもわかりません。
また、尋ねるを最後にするのは、決して良い態度ではありません。
「あまり尋ねるのは失礼である」というのは、世間の価値観です。
当流では、「大火を過ぎてでも聞け」と申します。
戸は開くまで叩かねば、開きません。掟を超えて、聞かねばなりません。
「聞き抜け」というのは、この意味です。
だまって聞くのではありません。尋ねるのです。
凡夫が佛になるほどの一大事。何を遠慮することがありましょうか。
南无阿彌陀佛

702 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 03:10:06 ID:d+95xntM
298さん
2つ目のレス、ありがとうございました。

>564では、弥陀をたのんでいません。
>565でも、弥陀をたのんでいません。

むむむ・・・そうなんですか・・・
私には見分けがつきませんでした。

「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」というような言葉があったのを思いだしたのですが、この言葉から見ると、
564・565は、弥陀まかせというか、「たのまなくても向こうが助けてくれる」というニュアンスを感じました。
ポイントはここなのかなあ?弥陀をたのむというのも向こうから、ではなくて、やっぱりこっちから「後生の一大事をこころにかけよ」という。

分からないことばかりですが、このスレ応援してます。


703 :298:2007/12/23(日) 03:13:44 ID:5krfDkGl
>>700
>>また、示談で信は取れません。
>では、何によって信を取ることが可能なのでしょうか@@???

このように問われるということは、「信は示談によって取る」という
先入観があるということでしょうか。
正行とは何ですか。
『一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、
四には称名正行、五には讃歎供養正行なり』(選択集)
どこに示談があるでしょうか。
さらに、正雑があり、正助があり、雑専があります。
しかし、難しい教義を学ぶ必要はありません。
信を穫るには「南无阿彌陀佛」以外にはありません。
そう言われても、意味がわからないでしょう。ですから尋ねねばならぬのです。
「南无阿彌陀佛とは何か」のことを、「六字の謂れ」あるいは
「南无阿彌陀佛の謂れ」と申します。
この六字の謂れを聞き開かねば、信を獲ること叶いません。

>これは現代にそぐわないもの
とのことですが、掟については、蓮師はわかりやすく書いただけで、
七祖聖教にも見えますし、親鸞聖人も書いています。
これは、おわかりでしょう、「掟がある」というだけで、
誹謗されるからです。

>アドバイスありがとうございます。調べてみます。
本当に、さまざまな意見があります。何を正意と感じられるかは、
宿善次第です。あなた様が正法に辿り着かれることを願っております。

南无阿彌陀佛

704 :298:2007/12/23(日) 03:28:27 ID:5krfDkGl
>>702
>「後生たすけたまえと弥陀をたのめ」というような言葉があったのを思いだしたのですが、この言葉から見ると、
>564・565は、弥陀まかせというか、「たのまなくても向こうが助けてくれる」というニュアンスを感じました。
>ポイントはここなのかなあ?弥陀をたのむというのも向こうから、ではなくて、やっぱりこっちから「後生の一大事をこころにかけよ」という。

御文様をご拝読していらっしゃいますね。それによって、守られていると思います。
専修にして雑心である方は、自障障他の働きをなさいます。
御文様をご自分で音読すれば、蓮師の説法をご聴聞できます。
学ばれていると思いますが、そもそも御文様は、読み聞かせるためのものです。
ただ、「後生の一大事をこころにかけよ」ではありません。
あくまでも、「なにのわづらひもなく、ただ一心に弥陀をたのみ、
後生たすけたまへとふかくたのみまうす」のです。
そう言われても、わからないはずです。ですから、ここは自分で解釈する場所では
ないとわかり、「自分では無理だ」とわかって、知っている人に聞かねばならぬのです。
本当は、「他力」と言われても、わからないはずなのですが、
短いことばなので、わかったつもりになりやすいですから、
蓮師はさらに長くしてくださいました。すると、どうなったかと言いますと、
今度は無視されるようになりました。
そこを無視せずに、どうか幾度も、御拝読してください。

705 :7:2007/12/23(日) 06:38:40 ID:aISsR2yv
>>690 700ヶ所もの角筆!!(こんな言葉も初めて知ったわけですが)教行信証の解釈が覆る可能性もあるとは・・・?!
     凄いニュース、ご紹介ありがとうございました。

>>691  確かに御文章には掟という言葉は出てきますね。

>>696 全くその通りです。

>>697 えっと・・・未造業って何ですか?仏教用語の基本かも知れないのですが聞いたことがなかったので是非教えてください。
     お願いします。

>>704 なるほど・・御文章を繰り返し読みたいと思います。

それにしても真実信心とは何か、ますます自分には分からないことが分かってきました。
念仏を唱えていても信心のないものは化土往生する、と和賛にあるようですが、実際どうなんでしょうか?
かなり弱気になってきました。
やはり浄土真宗は極楽か地獄か、二つに一つの後生なのでしょうか?

706 :298:2007/12/23(日) 07:43:35 ID:5krfDkGl
>>705
7様、これは本当にすごいニュースであると思います。
発見者の方のお名前は、真宗史に残るでありましょう。
親鸞聖人からの、時を超えたメッセージは、今の時代の我々に届くのであります。
そして、「未造業」とは、むずかしいことではありません。
「いまだ造らぬ業」という、それだけのことです。
それでも、仏法を誹謗することは大きな罪になりますので、
誹謗させないために、おっしゃっているのです。
そもそも、仏法に興味の無い方は、「仏法を誹謗することが罪」などと
知りません。
たとえそう聞いたとしても、「仏教者が己を守るために言っていること」程度に
思って、気にしないでありましょう。
「知らないから罪を犯すのも自業自得」と放っておくのではなく、
仏教では、知らない方をも守ろうとするのです。
また、「秘密」というのは、あくまでも流布語です。
価値がわかって尋ねる方(宿善の機)には、すべてを明かすのですから、
いわゆる秘密とは違います。
単なる興味本位の方に伝えたならば、言った途端にご自分の批評を加えることが
わかっていますから、そのようなことはしないのです。
それほど、本願とは信じられないものなのです。

707 :298:2007/12/23(日) 07:45:22 ID:5krfDkGl
>念仏を唱えていても信心のないものは化土往生する、と和賛にあるようですが、実際どうなんでしょうか?

本当のところの実際は、わかりません。
ただ、化土往生は、一万人にひとりもできないのです。
念仏唱えるのは、化土往生のためではありません。
三願転入して、十八願に導かれるためです。
弱気になることもありません。
このスレッドを見ていても、ここ日本には、正信いただいている方が
複数いることがわかるではございませんか。
私も御開山一流が脈々と生きていることを知り、
インターネット時代に感謝しております。
次第相承の善知識に逢い奉り、六字の謂れを聞き開いて、一心に弥陀をおたのみ
もうせば、いとも簡単に信心決定するのです。
そう聞いて、それを望む方は、宿善がある可能性があるのです。
このスレッドの246にもすごく良いことが書いてありますので、ぜひ読んでください。

708 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 09:39:40 ID:v+JIsc+f
>691
 >685は過剰反応だったようです。掟という概念を蓮如のお文から導くというなら、その気
持ちは分からないではない。しかし、もしそうなら、貴方の考えは聖教の読み方を間違えて
いるんだろうと思う。

 とりあえず>>683内の、
 「まわりの方のことば、ご聖典の文章に、耳を傾けてこなかった生き方の結果が現れてい
るのです。「読めども読めず」その姿が、はっきりと現れています。」

 こんな不躾、無礼な言葉だけは貴方に返しておこうと思う。


709 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 09:46:02 ID:v+JIsc+f
>>695
>そして渡海さんはまた愚痴るのでしょうよ、無理もありません、それが普通でしょう。

 お前(渡海)のいうことは聞きたくない。お前(渡海)のいうことはどうせ愚痴だ。まあ、そう
いうなら聞かなければいい。目と耳とを塞いでおけ。後学相続に疑惑のないように、僕はきちんと
説明だけしておこう。耳のある人は聞いておいて欲しい。親鸞仏教の根幹に関わる大原則だ。

 無量寿経の四十八願の中に説くがごとし。仏の言わく、「もし我成仏せんに、十方の衆生、我が
国に生まれんと願じて我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じてもし生まれず
は、正覚を取らじ」と。これすなわちこれ、往生を願ずる行人、命終わらんとする時、願力摂して
往生を得しむ。かるがゆえに摂生増上縁と名づく(観念法門 行の巻引用)。

>うんにゃ違います。第十八願の真実信心(至心・真楽・欲生・の三信)を如来より賜った人を妙好
人というのです。空念仏の人を妙好人とはいいません。このことの意味は聞いた人にしか理解でき
ません。

 善導は、第十八の願を書き直している。元の十八願を示そう。
 たとい我、仏を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。
もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。

 善導は、「唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」を削除した。「心を至し信楽して我が国に生まれ
んと欲うて、乃至十念せん」を「我が名字を称すること、下十声に至るまで、我が願力に乗じて」
という言葉に変えている。善導はこうして、「願力摂して往生を得しむ」という。

710 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 09:46:45 ID:v+JIsc+f
 往生の因は何か。仏道修行者の仲間に入るとはどういうことか。善導以前は、持戒持律が仏道修
行者の条件だった。これに対し善導は、戒律以外の仏道参加の道の必要性を感じた。戒を守れない
人に仏道参加の道を開いた。それが称名念仏だ。だからこそ、至心・信楽・欲生という、見えにく
い心理的な条件を外した。唐仏教の最高権威者として、末法の世が始まる時期に釈迦を代理し、末
法の時代に向けて経典を書き直した。客観的に把握できる称名念仏を仏道修行者の仲間に入る条件
とした。声に出す念仏を極楽浄土往生の因として定めた。

 この善導の書き直し後の言葉が、真宗教学上、いかに大事な言葉かは、教行信証の後序で見えて
くる。

 同じき日、空の真影申し預かりて、図画し奉る。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真
筆をもって「南無阿弥陀仏」と「若我成仏十方衆生 称我名号下至十声 若不生者不取正覚 彼仏
今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまう。 〜 これ専念
正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。仍って悲喜の涙を抑えて由来を縁を註す。

 二十九歳で比叡山を中退し、三十五歳で法然と別れた親鸞は、遂に師匠から見証、印可を得るこ
とがなかった。そんな親鸞が人々に法を説くことができる有資格者であるという根拠は、法然の選
択集を書写し、法然の真影を書き、法然から真筆をもって真文を書いて貰ったという事実による。
その時の真文がこの「下至十声 若不生者不取正覚」という善導の言葉だ。

 至心・信楽・欲生乃至十念を称我名号下至十声に変え、これをもって極楽浄土往生の因とする。
善導の主張はゆるぎないものであり、この思想が法然・親鸞思想の根源にあることは決して忘れて
はいけない。

711 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 10:16:06 ID:v+JIsc+f
>>707
>このスレッドの>>246にもすごく良いことが書いてありますので、ぜひ読んでください。
   <苦笑>

> 本当のところの実際は、わかりません。 ただ、化土往生は、一万人にひとりもできないので
す。念仏唱えるのは、化土往生のためではありません。

 まあ、貴方の言うことはなんでもいいや。「正信いただいている方が複数いることがわかっ
た」というのもいい。一つ一つ反論するつもりはない。貴方の見当違いの発言に当方がやや過剰
反応しすぎたということも、徐々に分かってきた。要するに貴方は仏法が分かってないだけだ、

 貴方がどこの誰を師僧としているか知らんが、あなたはその師僧を変えた方がいい。言ってい
ることが無茶苦茶だ。「ご聖典の文章に、耳を傾けてこなかった生き方の結果が現れているので
す。『読めども読めず』その姿が、はっきりと現れています。」 という言葉は、貴方は貴方の
師僧にぶつけ、師僧を変えなさいな。他人に説法をするのは、仏法が分かってからにしたらど
う?。素朴な提案です。

712 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 10:51:25 ID:v+JIsc+f
>信心かけたる行者は、本願を疑うによりて、辺地に生じて、疑いの罪を償いて後、報土の覚りを開くとこそ、
承り候え。信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候を、ついに虚しくなるべしと候なるこそ、如
来に虚妄を申しつけまいらせられ候なれ。

>ただ、化土往生は、一万人にひとりもできないのです。

 信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候 〜 如来に虚妄を申しつけまいらせられ候。

 聖人の仰せの候いし趣をも、申し聞かせまいらせ候

 我も人も空言をのみ申しあい候中に、一つ痛ましきことの候なり。そのゆえは、念仏申すについて、信心
の趣をも、互いに問答し、人にも言い聞かするとき、人の口をふさぎ、相論を戦いかたんがために、全く仰
せにてなきことをも、仰せとのみ申すこと、浅ましく、嘆き存じ候なり。

713 :263:2007/12/23(日) 11:05:07 ID:deuTDfjx
298さんいつもみています。

  263です、私がこのレスに書き込みした番号です>>235 >>246 >>263 >>311 >>346 >>486 >>487 >>488 >>688 >>695

です。一応知らせときます、正直渡海さんはうざいです、このような方は考え方を変えないでしょう。
 
  わたしからすれば298さんは無茶苦茶なことは言ってません、渡海さんは普通の表面上の仏教信者でしょう。

  298さんは念仏行者です、その違いです。他にこのようなレスはありません、貴重だと思います。

  298さん念仏行者はその身に不思議を体験される方が非常に多いです。話せる範囲でいいので何かありましたか。

  私は常に不思議につつまれていることを実感し非常にこころ強く生活してます。

  

  

714 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 11:22:44 ID:DlVrIlhG
>>713
平日から仕事もしないで2chで長文ばかり書いてる中年オヤジは無視しましょう。

715 :263:2007/12/23(日) 11:37:32 ID:deuTDfjx
  『径』(大品般若径・意)にのたまわく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕してつぶさに一劫の重罪を受く。

 正法を誹謗する人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽きぬれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。

 かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄をへる」と。仏(釈尊)、出ずることを得る時節を記したまわず。誹謗正法の罪

 きわめて重きをもってのゆえなり。また正法はすなわち仏教なり。この愚痴の人すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に生ぜん
 
 と願ずることわりあらんや。たとひだだかの土の安楽をむさぶりて生ぜんと願ずるは、また水にあらざる氷、煙なき火を求むる

 がごとし。あにことわりを得ることあらんや。

    問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。

 答えていはく、もし仏なく、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。

 かくのごとき等の見、もしは心にみずから解し、もしは他に従ひて受け、その

 心決定するをみな正法を誹謗すと名ずく。

716 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 11:42:47 ID:A3NT1qFz
キリスト教にも他の宗教の信者の中にも妙好人はいくらでも存在する。
ようは、人間より高次な存在を受け入れ、信じ、エゴが神的存在により変容し、無我的になり、神と共に生きている人々のことだろう。

717 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 11:47:45 ID:v+JIsc+f
 再掲します。

 2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
 集合場所、東京・新宿駅
 近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会

 12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。

 これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
 何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。

 集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
 集合者がゼロなら中止。
 なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。

 詳細は後日

  tkatasi@mail.goo.ne.jp


718 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 12:07:36 ID:P5hv+a10
>298さんにはなんだか親鸞会と同じ自力臭さを感じるんだよね
浄土仮宗ってかんじ
ただ浄土真宗だけをといていても真実には到達できないから
その存在は否定すべきではないってことになるんかな、あんまり賛同したくないのだが。
だけど、自分は弥陀ではないから仮を教えるのが真宗の役目と自負されて
おられるとしたら、何かまた顛倒している状態を生みそうでこわいのよね
298さんに違和感をかんじるのは仮なるものを自負しているという一点に尽きるかも知れない。

>>654
>ご法義の風邪
遅レスで、とうみさんと被るかも知れませんが・・・。お返事をば。

恐れながら言ってみたいと思いますが、
ときどき阿弥陀如来というものが重荷になるときがあります
自分とはまったくちがう異質な何かというふうな感覚におちいることが
あるんですが、なぜか嫌いにならない、なれない。(まあある種嫌いな面もあるんですが)
病気というのは、異質な何かが体の中に入り込んでくる現象というか症状ですよね。
病原菌は好きにはなれませんし、咳はつらいものですが
阿弥陀仏という病原菌はありがたく、症状である南無阿弥陀仏の咳もありがたい。
というようなことではないでしょうか?


719 :774:2007/12/23(日) 13:21:50 ID:OPjTP6BN
少しだけ
>711-712に関しては、渡海さんの仰る通りだと思いますね。お聖教の通りです。
何かしらの公にできない秘密の伝承があって、
特殊な「個」としての善知識が脈々と浄土真宗を継いでいるとするなら、
その開祖は秘密主義者であって、およそ仏教とは言えない、
何か「めづらしき法」を伝える人なのでは?
仏法を煩悩に使わせ、自分の感激やら感動に従属させれば、
他力は自ずと自力になりますね。仏意以外の雑物が入ってしまいますから。
つまり、何かしらの秘伝があるとみなしていること自体、
はからい=自力が混在している信心であると言えないでしょうか。
私ゃひょろひょろ中身は空っぽ
本願力にて往生す
(稲垣瑞劔師)

720 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 13:56:28 ID:qV0zRTzK
 再掲します。

 2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
 集合場所、東京・新宿駅
 近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会

 12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。

 これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
 何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。

 集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
 集合者がゼロなら中止。
 なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。

 詳細は後日

  tkatasi@mail.goo.ne.jp

721 : ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/12/23(日) 13:58:55 ID:qV0zRTzK
     _____
   /::::::::::::::::::::::::::\                  _
  /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\            /  ̄   ̄ \
  |:::::::::::::::::|_|_|_|_|           /、          ヽ はぁ?誰がお前なんかと飲むんだよ?
  |;;;;;;;;;;ノ   \,, ,,/ ヽ          |・ |―-、       | 
  |::( 6  ー─◎─◎ )          q -´ 二 ヽ      | 一人で勝手にやってろ、キモオタ!
  |ノ  (∵∴ ( o o)∴)          ノ_ ー  |     | 
/|   <  ∵   3 ∵>          \. ̄`  |      / 
::::::\  ヽ        ノ\           O===== |
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::\       /          |

722 :774:2007/12/23(日) 18:36:29 ID:OPjTP6BN
坂東本の新発見はすごいですね。果たして、親鸞聖人の手によるものなのか?
親鸞聖人のものならば、その内容とは何か?期待が膨らみますね。
>701
あなたの論理からすれば、何を思ったり、何を知ったりしても皆自力。
ならば、私は信心獲ていると思うのも自力。
何か、お聖教にない秘密の掟があって、
それを知っている人がいると思い込むのも自力。
自分はわかっていると自負するのも自力。
心が不思議な感じになりました、大安心の心境です、
往生間違いなしです、割賦がいきました等々、
皆自力でしょう。自分が思ったこと、知ったことをあてたよりにしているのですから。
自力的要素を削っていったら、最後に残るのは何でしょうか?


723 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 19:31:42 ID:v+JIsc+f
>>713
 こんなことを言いたいんじゃろう。補充してみました。

 298さんいつもみています。263です、私がこのレスに書き込みした番号です>> 235 〜 >> 695
です。一応知らせときます、 正直渡海さんは(、何かというといつも聖典をいちいち根拠に引用
して説明してくるので)うざいです、このような方は(聖典と常に照合しているんで、私らのように自
分のフィーリングで、自分の頭の中に涌いたことだけいいかげんな感じでほいほい言葉をぶつけ
てるだけの人は反論できません。私らには反論の余地がありませんから、決して)考え方を変え
ないでしょう。
 (自分の感じをいい加減に言っている)わたしからすれば(、同じようにいい加減に言ってい
る)298さんは(フィーリングで言っているんで)無茶苦茶なことは言ってません、渡海さんは
(その言葉が、親鸞聖人などの聖典とほとんど合致しているので)普通の表面上の仏教信者でし
ょう。(私らのように、自分たちのいいかげんな空想を口先で無茶苦茶にほいほい言っている人
と違います)
 298さんは(念仏の回数の数え方も分からないという)念仏行者です、(渡海さんは、そんな
こと、称え出せばすぐ分かるという、体験に立っている念仏者です)その違いです。他にこのよ
うなレスはありません、貴重だと思います。
 298さん(口から出任せを言う)念仏行者は(数え方も分からなくても)その身に不思議を体
験される方が非常に多いです。(そんなことは聖典に何も書いてありませんから)話せる範囲で
いいので何かありましたか。
 私は(聖典などは関係ありません)常に不思議につつまれていることを(ほんわかといい気分
で酔っていますから、これを)実感し非常にこころ強く生活してます。

724 :298:2007/12/23(日) 20:54:10 ID:vGZDbESB
>>713
なるほど、246も695も263様だったのですね。
不思議の体験は、あります。
しかし、このスレを見ていると、ただですらいろいろ言われてますので、
書くのをはばかられます。
信前のときのお導きでもいろいろありましたし、
何より凡夫が佛になるのは最高の不可思議ですし、
信後も、すごくありがたく生活しています。
易行ですから、皆様に信心獲て欲しいと思いますが、
なかなか難しいみたいです。
信心獲るよりも、自説が大切な方の方がはるかに多く、
弥陀をたのむよりも、自分で考える方が好きな方がはるかに多いのだと
思います。

725 :298:2007/12/23(日) 20:56:09 ID:vGZDbESB
>>722
>何か、お聖教にない秘密の掟があって、
>それを知っている人がいると思い込むのも自力。

もちろん、お聖教には、書いてありますよ。


726 :298:2007/12/23(日) 21:01:21 ID:vGZDbESB
>>719
秘密主義と対機説法を混同しておられますね。
釈尊も、無記だったりするではありませんか。
774様からすれば、「わからないから話さなかった」と思うのかもしれませんが、
私たちはそうは考えないのです。

727 :298:2007/12/23(日) 21:21:40 ID:vGZDbESB
>>712,719
法論するつもりはありませんが、どうして、そう断言されるのでしょうか。
有縁の方が勘違いされないように、参考に申し述べます。

◎雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし、と(往生礼讃)

◎あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや(選択集)

◎もし専修の者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし雑修の者は、百の中に或いは一両人の生ずることを得、千の中に或いは三・五の人の生ずることを得(楽邦文類)

◎しかるに自力の道は化益なお難し。故に見聞する所、現在の得益は未だその証を得ず。故に千が中にその一もなしというなり(六要抄)

「一万人に一人もいない」は言い過ぎだったかもしれませんが、現状は、
ご聖典が言うところの「雑行」もできていないと考えます。
少なくとも、「千人に数人くらいではないですか?」のような
つっこみになると思います。
化土往生できる人が千人に数人いるとして(私は今どきそんなにいるとは
考えていません)、それでも、化土に往生する人の方が多い。
つくづく、報土往生は難信である、という意味でしょう?
そう読めないことが不思議です。書いてある通りに読めば、
そうなると思います。



728 :298:2007/12/23(日) 21:22:07 ID:vGZDbESB
>>712
「如来に虚妄を申しつけまいらせられ候」というのは、
「化土に往っても滅度には至らない」と主張する人に対してでしょう?
化土にでも往けるのならば、往った方がいいに決まっています。
しばらく休息した後、きちんと滅度まで導いて下さいます。
化土と言っても、弥陀の浄土ですよ。とてつもなく、素晴らしいところで
あることに、変わりはありません。
ただ、化土往生は、難しいのです。
ですから、化土もすばらしいけれども、易行であり、
平生業成であり、100発100中の報土往生をおすすめくださって
いるのです。

729 :神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 22:05:06 ID:ZY28T/f0
必ず助けるの誓いが成就して南無阿弥陀仏になって、
今現在説法されていて、十方に名号を聞かせておられてるのだから、
阿弥陀仏は満ち満ちているんだよね。

南無阿弥陀仏は讃嘆だよね、まさに讃嘆。

730 :298:2007/12/23(日) 22:09:33 ID:vGZDbESB
>>723
念仏の数を数えることについて、こだわりがあるようですので述べます。
念にはいくつかの義がありますが、
「十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふのみ」
というときの「念」は、生滅の6060周期のことです。
数えられるなら、数えてみたらいいでしょう。
「間断なく十念相続するとは言っても、数を数えるためには、
そこで注意が別に飛んでしまうから、間断なくとは行かないだろう」
という質問に対して答えている箇所です。
この箇所の付近では、連続している文章の中で、
念の義が次々と入れ替わりますが、本当にきちんと読もうとしていますか?
申し訳ないですが、渡海様の「数える」とでは、
意味が違い過ぎます。
渡海様が言っているのは、念仏称える習慣をつけるために、
唱えた数を数えて行く、とか、そういうお話しでしょう?
それはそれで尊いことですが、だからと言って、
別の義で言っていることを、簡単に否定できる感性が自障の働きをします。
教義を知らずとも、一文不知でも救われるこの教えですが、
自障障他の徒から有縁の方をお守りするには、
教義について多少書くことも意味があることになるかと思い、書きました。
有縁の方には、「直接ご自分でご聖典におあたりください」と
申したいです。
(面倒であれば、御文様だけで十分です。)
2chで信が穫れることはありませんが、何かのご縁になればと願っております。


731 :298:2007/12/23(日) 22:13:16 ID:vGZDbESB
>>729
称名とは讃嘆です。間違いございません。
十方諸仏が称える御名号があることも、間違いございません。
満ち満ちているのは、弥陀の身光です。
摂取の心光は、念仏行者へのものです。


732 :263:2007/12/24(月) 04:28:22 ID:vnq2RWQ5
>>723こんなことを言いたいんじゃろう。補充してみました。

そのように解釈するのは非常に不愉快です。まあ2ちゃんですのでしかたありませんが。

298さん、そうですね無理なお願いでした。



733 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 05:17:03 ID:qVKY+noX
S会退会者です。298さんの言われるように御文章を読んでみたら、小さな発見がいくつかあったので書きます。
(読んだのは「御文章・ひらがな版―拝読のために―」本願寺出版)

1「信心決定したあとは称名念仏しなさい」としつこいくらいに勧めて下さっている。

2「『南無阿弥陀仏のいわれ』とは、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がお救いになること」と書いてある(「一切の聖教章」の冒頭部分)。
 つまり、帰命すれば、という条件(?)があるらしいこと(南無阿弥陀仏があるから何もしなくていい、ではない)。

3「帰命する」=「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、雑行をふりすてて、一心に後生を御たすけそうらえと、ひしとたのむ」こと

4 しつこいくらいに「阿弥陀仏に帰命するのが大事です」とお勧め下さっている。


わたしは教学はありませんが、しろうと目線で御文章を読んでみて、このスレで言われていることについて持っていた疑問が、少しずつとけてきたように思います。

734 :263:2007/12/24(月) 05:24:43 ID:vnq2RWQ5

 尊号真像銘文より

「大無量寿経言」というは、如来の四十八願を説きたまえる経なり。「説我得仏」というは、もし我仏を得たらんとき
という御言葉なり。「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、「至心」は真実
と申すなり、真実と申すは如来の御ちかいの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄
の心なし、○悪邪見のゆえなり、「信楽」というは、如来の本願真実にましますをふたごころなくふかく信じて疑はざれば
信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかい
の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって安楽浄土に生まれんと
思えとなり。「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまうに、偏数の定まりなきほどをあらはし
時節を定めざることを衆生にしらしめんとおごしめして、乃至のみことを十念のみなにそえて誓いたまえるなり。
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべし
となり。
    この真実信心を得んとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定衆の位に定まるとみえたり

「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生まれずはというみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓いたまえるみのりなり。
このこころはすなはち至心信楽を得たる人、わが浄土にもし生まれずは仏に成らじと誓いたまえる御のりなり。
この本願のようは『唯信抄』によくみえたり。
  
  「唯信」と申すはすなはち真実信楽をひとすじに獲るこころを申すなり。

「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というはただ除くという言葉なり、五逆の罪人をきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり
このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

これは親鸞聖人の考えではなく、親鸞聖人(権化の人)=如来のお知らせと私は受け止めています。


735 :263:2007/12/24(月) 06:27:12 ID:vnq2RWQ5
教行信証の初めに、(いくど生を重ねても遭わせて頂くことは困難であり、真実の清らかな信心は永遠のときをかけても、
                  (十八願)           (如来より賜る信心)               

うることはむつかしい。さいわいにして、この行と信とがえられたなら、遠く過去からの因縁によるものと、
                  (往相回向)(還相回向)       (宿善)         
                      
よろこびなさい。)     
             六字の謂れ
                 
               南 
     たのむ機(十七願)    願 (助け給え)
               無

               阿
                
    助ける法(十八願)  弥 行 (助けます)    

               陀

               佛                   
           
               ↓
               信
      真実の証(十一願)           
               心 

         如来二種の回向『南無(往相)阿弥陀仏(還相)』

  これら二つの回向は、阿弥陀仏の本願力によって生まれ変わるを往相回向・還相回向という。
  この願力不思議により衆生は瞬時に救われて生まれ変わるのである。この離れ業を願力不思議と
  いい、不可称・不可説・不可思議と現わすのです。
  

736 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 09:43:54 ID:ZM1iCuvS
>>727
>どうして、そう断言されるのでしょうか。

 「信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候」。
 「そう断言」の「そう」は、何を指しているのか分かりにくいのですが、断言しているのは歎
異抄の著者ですから、歎異抄の著者に質問をぶつけるほかありません。ただ、歎異抄の著者が
断言している気持ちは分かりにくいものではありません。

> 〜(往生礼讃)〜(選択集)〜(楽邦文類)〜(六要抄)
 
 法論するつもりはありませんが、どうしてとお聞きになっているので、こちらが理解している範
囲でお伝えしようと思います。親鸞仏教の極めて重要な問題です。ここで間違えると、親鸞仏教
はその入口を失います。

737 :渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 09:45:15 ID:ZM1iCuvS
 極楽浄土を真土・化土に分割するというのは、往生要集に菩薩処胎経を引用して解説している
と親鸞は言うものの、極めて緻密に議論したのは親鸞でしょう。事実上は親鸞の独創的な思想で
あると考えます。善導にも法然にもなかった。浄土真宗が、法然ではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ理
由の一つは、この化土観のオリジナル性により、親鸞思想が法然の枠内に決定的に入らないこと
によると考えています。したがって、善導や法然の著述を引用して親鸞がいう化土を議論するこ
とは筋が通りません。
 ただし、親鸞は化身土の巻に善導の著述を含めて多くを引用していますので、化身土の巻を通
じて善導からの引用部を読むということは正当です。貴方が引用した(往生礼讃)は化身土の巻
に引用がありますから、この範囲は当然考慮の範囲内に入ります。しかし、貴方が紹介している
選択集の一節、楽邦文類の一節は、化土を考える第一資料からは除外すべきでしょう。
 六要抄は存覚の著作です。親鸞の著作ではありません。親鸞のオリジナルの思想を把握する意
味で、あくまで教行信証の化身土巻にこだわり、それをテキストにし、次回に問題の本質を考え
てみましょう。ここはとても重要な議論です。
 
>「千人に数人くらいではないですか?」のようなつっこみになると思います。

 そんなところに突っ込むつもりはありません。

 なお、>>728 >>730 >>730 >>732 >>735 >>728については当方にも異論があります。いま
ここでコメントを出すと、恐らくまた貴方の方から反論が来て重要な化土の問題が混乱すると思
いますので、化土の問題を先行させたいと思います。

738 :263:2007/12/24(月) 10:29:17 ID:tpY40tPh
別にあなたの異論は聞きたくないけど、化土に関する話題に参加します、余計なお世話ですが。

739 :298:2007/12/24(月) 10:55:47 ID:E28HWesZ
>>733
ご自分で読まれることが、もっとも大切です。
ご聖典には、真実権仮がまざって出てきますので、読み間違えやすいのです。
そこで、蓮師は、ご聖典を繰り返し繰り返し読み、
掟を保ったままで、凡夫にもわかる記述を工夫されました。
聖教読んでもわからない凡夫が、御文を読むとわかります。
これにより、弥陀に救われる方が増えました。
素直に読めば、御文はわかるようになっています。

>>736
渡海様は、自説を補強するために、ご聖典を読むようになっています。
自力心で読み解くひとについても、ご聖典に記載があります。
しかし、ご自分の考えを文章にしておられますので、
いずれ、ご自分でご自分を検討する日が来るかもしれません。
「信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候」
の意味ですが、信心の行者が少ないのは、真実行について聞くことが
できるのは、宿善開発の行者だけだからです。
では、宿善(開発)の無い方には何もしないのか、放っておくのかと言えば、
違います。
説法しますね。ここを指して、「化土に勧む」と言うのです。
私も、728で化土往生を勧めているでしょう。
そうするしかありませんし、そもそも、化土はそのためにあります。
そして、化土に往く方も、滅度に至ります。
化土往生は、浄土門の中の、漸教です。
そして、浄土門を理解しない方には、聖道門を勧めるのです。

740 :298:2007/12/24(月) 10:56:11 ID:E28HWesZ
>>734
本当に尊いご引用をありがとうございます。
つくづく、親鸞聖人は、ただ人ではありませんね。
善導大師もそうですが、通常人の解釈をはるかに超えた読みを
示してくださいます。本当にありがたいことです。

>>737
歎異抄の著者が言っていることは、よくわかりますよ。
私は「歎異抄がおかしい」と言っているのではないのです。
渡海様はともかく、
(宿善の開発がはじまっているかも知れない)有縁の方に、
ご理解いただけるのであれば、私は満足です。
そもそも、親鸞聖人が新しい教えをはじめたという考え方が、
私たちと相容れません。
私たちは、真宗の教えは、釈尊出世本懐の教えであり、
釈尊にはじまるものとしています。
救いの法は変わりません。方便が変わるだけです。

741 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 11:09:40 ID:8/0NQW7m
【論説】 「結婚しない男の増加…自然の帰結」
「不倫を暴露する男…男女同権も来るところまで来た」…渡辺淳一
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071211-00000002-maiall-soci
http://news24.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1197342629/l50

742 :263:2007/12/24(月) 11:34:09 ID:vnq2RWQ5
事実上は親鸞の独創的な思想で
あると考えます。善導にも法然にもなかった。浄土真宗が、法然ではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ理
由の一つは、この化土観のオリジナル性により、親鸞思想が法然の枠内に決定的に入らないこと
によると考えています。したがって、善導や法然の著述を引用して親鸞がいう化土を議論するこ
とは筋が通りません。

真実の信心を得たる者はそのように解釈はしません、そもそも親鸞の思想やオリジナル的なと皆さんは
   思うのはしかたありませんが浄土七高僧がたの書物を見るかぎりではそう思うでしょう。
   あなた方はそれしか(経典・論書)しるすべがないのでそのような解釈をするのでしょう。
   
   真宗とは釈尊が弥陀の本願を阿難に付属し、親鸞、大師聖人(法然)より、この本願念仏を継承し、仏弟子より
   伝承された教理を七人の高僧と定め、浄土の真宗を開示したのです。

   念仏伝承は仏弟子から七人の高僧により伝えられ、祖師(法然・親鸞)を以って真となす
   このほかに真のことあるべからざる。

   よって親鸞のオリジナル的な思想とみなさんお思いでしょうがそうではないのです。
   
   ですから私たちは固く親鸞聖人のあらわしてくださったご文を真にうけることができるのです。
 
   けっして親鸞聖人の独想的な思想などではないのです、大無量寿経にとかれている化土観をわかりやすく解釈

   してくださったと思うべきだと私は受け留めています。   

743 :7:2007/12/24(月) 12:13:03 ID:ukBHubXF
自分も親鸞聖人は釈尊が説かれたことをそのまま説かれた方だという前提が浄土真宗だと思っています。
「さらに珍しき法をもひろめず」この聖人の言葉が全てではないでしょうか?
私も御文章を拝読したいと思います。

744 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 12:19:31 ID:5oMb6hws
話きりますけど、>735さんの宿善で思い出したんですが、
教行信証の行巻の大行釈の引文のとこで平等覚経、3番目(?)のところに

仏すなはちこれを知ろしめして、(略)みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。

とあるじゃないすか。あれって善導大師の凡夫往生の解釈と対立する内容のように
見えるんですが、どうなんでしょう。
どうも権化っぽいとは思うのですが、
宿善ということを考えると、権化の人や聖道の人しか助からないんじゃという疑いもおこりそうです。


745 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 12:37:20 ID:b8Uai8Go
>>727
>化土往生できる人が千人に数人いるとして

それじゃ千中無一にならないよ、千人に一人もいないんだからね。

>「一万人に一人もいない」は言い過ぎだったかもしれませんが

高僧和讃
「仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる」
この和讃の千中無一の異本左訓に
「千がなかに一人も生れずとなり。懐感禅師の釈には万不一生と釈せられたり」

でも、これは「一万人に一人」の文証にはならない

源空讃
「専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ」

万不一生の左訓には「万に一人も報土に生れずとなり」とあり、万人に一人も「報土」には往生できないの意なんだね

・・・しかし、二十願には「至心回向してわが国に生ぜんと欲せん」とある。
この至心に回向することが凡夫に(また凡夫である私に)可能かどうかを考えるべきだろう。

「いまこの心は、これ如来の清浄広大の至心なり、これを真実心と名づく。」(略典)
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(本典)
「しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし」(本典)

746 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 12:46:50 ID:b8Uai8Go
>>733
蓮如さんの称名について、文献学の方での話。
蓮如さんの御文を年代順に並べると、称名についての態度に変化があるそうだ
その結論を言うと

A 称名往生説が広まった地域への布教していた時期
この時期は、しつこいくらいに「阿弥陀仏に帰命するのが大事です」を強調していた
称名さえすれば往生できるという称名往生説を破すために、信心正因説を強調した

B 信心正因説が広まった後
Aの説を強調しすぎたため、称名を軽んずる人々がでてきてしまったらしい
そのため今度は「信心決定したあとは称名念仏しなさい」に力点を置いた御文が連発された

ABを合わせれば信心正因・称名報恩となる

747 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 12:55:09 ID:b8Uai8Go
>>726
>釈尊も、無記だったりするではありませんか。

無記についての考え方は色々ある
釈迦の無記については「わからないことについては捨置する」という解釈も有力だが

>>730
>2chで信が穫れることはありませんが、何かのご縁になればと願っております。

どうしてそう言いきれるの?
法然上人は善導大師の書によって信を獲た
面授の師ではなく、学問的探求によって(師を見いだし)信を獲たと言える
源左さんは牛に阿弥陀仏の慈悲を見いだし信を獲た。
彼にとって「でん」こそが善知識だった。

阿弥陀仏のおはからいを、計らっていない?

748 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 13:22:07 ID:b8Uai8Go
>>744
>善導大師の凡夫往生の解釈と対立する内容

二種深信によって往生する、でしょ?

深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。
また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

平等覚経の
「わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ」
これは聞名→信楽→往生を示す文
信楽を開いたのが二種深信なのだから、矛盾するとは思えないんだけど?

749 :263:2007/12/24(月) 13:24:36 ID:vnq2RWQ5
どうしてそう言いきれるの?
法然上人は善導大師の書によって信を獲た
面授の師ではなく、学問的探求によって(師を見いだし)信を獲たと言える

なぜそのように受け止めるのでしょう、私はこう認識しています。

 中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
 四百九十四年のとき、源空に対面す。

 いわゆるおとぎ話じゃないですが浄土より善導が来現し源空に伝授したと私は信じてます。(渡海さんに馬鹿にされそうですが)
 学問的探求によって信を得たと言える、ありえません、それでは自力になるからです。
 

750 :地のさそり:2007/12/24(月) 13:31:09 ID:Y+UbI4cg
親鸞会スレのノストラダムスの大予言及びアンチキリストの言及、見てね。

751 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 13:41:17 ID:b8Uai8Go
>>749
>学問的探求によって信を得たと言える

気にくわないなら、学問的探求が機縁となって、でもいいけどね。
まあ、法然上人の廻心は黒谷の経蔵において、ってのが一般的な説だよ。
文証

かなしきかなかなしきかな、いかゝせんいかゝせん。
こゝにわかこときは、すてに戒定慧の三学のうつわ物にあらす。
この三学 のほかに、わか心に相應する法門ありや、わか身にたへたる修行やあると、
よろつの智者にもとめ、もろもろの学者にとふらふしに、おしふる人もなく、しめすともからもなし。
しかるあひた、なけきなけき経蔵にいり。
かなしみかなしみ聖教にむかひて、てつからみつから、ひらきて見しに、善導和尚の観経の疏にいはく、
一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼仏願故、
といふ文を見えてのち、われらかことくの无智の身は、ひとへにこの文をあふき、
もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふへし。
たゝ善導の遺教を信するのみにあらす、又あつく弥陀の弘願に順せり。
順 彼仏願故の文、ふかくたましゐにそみ、心にとゝめたる也
(『和語燈録』5 諸人伝説の詞<弁阿伝承>より)

> 中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
> 四百九十四年のとき、源空に対面す。

これは上の廻心の後の話だろう
夢で見て廻心したなら経蔵で悲しむ必要も、「てつからみつから」ひらく必要もないからね。

善知識との出会いが廻心の機縁になる事は多いけど「それ以外はない」ってのは危なっかしい。

752 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 13:49:30 ID:b8Uai8Go
>>749
>ありえません、それでは自力になるからです。

だから、それこそ阿弥陀仏の御はからいじゃないのかな?
法然上人は焦燥感に執らわれ経蔵に籠もり、善導大師の書に出会って廻心した。
それらはすべて阿弥陀仏の導きであり、お育てであった。

阿弥陀仏とその眷属は、その人一人一人に、最も合った方法ではたらきかけるんじゃない?
法然上人は経蔵で、源左同行は牛にそれを見いだした。

自分や自分の周辺の人間が善知識の面授によって廻心したからといって、
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。

753 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 14:28:41 ID:5oMb6hws
>>748
たしかにそうかもしれませんが、
彼ら阿闍世王太子と長者子が現世において作仏を志したことについて
釈尊は
宿世においてかしょう仏のみもとで修行した因縁を説き、
未来においては、無央数劫の修行が必要である果を説かれているのですが
この二つは、凡夫にとって絶望になるのではないでしょうか?
まず、自分には過去世における宿善など期待できる立派な人間ではないこと。
次に、過去自分にはできないほどの善を積まれた方々さえ無央数劫の修行が必要なら自分にはついに助かる縁などはない。
という二点において往生できないと判断できるからです。
上の二つを、過去無央数劫からの如来のお育てがあるのだということと示し、また同時に
罪悪な自分であるということを、過去無央数劫の修行をしても助からず、
未来無央数劫の修行をしても助からないと表現されたと解釈するのはそうできないこともありませんから
そうともいえるかもしれませんが、
中には前世の縁がないひとは救えないなどという解釈も容認できそうでなんとも釈然としません。
喜びの一表現ということなのでしょうか。


754 :263:2007/12/24(月) 14:32:19 ID:vnq2RWQ5
自分や自分の周辺の人間が善知識の面授によって廻心したからといって、
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。

  私はそのようなことは言ってませんが、勝手に決めないでくださいね。
  たぶんだがあなた渡海さんなんでしょ?なんか似てるような気がするので
  間違っていたらすみません。

  阿弥陀仏とその眷属は、その人一人一人に、最も合った方法ではたらきかけるんじゃない?

  其の通りですよ。

  他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。

  そのように思いたいのですが・・・実際そうなので仕方ありませんが。

  ただし、たとえ生前に信を得なくともご縁のある方は死後、諸仏・菩薩方が導いてくださると
   
  だけ言っておきましょう。(馬鹿にしないでね)

755 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 14:34:27 ID:b8Uai8Go
っと

>>749
>中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
>四百九十四年のとき、源空に対面す。

これ、法然上人が夢で善導大師とあったという話じゃないのか。
では、念のために聞くけど文証は?
上の和語灯にはそういうことは書いていないよ。

756 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 14:44:54 ID:b8Uai8Go
>>754
>  私はそのようなことは言ってませんが、勝手に決めないでくださいね。

それは失礼。
では、
>2chで信が穫れることはありません
こう断言できる理由は?

>  たぶんだがあなた渡海さんなんでしょ?なんか似てるような気がするので

違うよ
わたしゃ彼のレスは透明あぼーんしている。


>  そのように思いたいのですが・・・実際そうなので仕方ありませんが。

法然上人と源左同行の例がある。
また、七高僧は?
そのすべてが面授によって他力の信を獲ただろうか?
道綽禅師は曇鸞大師の碑文に依って廻心したとされる。
また龍樹・天親菩薩、曇鸞大師や源信和尚はどうなの?

757 :263:2007/12/24(月) 14:51:21 ID:vnq2RWQ5
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。


  どこにも書いてないと思いますよ。なにせ相伝なもので・・・

  そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。

  >>752 他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。

   ヒント

   歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
         神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)

   とあるとおりなので。

758 :263:2007/12/24(月) 14:56:20 ID:vnq2RWQ5
法然上人と源左同行の例がある。
また、七高僧は?
そのすべてが面授によって他力の信を獲ただろうか?
道綽禅師は曇鸞大師の碑文に依って廻心したとされる。
また龍樹・天親菩薩、曇鸞大師や源信和尚はどうなの?

はい大変な質問ありがとうございます、はいそうですよ、観音・勢至・諸仏方もそうです。
                            (反響がありそうで怖い)
  
  

759 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:06:06 ID:5oMb6hws
何とも言い難い状況になってますね・・・



760 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:06:20 ID:b8Uai8Go
>>757
>なにせ相伝なもので・・・

どこの相伝?

>そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。

で、文証は?
和語灯にはない、親鸞聖人の文にもない
じゃ、誰が言い出したんだろう?

>   歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
         神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)

ここでは神力方便は「善知識の面授」には限定されていない。
還相も同様のはずだが。

761 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:07:37 ID:b8Uai8Go
>>758
やはり聞くけど文証は?

762 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:21:48 ID:b8Uai8Go
>>753
大江和上の教行信証講義録の該当箇所をざっと見たら、
そこは二十願に当たる部分と古来解釈されているそうだ。

なぜ二十願が引かれたかについて二説出されている
一説は、冒頭の弘願に至るまでの、二十願の信も名号の宿善のはたらきである、事を示すため
もう一説は化巻と同じく、二十願と十八願の分斉を明確に示すため、引用した

とのこと
取捨任情らしいが、大江和上は後者だそうだ

763 :263:2007/12/24(月) 15:22:05 ID:vnq2RWQ5
>>761
面白い方ですね、家にくるか?(なんちゃって)う〜ん、あなたの認識を詳しくしらないので

    どう説明すればいいのか難しいです。かなりの知識をお持ちなのは解るのですが

    しばらく考えて回答します。あと渡海さんではなどど疑い申しわけありませんでした。

      歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
         神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)

      この文をのせた意味は信を得た行者は還相回向の菩薩ですから有縁もしくは

      十方衆生(すべての生類)をも願いの願によって(十八願)済度できますよ

      って事の意味ですよ。
   

764 :神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 15:27:30 ID:SlsH3Ezb
ねーねー宗教って詐欺なのー?よくわかんなーい。なんで拝むのー?拝んでもみんな死んでるよー?金がらみ?

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