5ちゃんねる ★スマホ版★ ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50  

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

座ったり立ったりする修行なんていうの?2

1 :神も仏も名無しさん:2008/08/29(金) 22:03:34 ID:C/+tsq/X
教えて

座ったり立ったりする修行なんていうの?
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1147460282/600n-


2 :ろりぽっぷ ◆epMrs1963. :2008/08/29(金) 22:05:54 ID:67esVTYj
つか、2までスレ行って、疑問解決しなかったのぉ??

3 :音響:2008/08/29(金) 23:38:06 ID:SXRMW7qN
ヒンズースクワットだろ。

4 :神も仏も名無しさん:2008/08/30(土) 03:41:32 ID:DbV6MqpG
「ここが変だよ。ろりぽっぷ2」
[PC版]http://www.vote5.net/2kote/htm/1208337146.html
[携帯版]http://www.vote5.net/2kote/ivote.cgi?result=on&room=1208337146

「2ちゃんコテ嫌い投票箱 Part.2」
[PC版]http://www.vote5.net/2kote/htm/1211808089.html
[携帯版]http://www.vote5.net/2kote/ivote.cgi?result=on&room=1211808089

5 :たか:2008/08/30(土) 09:32:35 ID:IsFWyX6W
>>1
スレをたてて頂いてありがとう。

釈迦は当初女性の出家は認めていなかったようですね。
まぁ、いろいろ理由はあるでしょうが。

大乗仏教では女性は悟れないという小乗の考えを弟子おもに一番弟子のシャーりプトラ、舎利子を登場させて批判します。
維摩経では維摩の見舞いに訪れた菩薩や弟子たちに病室にいた天女が花びらを降らせます。
煩悩に左右されない菩薩たちにはその花びらが付かないのにいまだ悟りに至っていない舎利子たち弟子や阿羅漢にはその花びらが纏わり付きます。
気になってそれを振り払おうとすればするほど一層強く纏わり付いてしまうようです。
服に付いたほこりを振り払い叩き落そうとしますが一瞬離れても静電気ですぐに服にほこりが吸い付くような感じでしょうか。
放って置けば気にもならないものをいじくり始めると気になって仕方がない。
煩悩や苦をいじくればいじくるほど深みにはまって抜け出せなくなります、鬱などその典型でしょうか。
花びらには良い悪いの分別がないのにそれをあなたが分別するから煩悩や執着心や苦を作り出してしまうのではないですかという天女の言葉で舎利子ははっと気づきます。

6 :たか:2008/08/30(土) 10:19:27 ID:IsFWyX6W
この天女のすぐれた境地を目の当たりにした舎利子は天女が女性なのに何故悟れるのか、悟っているのに何故女性のままなのか疑問がわきます。
釈迦の当時、女性が悟る場合、いったん男性になって初めて悟れると思われていたようです。
それを察した天女は、私は今まで女性の本性を求めてきたが見つからなかったと言い、つまり男女を区別して捉えるべきでないといい、瞬時に舎利子を男性に変えてしまい、男性も女性も本質においては区別などないことを教えます。

法華経にも竜女が出てきて、女性は悟れないと思い込んでいる舎利子を打ち負かしてしまいますね。
大乗仏教では悟りにおいても男女の区別などない、平等であり、菩薩として生きることができるのだということでしょう。
そういえば、観音菩薩は、口ひげみたいなものを生やしていたり、赤子を抱いていたりして、女性にも例えられ、また男性にも例えられます。
音を観じれば、空を観ずれば男女の区別などなく悟りの境地に至れるのだ、到彼岸、これが般若心経の観自在菩薩の教えでしょう。

7 :たか:2008/08/30(土) 11:49:01 ID:IsFWyX6W
はるか2500年前にインドで釈迦から始まった仏教。
山を越え、中国に伝わり中国の思想も加味されながらさらに練られ、海を渡って日本に至りました。
平安時代には蝦夷といわれた野蛮の地とでも言われた奥州の平泉に黄金の華が咲きました。
観音菩薩は一輪の蓮華のつぼみを持っています。
おそらく釈迦も考えも付かなかったでしょう、蓮華の地下茎を通って日本文化という世界でも誇れる大輪を咲かせました。
それは前スレでもいろんな人の名を挙げて書いてきましたが、単に仏教の教えに留まらず、日本の文化や精神の礎になっています。
それはいつも意識しないあまりに当たり前のこととしてわたしたち一人一人の心に溶け込んでいます。

前スレでも書きましたが
慧能禅師が死を前にして書き残した偈、
 心地含種性
 法雨即花生
 頓悟花情己
 菩提果自成
心という土壌は仏性の種を含んでいる。
教えの雨を受けると智慧の花が開く。
即座にこの花の心を悟ってしまえば悟りの花は自ずから実る。
という慧能の最後の言葉があります。

観音菩薩の手に持つ一輪のつぼみ、是非とも咲かせて、次に伝えたいものです。

8 :たか:2008/08/31(日) 02:55:53 ID:sScWM8so
仏りんを鳴らして鳴り終わるまでのおよそ30秒間手を合わせて何も考えない、リンの音に身を任せるように。
いろんなことが浮かんできますが何も考えないようにすることです。
そのうちそれなりに慣れてくるでしょう。
そうしたら、仏リンを鳴らした後の一回目の呼吸を少し深く吸い込んだらいいでしょう。
まぁこれを続けてみることです。自分では気づかなくても少しずつ身体がなじんでくると思います。

大乗経典では自然の音、小川のせせらぎの音や小鳥の声、風の音、雨しずくの音などの記載があります。
その音が何を意味するのか、何故音のことを先人、仏が書き残して後世に伝えているのか、自分で感じ取ってください。
仏法は一音なり、仏は一音をもって法を説く、といいます。
観世音菩薩の観世音とは、世の中の音を観る、と書きますが、この音を観じて自由自在な境地に至ったのが般若心経の観自在菩薩ということです。
空を知り、一切の苦厄を渡したもう、つまり、悟りの境地に至るのだということでしょう。

見性し先人の教えを知ることで、その後は、一呼吸一呼吸が、一音一音が安らぎを教えてくれます。

9 :たか:2008/09/01(月) 23:16:06 ID:LoDr4psl
世の中、あららと思うことは突然あるもので、前スレの座ったり立ったりする修行なんていうの? ももう少し書き込めるものと思い込んで書いていましたが。
そのためそれ読んでいただきながら、それを基に引き続き読んでいただきたかったのですが、どうやら過去ログ倉庫に格納されてしまったようで、でもできればそれを何度か読んでいただいてほしいですね。
まぁ、前に書いたものも取り混ぜながら先人の伝えようとした大乗を少しずつ書き進めていきます。

それにしても今日の福田総理の辞任も突然ですね。
テレビを見れば、投げ出す、放り出す、無責任、という言葉が飛び交っていますね。

でもはるか昔釈迦が釈迦族の王子を投げ出し出家した時も、釈迦族の国民は驚きだったんでしょうね。
経典を見れば、人を苦から救うために出家をしたということでそれはそれでまことにすばらしいですが。
でも、一般人は家族も捨てて、全てをなげだすということは実際はなかなかできないことです。
大乗ではほとんどの人つまり衆生が在家のままでも出家しないままで苦から救われる道を示したものでないでしょうか。
先人のすぐれた人の中には修行の中でそれに気づいた人がいたのでしょう。
それが即ち経典であり先人の教えや生き方にそれが示されてるように思えます。

10 :たか:2008/09/01(月) 23:37:37 ID:LoDr4psl
禅の六祖慧能はその代表でしょう。
多くの農民や商人から慕われたそうでその姿はまさに十牛図のモデルでしょうか。
だから、その後に続く人は彼を見習って彼の境地に少しでも近づきたいと修行に励んだことでしょう。
慧能禅師は農民でで貧しくて文字が読めなかったといわれています。
でも仏法をよく知っていて、誰それの区別なく全ての人の心に仏性の種があるのだと説いています。

11 :たか:2008/09/03(水) 23:21:04 ID:IKJERZYz
すっかり秋が深まってくるように、今も外で鳴く虫の声が響いています。
目を閉じてゆっくりと静かに呼吸をするとその虫の声が心に染込んでくるようです。

芭蕉は山寺立石寺で
 閑さや 巌にしみ入 蝉の声
と読みましたが、季節や場所は変われど、音というものは常に心にしみ入ります。
見性後の、音とはまさにこのようなもので、音と一緒、音がその時をつくっているように思えるような安らぎがあります。

前に立石寺に行ったことを書いたことがありましたが、その時は芭蕉のこの句を味わいたくて行ったわけではありませんでした。
インターネットで見ていたら立石寺にマニ車という塔婆が多くあってそれがどういうものか見たくなって立石寺に行ったのです。
立石寺の参道、折れ曲がった石段のいろんなところに、柱の中に南無阿弥陀仏と書かれたくるくる回る車があるマニ車と呼ばれる卒塔婆が多くありました。
参道の途中はもちろん頂上の本堂の奥には無数にありました。
参道の途中にこのマニ車を書いている説明板があってそれによると、
このマニ車を納めることにより参道を行きかう多くの人がこの車を回してくれることでその功徳で若くして無念のうちに亡くなった子供が再びこの世に生まれることができる、
というようなことが書かれていたようです。
それを見て、どんなに苦しい中でも、もう一度生まれ変わってこの世で人生を全うしてほしいと思っている多くの親がいるのだろうと思いました。

人生は一度っきりでしょうが、だからこそ今その時その瞬間を大切に生きる、その瞬間の出会いを大切にする、これを一期一会といいます。
それを知れば知るほど、命の大切さがわかるものだし、慈悲、慈愛も自ずから沸き起こるものでしょう。
今その瞬間の音を観ずるとは、観音とは、その瞬間を心と身体全身で受け入れることですね。

12 :たか:2008/09/06(土) 00:21:41 ID:J5wla54G
一滴の水滴にその瞬間の世界がそのまま映し出される、その瞬間の世界がそのまま入っている,さらに言えば、その瞬間の世界がその水滴をかたちづくっています。
その一滴の水滴には、同じように、あらゆる音がその瞬間の水滴をかたちづくっています。
その水滴には、光も、音も、匂いも、空気も、温度も、その他のあらゆる一切全てが入って、その瞬間の一滴がかたちづくられているといえます。
だからその瞬間に水滴にかかわりのないものは無く、つまり、あらゆる存在がその時の水滴をかたちづくっています。

このことを維摩経では、維摩居士が何も無い、ガランとした空っぽの病室を使って、文殊菩薩や舎利子たち見舞いに訪れた者たちに空を解き明かします。
文殊菩薩が維摩居士に向かって何故この部屋は空っぽなのかと問答を始めます。
それに対し維摩は、諸仏の国土もまた空なり、無分別空を以っての故に空なり、分別もまた空なり、と答えます。

何も無く見舞い客の椅子さえないのかと疑問を持つ舎利子に、それを察した維摩が、お前は何しにきたのかといい、その狭い部屋にとてもとてもその部屋に入るはずも無いあらゆる一切、巨大な椅子だけでなく宇宙までも一瞬にその部屋の中にいれてみせます。
次に、有名な不可思議解脱の話をします、一粒の芥子の種の中に須弥山のような巨大なものを入れても、須弥山が減少したり一粒の芥子の種が増大することもないと説きます。
諸仏諸菩薩には不可思議と呼ばれる解脱がある、と維摩が話が話します。
私が一音、一音と何度も繰り返すのは、つまり、この不可思議解脱を一音を以って智るのです。
ウーン、頭で考えてもさっぱりワカンネェでしょうか。
不可思議解脱は言葉で解ってももう一つピンとコネェでしょうかね。
一休や芭蕉なら、

13 :たか:2008/09/06(土) 00:36:02 ID:J5wla54G
まぁね、先人たちもこれを知るために相当苦労したんですから、そう簡単に、理解しろわかんないのか、といわれても苦しむだけでしょうか。
苦を取り除くために話したことでかえって疑問や苦しみが生まれたりして。

私が何度も何度も、考えるな、空っぽにしろ、と言うのが少しは解りましたか。
観察など、観想観念などこの後でゆっくりすりゃあいいこと、逆ではいつまでたっても維摩経は理解できませんぜ。

14 :神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 12:03:29 ID:S4L3QAfo
やはりたかさんも先人たちと同様、苦労されたわけですか?

15 :たか:2008/09/07(日) 02:04:22 ID:ttS22zDY
14さんへ、
前スレを読んでいただければわかりますが、名僧や先人のかたがた、今修行をしている僧侶の方々との苦労の比較など、とてもとても私のは苦労に値しない問題外のものです。
経典に音のことが書いてあるから音に何らかの意味づけでもあるかもと自分勝手に思い込んで、時々仏リンを鳴らして手を合わせてただけですからね。
ただその間阿弥陀経以外の経典にも何か書いてあるだろうからと思って、浄土三部経と法華経の現代語訳を読み、ネットで禅も含めいろんな人の書いたものをチョコチョコと読んだりしましたが、結局は仏リンや音のことに関する私の納得できるものはなかったですね。
経典でいうと市販されている般若心経の解説書の内容にもどうも納得できなくていて、自分の母の死を切っ掛けにそれまで自分で思っていた縁起の考えではないことを、空、は示しているのではないかとも思っていました。
仕事をしながらもそんなことをしていて、気づいたら2年がたとうとしていて、自分ではそのことをわかることはできないなとこの2年は無駄だったろうと諦めの心境だったですね。
でもせっかくしてきたのだからもう少し、もう半年続けようという気持ちはありました。
大乗を調べる中で易行道という考えがあって、これは仏に全てを任せてしまおうという考えですが、つまり一切の条件を立てず阿弥陀仏なり観音菩薩に任せてしまおうとしたのです。
私は最初易行道ということにどうも抵抗があったのですが、どうにも自分ではどうしようもなくなって、 見性後なるほどと感じるところがあります

16 :たか:2008/09/07(日) 02:25:17 ID:ttS22zDY
自我を捨てるためには、自分で自我を無くそう一生懸命になってはかえって自我に縛られてだめで、逆に架空の存在かもしませんが仏に自分の一切を全てを預けてしまおうとした方がいいと思います。
これが自我を放す簡単な方法だと先人たちは伝えているのでしょう。
でも条件をつけては駄目です、つべこべ言わずに、何も付け加えることなくです。
だから諸法実相を説きながら一般には架空とも思えるような仏、如来、菩薩を先人の方々は否定しないのだと思います。
このことはいくら経典を読んでも、いくら有名な人だろうと、体験しなければ絶対にわかりませんね。
この件についても前スレに書いています。
読むのはたいへんでしょうが是非読んでいただきながら、あわせて引き続き読んでいただければと思いますし、何か質問があれば応えられる限り返答します。

なお、先人特に昔の人たちは私などの及びのつかない天才的な人たちですね。
漢文などはすらすらと理解し、自分こそはとみんな思っていた人だったのでしょう。
その自分なら仏法を理解することなど簡単という思い込みが、結局大乗の悟りにおいては邪魔で、苦労の原因であったのでしょう。
わたしのような下手な知識などないものだからこそかえって簡単に捨てられ、手放して、仏に、大自然に身を心をゆだねやすかったのでしょう。


17 :たか:2008/09/07(日) 02:46:18 ID:ttS22zDY
心の問題などはいっけん自分で解決できること、自分で解決しなければと本人も他人もおもいがちです。
だから心の問題で苦しんでる人を見ても、ついつい頑張ってと声をかけてしまいます。
でもそれは頑張ってということは逆効果で、頑張ってもどうにもならない状況にある本人に更なる負担をかけ追い込んでしまうことも多いものです。
頑張らないでいい、今のままでいいんだよ、とやさしく声をかけて心と身体を落ち着けなければなりませんね。

18 :たか:2008/09/07(日) 13:25:22 ID:ttS22zDY
>>16で仏、如来や菩薩を架空の存在と書きましたが、私たちが普通架空という言葉から思い描く架空とは違うでしょう。
道元はこれを仏のはたらき、つまり仏性と理解したでしょうし、親鸞は他力といい、これも同じく、仏の働きといえるでしょう。
自然が私たちを活かしているはたらきとも存在させているはたらき言え、だからこそ大乗では、悉有仏性、あらゆる存在が仏性を有しているといい、仏のはたらきの現れというのでしょう。
これを道元は現成公案という言葉で表し、自己というものを明らかにしなさいと導いています。

19 :たか:2008/09/07(日) 14:31:42 ID:ttS22zDY
先日、テレビを見てたらコロンブスの話がでていました。
コロンブスの所持していたマルコポーロの東方見聞録には多くの書き込みがありました。
やはりコロンブスは東方見聞録に書かれていた黄金の国ジパングを目指していたようです。
中尊寺金色堂はそのジパングの黄金の象徴だったでしょう。
考えてみれば不思議なものでその当時の東の一番端が金色堂で、西の端がコロンブスのスペインです。
地球が丸いならば西の端のスペインから西に向かえばインドなどのめんどくさい所を通らずに目指すジパングに行くのは近いはずと思ったでしょうか。
結果的にはジパングではなく西インド諸島、アメリカ大陸だったわけですが結果としてスペインはインカの黄金を手に入れ、世界を変えることになりましたね。
インドや中国、日本のだれも想像さえしてないことが起こって変化してまた新たな状況変化が起こります。
それにしても極楽浄土を表しこの世を安楽浄土にしようとした黄金文化が、逆にスペイン人によるインカ人の殺りくに切っ掛けにつながるとは奇妙なものです。

20 :たか:2008/09/08(月) 00:39:35 ID:PJHKEYdb
今日のNHK特殊はボストン美術館の浮世絵の特集でした。
ボストン美術館のスポルディング兄弟の収蔵品には日本を離れている作品でありながら、持ち去ったスポルディング兄弟に頭を下げざるを得ませんね。
スポルディング兄弟は集めた版画をけっして公開しないことを条件にボストン美術館に寄贈したといいます。
そのため、その種贓品は当時のままそのままを今の私たちに伝えています。
まさにまれにみる奇跡ですね。
今に残る浮世絵のほとんどの作品は紫外線の影響で作成当時の色が消えてしまったり、変化したりして美しさも作品全体の印象も違います。
ところがスポルディング兄弟が公開禁止の条件をつけたために奇跡的に当時の色、模様が残っています。
市の色、模様を見ることで作者、写楽、広重、国政の心の動きや、その当時の庶民の風景が浮かびでてきます。
今まで眠っていたものが、突然浮かび上がってきます。
まさに驚きです。
見性体験もこのような感じがありますね。
まさにずっと眠っていたものが起こされるというような観があるでしょうか。
浮世絵の作者が描こうとしたものがボストン美術館のスポルディングでわかるように、見性体験で大乗経典で作者やその訳者が伝えようとしたことが次第に浮かび上がってくるのです。
だから、悟りの後の修行を言うのですね。
見性してこそわかる感動する先人たちの思い、これ決して文字だけでは解らないですね。
感動を伝える、これ即ち、生きる喜びのように思えますね。

21 :たか:2008/09/08(月) 01:00:26 ID:PJHKEYdb
このスポルディングコレクションの昨年のNHK特集と続けてみて思い出したのが山下清の花火大会の貼り絵です。
前スレで書いた花火師の長岡の花火大会の作品はテレビで見る限りすばらしいものでしたね。
おそらくいろんなところに展示されないため色がきれいに残ったのかの知れません。
何しろ色がついてる部分は色紙ですから紫外線であっという間に色あせてしまいます。
あの作品も是非大切に保存してほしいですね。
その絵には清の感動が詰まっていて、それと同じくそれを見る私たちがそれぞれの思いで感動するのですから。

22 :神も仏も名無しさん:2008/09/08(月) 21:45:57 ID:vmsvKP6r
仏教に関する本、たとえば維摩経の和訳とか読んでいると、ある思想体系が見えてきます。
聖者と呼ばれる人の書物を読んでてもそうですが、それらは共通している箇所があります。
非二元論とか無分別とかいろいろ言われていますが何かし共通部分があります。
そういった書物は、「無」について、様々な考察・洞察した結果、言葉を使ってそれについて述べています。
読んでいる中、そこにはなにかしらある思想体系を自分が嗅ぎ取り、感じ取られた思想体系が自分の中で固有に出来上がり、その自分で作った思想体系に普通の人はしがみついてしまう傾向があると思います。
それはその思想・観念は自分にとってたいそう高尚で、納得いくもので、憧れで理想だからです。
それは自分で作り上げた思想体系・高尚な観念ということになります。
その理想化された概念を持ち、それに少しでも近づこうと追い求める自分がいます。

恐らく、聖者の書物にはそういった思想体系を手放す方法が書かれているはずなのですが、逆に我々はその思想体系に神秘性と憧憬を引っ付けてしまい、理想化して作り、その理想化したものを携え、答えを追い求めているのだと思います。
悪く言えば、いい悪い関係なく欲とはそんなものだと思います。
その悪循環から私は逃れたいのだと思います。

よく書物などを読むと返って変な知識が引っ付いてしまうと言われるのはそういったことではないでしょうか。


23 :たか:2008/09/09(火) 12:27:25 ID:dn3fuTIo
22さんへ、
おおかたあなたの言っている通りでしょう。

前スレでも何度も繰り返し書いてきましたが日本に伝わった代表的な大乗経典例えば般若経、般若心経、法華経、阿弥陀経、維摩経、大乗論などは全て鳩摩羅什の名訳といわれます。
そしてそのどれもが今ある宗派の中心的な経典です。
法華経だけでよい、般若心経だけでよい、浄土三部経だけでよいとなどという人がいますがものごとを知らないとはこのことを言います。
例えば最初に日本に仏教の創始者ともいえる聖徳太子の三経義疏は法華経、維摩経など羅什の訳があってこそといえ、またその大乗の仏教思想は十七条憲法に深く表されています。
これらの羅什の表した大乗経典は一見途方もない架空の物語ですが、羅什はことあるごとに弟子たちに、諸法実相、を説いたといわれています。
諸法実相、あるがままの世界これが法なのだよ、と言うことでしょう。
ですから、これらの経典から彼の説く、諸法実相、を読み解かなくてはただ単に唸ったり書いたりしているだけになります。

見性とは、一音とは、無分別の体験です。
これを体験することが即ち、無分別の智、です。
これを別な言葉で、一の如しつまり一如といい、一体といい、不二といい、非二元論とも言うのでしょう。
維摩経では、入不二法門品で痛快にこのことを説いています。
2つの対立したものとして考える分別するのではなく、二にして一である、二即ち一である、という無分別を智ることが大切です。
この対立的にみさせているものは我といえる心でしょう。
その我を無いことを無心というでしょうか。
我がなくなった瞬間、他と思っていた全てが自分に入っているとしり、自他の垣根がなくなった瞬間全てが自分をつくり動かしていると気づくんです。
>>12の、一滴の水滴、と、取り巻く世界、を2つの別とみるのではなく、一滴の水滴と世界、という2にして1として観るのです。
文殊の、全てのことがらは言葉の無く説明も無く示すことも無く識も無く諸々の問答を離れています、という返答に、維摩は沈黙で応えます。
言葉や思考など入る隙ない、空っぽの状態、無。
まさにこの沈黙は、空っぽの病室と同じでしょう。
空っぽだからこそ自他一体、一粒のからしの種に宇宙全体が入っているといえます。


24 :たか:2008/09/09(火) 13:26:51 ID:dn3fuTIo
空っぽだからこそ自他一体、一粒のからしの種に宇宙全体が入っているといえ、あらゆる法は実相である、ともいえます。

何度も言いますが、捨てるを説かない師は駄目です。
つまり、師に値しません。
だから、仏教なのに、釈迦など殺せといい、仏教知識などいらないと説くのです。
ましてや俺は釈迦になったなどとは悟った人は恥ずかしくみっともなくて言えませんよ。

仏教知識を得ることは必要でないというかとではありませんが、22さんの言われるとおり見性には邪魔になったりします。
でもだからといって黙っていれば間違った考えが仏法のように思われ広められます。
ですからそれを承知で時間をかけて書き込んでいるのです。
道元や法然や親鸞はおそらく仏法を体得するにはまずは知識と思ったのかもしれませんね。
でも最後には自我を捨てることだと気づいたんでしょう。
諸法実相、つまり人は法の真っ只中いるのであり、法に気づけばよいということになります。
仏法の学問や知識に時間をかけるより自我を捨て去り仏に身を任せる方が速いと考えたかもしれません。
念仏や只管打座を言うのはそのためでしょう。
ただね、先にもいったとおり自分の体験と先人の教えを照らし合わせなければいけないでしょう。
それをしないと笑いものになるかも。
お笑いのコントじゃないんだから。

私が言っている仏リン30秒もそういう空っぽの瞬間を身につけることにあります。
常に思い巡らしていることをいったん止めてみる、その時間をつくることが大切です。
一日のうち気が向いた時にどこでも好きな時にしてみればいいことです、どこでもできます。
どこでしなければならないというもんでもないでしょう、ただこれだけなんだから。
後はいつもどうり仕事や家事をすればいいことですね。
仏リンなければ聞こえる音に無心のこころで。

25 :たか:2008/09/09(火) 13:40:39 ID:dn3fuTIo
維摩居士を観音菩薩と読み変えると非常にわかりやすいでしょうか。
前スレで書いたように、文殊菩薩を法華経の妙音菩薩にしましょうか。
般若心経の観音世菩薩の般若の智慧と、文殊菩薩の文殊の智慧、まあどちらも凡夫を悟りに導く同じようなののでしょうか。
東の妙音菩薩と、西の極楽の観音世菩薩、維摩経は二人の智慧の問答ともいえそうです。

まぁ、こんなことを書いているのはおそらく私しかいないかもしれません。

26 :神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 19:48:33 ID:pSlDQ3dV
某誤爆スレの1です。
きちんとしたお返事ありがとうございました。
お礼にこちらに寄らせてもらいました。
たかさんは、観世音菩薩の境をよくなし、よく示している方です。
まだ粗雑なところもありますが、それはこのまま仏に真正帰命し、観世音菩薩の境をしみこませきり、
そしていずれ観音菩薩の「音」を知ることの機縁が訪れ、さらに法界に入れば、自ずから明らかになることでしょう。
いまたかさんがいう「音」は観音菩薩の音ではなく、妙音菩薩の音だと思います。
現一切色身三昧とはそういうことであると思います。
妙音菩薩は淨華宿王智如来のもとに居られる菩薩ですから、いずれこの音を真に透過して観音菩薩の音に出会うでしょうが。
たかさんがいわれる一音は空海が十住心論で第八住心で示した、一道無為心のことです。
この境涯でのポイントは易経の蒙でいわれるように、
匪我求童蒙。童蒙求我。(我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む。)
に徹することです。
大己貴神が草原の下で火をさけたように、決して火の覆う草原に出てはいけません。

それからこれはたかさんにいうのではありませんが、あまりにも基本過ぎて、一般的に見落とされがちなのは、帰命するということです。
これは表現は違っても、どの経でも書いてあります。
帰命なくして、道を歩むということはありません。
学問だけするものは、そこが抜け落ちるがゆえに、先に進むことが難いのです。
つまり、自分の日常生活で背負った分だけしか、先に進まない。
じつはそこを背負ってくれているものがいるがゆえに、そこにたどりつくまでは、易々として道を歩むことができるのです。

27 :神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 20:04:40 ID:pSlDQ3dV
ただ信仰心と信心は同じように見えて違うものです。
白隠が識神を認めるが如しと言うように、信仰心というのは、自らの想念に現じたものに向かっているだけです。
つまり何か対象があってそこに心を向けるという意味で、相対的なものです。
信心というのは何か対象があって心を向けるものではない。
何かを信じるのではなく、信は信としてただ屹立している。絶対の信です。
そうすると、帰命と矛盾するように思うかもしれませんが、それは空性を正しく把握していないからです。
絶対の信とは仏道における不生の境であり、その信が真に向かう先を本当の意味でわかることが仏道修行の要点です。

帰命というのはもっと深い意味があるのですが、信はその第一歩です。
そこを通って、空性の無境なることを知り、観自在菩薩の境に入り、空気が透明であるがゆえに、すべての色が現れるように、空性のあるがままに現じるがゆえに観世音菩薩の境に入る。
これがたかさんが語っている世界です。

仏りんの話が上で出ていますが、仏りんというのは不思議なもので、毎日たたく人によって音が変わってきます。
これは一般の人でもわかるぐらい、違ってきます。
だいたい買ってきたばかりのころは、そんなに響かないものなのですが、きちんとした心で向かっている人がたたいていると、よく響くようになってきます。
逆に一応仏壇が家にある、というような人の仏りんは買ってきた時よりも響かなくなってきます。
別に仏りんでなくても良いのですが、きちんと向かった時にその感覚を体にしみこませることが大切です。
ちゃんとした寺や神社で参拝するときのコツですね。
もちろん帰命した上でですが。

28 :神も仏も名無しさん:2008/09/09(火) 21:19:57 ID:pSlDQ3dV
ただ、体に基礎ができていない人は、いきなりしみこませていくのは結構しんどいので、物実(ものざね)をつかうと良いでしょう。
寺なら数珠を、神社ならお守りなどを使うのが良いでしょう。
そこにいったんチャージして、それを普段身に着けてゆっくりと身にしみこませていく。

29 :22:2008/09/10(水) 19:55:59 ID:t99Wp49J
>>23-24 たかさん
返答ありがとうございました。

30 :たか:2008/09/11(木) 13:55:17 ID:3C2WL18k
26さんへ、
私はあなたと議論するつもりなどありません。
なぜなら、私の言っていることは、あなたの言っていること、書いていること、全て一切合切忘れろ捨てろと言ってるのですから。
このことを解らないでいくらかいても何も響いてきません。
そんなことなど知らなくてもどうでもいいことです。
これ仏教知識を振り回すというんでしょうか。
私はそんなこと忘れろとずーといってるんです。
つまりその為に書いてるんです。
邪魔ですよ。
そんなことなどネットを見ればいっぱい書いてあることです。

31 :22:2008/09/11(木) 20:16:03 ID:rVR8qnOw
できればもうひとつ質問があるのですが。
前スレで埼玉支店長さんと言う方が自分の見性体験について書かれていました。
「おれはすべてわかった。おれは悟ったんだ」という悟ってかえって悟りを持つ、自縄自縛の縄をほどくのが、かえって縄に縛られる、ということについて書かれていました。
これやっちゃうんだよな、見性することによってかえって、悟りを持ってしまう、と言ったいました

>2つの対立したものとして考える分別するのではなく、二にして一である、
>二即ち一である、という無分別を智ること
これが見性であれば、上述した「悟りを持つ」ことはありえないと思いました。


32 :22:2008/09/11(木) 21:49:08 ID:rVR8qnOw
それとたかさんは見性の際、悟りを持ち歩くことはなかったのですか?

33 :たか:2008/09/12(金) 13:19:49 ID:JiwtewZb
22さんへ、
見性後、埼玉支店長さんのように見性体験で悟りでかえって自分を特別にしてしまうことは誰もが体験します。
前スレを読めば私がそのことを何度も書いていますのでなんどかよく読めば解ると思います。
二即ち一である、という無分別を智ることが体験することが見性体験であり、それを体験することは大切です。
しかし、それを体験することで他の人とは自分は違う特別の体験をした、場合によっては自分は特別にすぐれた選ばれた人間だとついつい思い込む人が出てきます。
これはそれを打ち消そうとしても身体の中から沸き起こるようにでてきます。
例えば見性後、2ちゃんの宗教版を見ればいろんな人が悟りについて書いていてそのどれもがわかっていないなぁと感じます。
そして俺だけが特別なのだと誤解をしだしはじめます。
俺だけが釈迦を受け継いでいるなどというのはその典型です。
長い間修行をし、ほとんどが絶望を体験し、やっと悟りを取得したと思っているのですからその思いは特別でなんともならない自分を特別に見る自分が出てくるのです。
そういうことを経験した、それを心得ている師がそばにいれば、その師は新たに出来上がった特別視する慢心とも言えるものをつぶしにかかります。
つまり、特別なものなど何もないのだと払い去るのです。
大乗の教えとは、本来無であり、無分別空であり、無分別の智であり、それに気づかせることですから、それとは違う新たに湧き起こった自分を特別視する慢心の我をもう一度すっかり取り除くことが大切なのです。
それを取り除かないと慢心の我が一人歩きをしだします。
悟った後本当の修行が始まると言われる様に、自身の見性体験と、先人の教えや観察を通じてこの慢心の我を取り除きながら、仏法を深めていくことが大切です。
これを自灯明、法灯明というのでしょう。
そして自身それをしながら、また人にそれを伝えていく、これが仏道というものではないでしょうか。


34 :たか:2008/09/12(金) 13:46:26 ID:JiwtewZb
私の場合、通常言われる修行のようなものはしていなかったわけですので、逆に何故自分が体験したのか、この自分の体験が本当のものなのか、知る必要がでてきたのです。
ですから、もう一度経典を読んだりその他のものも読んだりしながら、少し時間がかかりますが、その特別に沸き起こるものを沈めていったということでしょうか。

般若心経で言うように、誰もが悟りに到達できるのだ、というのが大乗仏教の精神、心です。
観音菩薩の心は、さぁ皆さん一緒にいきましょう、という慈悲の心です。
けして、俺が教えてやるというものでもないし、俺についてくればいいんだというものでもないのでしょう。
般若心経の、ギャーテイギャーテイの最後の部分は特別な力があるマントラ真言とよく言われますがそうではなく、さぁみんなで悟りの世界に行きましょうという大乗の精神が詰まっているところに、価値があると私は思っています。

35 :たか:2008/09/12(金) 13:57:28 ID:JiwtewZb
私がここに書いているのを読んでも本来の修行になんら差し支えるものではありません。
手を合わせているわずかの間頭を心を空にし無にすることだけをいっているのですから。
もし見性されたならきっと私が書いてきたことがその人には役立つはずと思っています。


36 :たか:2008/09/12(金) 14:11:55 ID:JiwtewZb
二即ち一である、という無分別を智ることが体験することが見性体験ですからそれを踏まえて上で新たに生まれる我を取り去るこれをふまえてやっとということでしょうか。
悟った後俺は完璧だなどとほえる人がいますが、本当は経典は見性後身にしみて解るものなのです。

37 :22:2008/09/12(金) 20:23:11 ID:UxiF73hF
たかさん
わかりやすい説明、ありがとうございます。

たかさんのレスを読んでも、既成観念で納得してしまうんですね。
だから二ではなく一である、と理解してしまう。
それが無分別、非二元論、不二と思ってしまう。
またそれが22につながってしまう人は多いと思います。
本来は二即ち一である、というのが無分別を智ることなのでしょう。

38 :神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:14:46 ID:aoNDH4bD
>>30
わたしの書き込みに対して、気を害されたようでしたら、申し訳ありません。
ただわたしもいたずらに議論するために書き込んだのではありません。
たかさんに対しては、観世音菩薩の境においての注意すべき点を(ややそこのところをきちんととらえきれていないように見受けられましたので)、
そしてさらにその先があることを示すことにより、道の本義を示したかったからです。
悟りを開いた人のスレをみていたのでしたらわかるところもあるでしょうが、自らがわずかに得したことをもって、それでことたれりとした結果、
さらにその先があるにもかかわらず、そこでとまってしまう者の多いことはあなたのいうとおり、このインターネット上においてもなんと多いことか。

さらに、たかさんにいうのではありませんが、と前置きした上で、書いたことについては、
大乗仏教での易行の代表的な教えとして、浄土門が説かれています。
が、なぜ、ただ弥陀の本願によりて南無阿弥陀仏と唱えるだけの教えであるのに、それによって仏道を成道するものが多くないのか。
全て一切合切忘れろ捨てろ、ということばは禅においての「放下著」のことばを挙げるまでもなく、仏教においては山ほどあります。
ですが、それによって無上正等正覚に至り、成す者の少なきことはなぜなのか。
その所以を示したかったからです。

その上で、実際に正しき師に導かれ(別に生身を持った師という意味ではなく、真に正しき道を歩むようにと現れた、真の仏の意味を以ってそのように言っています)、
仏道を成する、まさにスレタイ通りのなんていうの?を書いたつもりです。

39 :神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:18:09 ID:aoNDH4bD
あなたの>>30で書いたことばは趙州和尚が放下著といったそのことばと同じことをいっているのでしょうが、わたしが示したことに対していうのには適切であるとは思いません。
なぜならあなたは仏の心の一端を示していますが、わたしの真に示したのは仏の体であるからです。
これについては法界を真に体することなければ、その真意を理解することはできないでしょうが、それがゆえにどのお経においても最初に仏に礼拝することを行うのです。
単に修飾語として書かれているのではありません。
実はたかさんは観世音菩薩の境を示していますが、もし帰命することをおろそかにするのならば、観世音菩薩の境を見失い、いまだ不生の境をも真に得ることも難しいでしょう。
阿弥陀仏の両脇に勢至菩薩と観世音菩薩がいるのは、勢至菩薩が仏道の初門に道をつけ、観世音菩薩が仏道の心の境に導くが為です。
ただそこにとどまれば、真ん中にいる阿弥陀仏の真の意味を見失い、勢至菩薩と観世音菩薩の導きも失われるでしょう。
あまたの宗教者が現在でも多くいますが、はじめはそこそこのものがあるようでも(はじめからダメダメなのは論外)途中で道を間違うのは、
ほんとうの根幹を失うか、自らのレベルを超えたものを語るが故なのです。

わたしの言葉を見て、単に言葉遊びをしているように思うかもしれませんが、きちんと検討すればそうでないことがわかるはずです。
わたしが内実を言葉に出して語らないのは、それを直に内実としてとらえられるだけの向かい方をしていないものに語ることを避けるが故です。
きちんとした帰命なしにただ内実を得ようとするならば、必ず道を間違えるでしょう。
ですから大乗仏教においては授戒を、密教においては灌頂を大切にするのはその為です(もちろん形式上のことではなく、その内実が大切なのですが)。

40 :神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 04:19:31 ID:aoNDH4bD
もちろん、あなたの境を否定するものではありません。
>>33 で書かれていることも、仏道の初門に入ったばかりの者に対しての注意点としては基本的には適切であると思います。
が、仏道はそんなに浅いものではありません。
般若心経の最後の部分もおまけでついているわけではありません。
その境をもって、仏道の深奥であるとは思っているのでしたら言う事はありませんが、普通に考えても釈尊がその程度でブッダであると言ったとは思わないと思います。
それでももし、まだこれを議論のための議論であるととらえるのでしたら、それはしかたのないことですね。

41 :神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 17:59:43 ID:aoNDH4bD
ちょっと追加。
趙州和尚が放下著と言ったのは、仏道の初門の境にとどまってはならない、と言ったのであって、いわゆる一切合切捨てろとは意味合いは違います。
たかさんがわたしに言われた、そういう概念を捨てろとは、かぶるところはありますが、そのまま同じとするには適当でないところがあります。
申し訳ありませんでした。

42 :たか:2008/09/14(日) 21:23:29 ID:VI7QHhra
般若心経は話しているのではないよ。
あくまで、在家の凡夫とも言える人が観音菩薩、観自在菩薩として登場している。
そして、釈迦の教えの言葉として受け継いだ小乗仏教をその象徴として第一弟子の舎利佛を登場させその小乗の拘りを無という字を使いながら打ち消している。
般若心経の前半部分は見性体験の瞬間を表しているともいえます。
同様に維摩経ではこれも在家の市民として維摩居士を登場させ、釈迦の弟子たちが釈迦の教えとして拘っているものを次々に拘りだと気づかせます。

釈迦は空を解き明かしていない、と一休禅師がいっているそうだと前スレで書きましたが、わたしもそう思っています。
当然釈迦も見性を体験したのでしょうがそれなんであるか、どのように理解すべきか、釈迦の代では解明し尽くしていなかったということでしょう。
釈迦に続くすぐれた人の中に釈迦と同じような修行をする中でその違いに気づき修正を試みたのが今に伝わる多くの大乗経典なのでしょう。
そのため、それを修正するため観自在菩薩、維摩を登場させ釈迦の教えを直接批判することなく大乗の考えを伝えようとしたのでしょう。

私は大乗の先人がこのような革命的な変化を試みた理由のひとつがなんと言っても彼ら自身の見性体験にあると思っています。
ですから、ここを読まれる方にはとりあえず見性体験をしてほしいと望んでいます。

43 :たか:2008/09/14(日) 21:30:21 ID:VI7QHhra
>>42の最初の部分は
般若心経は釈迦が直接般若心経及び空を話しているのではないよ。
に訂正します。

44 :たか:2008/09/15(月) 00:12:38 ID:lPEkk+m8
慧能禅師が言う本来無一物、般若心経が何度も繰り返す無、維摩経の空や無、なのに何で仏教の理屈がその前にあるのさ。
理屈や知識が、それがあっちゃー無とは言えんだろうに。
私はこんなにも解ってるんですと書けば書くほど、まだまだ解ってないことを示してるようなものだなぁ。

45 :神も仏も名無しさん:2008/09/15(月) 19:10:52 ID:KRJfv/kv
尼さん萌え必見!尼さんが精進料理を食べされてくれる、尼さんカフェ【香川】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221213858/
仏門に入ったきっかけは身体のコンプレックスから Dカップ巨乳住職誕生
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1221234048/

46 :神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 03:41:27 ID:Q4ZrKR4W
>>41 ゴータマは最初の見性ぐらい最初にたずねた二人の仙人の一人目のところで体験してるよ。
二人目のところで、不生の境にも入っているよ。
先人をなめすぎ。
単に釈尊に大乗の教えを仮託してあまたの釈迦如来を教主にした大乗経典が成り立っていると思っているのなら、それこそ仏教をなめすぎ。
どうして、自らの現在までのものさしで、もっとおおきいものをはかろうとするかね。
もしあなたの言う通りなら、そんなものに仮託などせずに、自ら別の教えを立てているよ。
そうしないのは、無上正等正覚に至り成すれば、そこにゴータマが至り成していたことが知れるからですよ。
さらに、なぜそれまでの道とは別に仏道が立てられたのかを知るからですよ。
そして仏道を歩む者は、遠い過去に説かれたものに導かれたのではなく、たったこの瞬間までここに釈尊がいることを知るがゆえに釈迦如来を教主として経を立てるのですよ。

47 :神も仏も名無しさん:2008/09/16(火) 03:43:12 ID:Q4ZrKR4W
>>44 そんなものなど、仏道の一端にしか過ぎませんよ。
もっというと仏道そのものでさえ、その先を真に知ればその入り口にしか過ぎないことを知るのですが。それについては語るつもりはないので良いです。
あなたが、仏道の初門に入った者を見て、わかってないなあ、というようにその先に進んだ者の目から見れば、あなたの境涯など仏道の深奥などではないことは一目瞭然なのです。
それともあなたは自らをもってすでに如来であると称するのですか。
これだけ仏が多くの法門を開き、多くの教えが説かれているのに、無上正等正覚に至り成するものが少ないのは、
どの段階においてもそうですが、仏の本願を真に知らず、自分の価値観や自らの境涯に固執するが故です。
仏の本願を見失った者は、どのような境涯を得ようとも、その者は菩提薩捶とするのに足りないのです。
なぜ観世音菩薩といえども、如来の本で修行するかといえば、仏の本願をまず自らの最初に立てるが故なのです。
そのことを忘れなければ、たとえ今生で無上正等正覚に至り成することなくても、必ず成仏するでしょうが、そうでなくては難しいでしょう。
無上正等正覚に至ることは、盤珪や親鸞ですら、生身の体を有していたときには、至っていない境です。
白隠ですら、42歳になるまでそこに至っていなかった。
もちろんそこでとどまらず、さらに進まなくてはならないのですが、>>44程度の見解で無上正等正覚をはかろうなど、古典物理学で、量子論を語るようなものだ。
仏道を志したなら、無上正等正覚に至り成するまでは、たとえどのような境涯に至ろうとも、仏に帰命し、仏の本願を第一として一歩一歩道を歩んでゆくべきだ。
そうでなければ、仏に対して礼を失する(ここでいう礼とは形式的な失礼という意味ではなく、仏に通じる道を失うと言う意味です)。
それでも、たかさんがまだ自らの境涯と見解に固執するならば、それがたかさんが選んだ道なのですから、わたしがどうこういう話ではありませんね。

48 :たか:2008/09/16(火) 23:51:53 ID:fWdD0UDF
昨日は近くのスーパー伊藤チェーンで三陸産さんまが一匹78円、今日はヨークベニマルで北海道産さんまが98円、大きさはほとんど変わらなかったかな。
必死で泳いでいただけなのにいつの間にやらさんまの揚げ港で値段やイメージが変えられてしまった。
というわけで昨晩はさんまで一杯。
ついでに一句。
風涼し遅い晩酌秋刀魚焼く

秋を感じて、秋刀魚食べて、顔ほころばせているのがいちばんだね。

49 :神も仏も名無しさん:2008/09/18(木) 23:02:04 ID:cLmZbLgl
下手なエッセイスレだ。

50 :たか:2008/09/19(金) 02:15:23 ID:+C02l/1j
目黒の秋刀魚という落語があって、話の最後にお殿様が、さんまは目黒に限る、という。
先日ニュースでこの話にちなんで目黒で岩手宮古産のさんまが振舞われていた。
宮古産、大船渡産、気仙沼産、女川産、みんな三陸産のさんま。
よくよく考えればぐるっと回遊して秋ぐちに北海道から南下してくる同じさんま水揚げ港が違うだけだけれど売る方も買うほうもなんか付けて識別しないとしっくりしない。
さんまはやっぱりおらほぉの水揚げしたのが一番だべ。

何言ってんだ、江戸の昔からさんまは目黒だ。


51 :たか:2008/09/19(金) 02:39:26 ID:+C02l/1j
でも、食べてみりゃァ秋の脂ののってるさんまが美味しいだけだね。
レッテルに惑わされることなくその瞬間を楽しむことが大切、秋を楽しむことが大切だと思うよ、49さん。

先日は十五夜、名月。

春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえて、すずしかりけり。

ごちゃごちゃ言っているばかりが大切ってもんでもないだろう。

そのまま観じれば丸く収まる、、言葉もなく、ただ沈黙するのみ。
いやいやたたただ、それだけ。



52 :たか:2008/09/19(金) 03:12:19 ID:+C02l/1j
ちょっと前までアリコの保険は、格付けがAAA、スリーAでもっとも安心、と朝から晩までテレビをつけるたびに放送されていた。
でもちょっと前から流れるニュースは親会社のAIG我破産するのではないかという話ばかり、この格付け、レッテルは何なんだろうと思ってしまいます。
東南アジアでは多くの人が保険の解約におしよせたとか。
一寸先はわからないといえばそれだけだけれど、この格付け厳正に審査してなどというけれど、人が自分勝手に自分の都合でかってに付けて、それにほとんどの人が踊らされてるようにも見えますね。

でも何らかの基準がないとと思ってしまいしまい、またまた騙されたりします。
産地偽装も、事故米も、みんなみんな騙されましたね。


53 :神も仏も名無しさん:2008/09/20(土) 01:33:34 ID:AhCYpylb
>>49
> 下手なエッセイスレだ。

実は尊大であることもプラス。


54 :たか:2008/09/21(日) 01:40:23 ID:BdQ0g786
尊大てか、まぁいいや。

少しは気づいてもらおうと思っていってるんだけどね、解んないうちは仕方がないね。

鬼和尚のところに悟ったぞという人がでてきて、、ちょっといき過ぎかなと思って私が名無しで時々書いて釘を刺すとでなくなっちゃった人が何人かいたね。
でもいじめるために書いてたんじゃないんだ。
もう少し解ってほしかったんだけどね。
それを言葉で伝えるのはなかなか難しいね。

>>22さんへ、
あなたが質問していた埼玉支店長さんは今は別名ただのおじさんででているように見えますがどうでしょうね。
新たにできた特別のものを取り去って初めて一歩前進といえ、それが落ちたのでしょう。

それがなくなるまでは、それまでいくら仏教用語を並べようが、いくら解説しようが、程度というものが不思議と見えてきますね。
だから余計なもの全て、一切合切、空や、仏教知識はもちろん捨てて空っぽにしろというんですね。
これを仏を殺せとか、一度死んで来いといいます。
これが解らないと大乗仏教、仏法は始まらないですね。
だから、これはどうで、これを持っているほうがどうとか書くのを見て、余計だ、邪魔だといったんです。
私に、言われたぐらいでぐだぐだ言うのは解ってない証拠ですよ。

55 :神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 03:21:14 ID:cKjznfQG
うわぁ

尊大というか文章もひどいし、理解力にも問題を感じさせる。
ほんとうは程度が低い知見解レベルかも・・・

56 :22:2008/09/21(日) 13:58:36 ID:3eWIH634
>>54たかさん そのようですね。レス内容がたかさんと似て真をついてますね。

57 :神も仏も名無しさん:2008/09/21(日) 22:30:26 ID:cKjznfQG
22=54

文体が同じ、ID変えて自演。

58 :たか:2008/09/23(火) 12:39:24 ID:LO97WRgu
世の中にはつまらないことに頭を使っている人がいるものだ。

秋の彼岸の墓参り、手を合わせて胸いっぱいに息を吸い込めば、身体いっぱいに広がる。
生きてるとは、ただそれだけのこと。
でもこれ、喜びの始まりだね。

59 :22:2008/09/25(木) 00:05:08 ID:K6CD3lFC
たぶん、ただのおやじの前はできそくないというコテをお使いだったと思いますね。

悟った人は小さなことにとらわれないため、様々なことを捨てれる人だと思います。
小さなことにとらわれることこそ、俗世界に生きる人の特徴であります。
とすると、悟ったという感覚自体がすでに俗世の人となんら変わらないことを示しているのではないでしょうか。
だから悟ったときの感覚にしがみついてしまうのかもしれません。
ここではある人はある人よりも悟り(と思われるもの)の段階がより進んでいること等を目にすることができると思います。
十牛図は、悟ったという感覚を持った段階から、最後持った悟りを捨てる段階までを表しているのではないだろうかと想像してみる。


60 :たか:2008/09/25(木) 13:36:51 ID:X6XTTqx1
>>22さんへ、
できそこないさんは、きっとあなたの言われているとおりでしょう。

見性で無分別空、無分別を智ることで、拘りなく捉われなく生きることが大切です。
私が最初に知った経典は般若心経ですが、どういうわけか小さい時に家に薬師寺と書いてある般若心経があったのです。
また小さい時にテレビに薬師寺の高田管長という人が出ていて、家にある薬師寺の般若心経に書いてある文を毎回唱えていたのを覚えています。
 かたよらないこころ
 こだわらないこころ
 とらわれないこころ
 ひろく ひろく
 もっと ひろく
 これが 般若心経
 空のこころなり

 ねがいまつらんこのくどく
 よろずの人にみちわたり
 われらひとしくみな共に
 うやまい行かん法の道
これ、般若心経、大乗の心、菩薩の心をうまく表していると思いますね。
これに付け加えることはありませんが。
悟りに至れば、拘らない心、捉われない心、かたよらない心、広く広くもっと広くですね。
そして、さぁ、皆さん、一緒に行きましょう、これが彼岸に渡る般若心経の精神です。
普通の生活をしながら、しかも自分だけ悟りに浸っていることを良しとしない、そして人と共に歩もうとする、それが大乗の言う悟りの境地というものなのでしょう。
それを経典にした名作が般若心経であったり、維摩経なのでしょう。

61 :たか:2008/09/25(木) 14:17:19 ID:X6XTTqx1
ですから単に悟りを捨てるだけには留まらないといえます。

禅の十牛図はおそらくは六祖慧能禅師がモデルでしょうか。
前スレでも書いたように、慧能は商人や農民に仏法を伝え、共に歩もうとしたところが見えます。
この点は王子の子として生まれた釈迦や達磨大師とは少し違うかもしれませんね。

はすの花は混沌とした煩悩という泥沼があってこそ、綺麗な華を咲かせるでしょうか。
それを表して観音菩薩ははすの花を手に持つのでしょう。
人々の境遇そして苦しみはそれぞれ違いますが、でもそれを糧として人に対して慈悲という優しさが染み出てくるものかもしれません。
自らが喜び、気づき、他の人に対してもそれを伝え、気づかせるお手伝いをする、そこに自己の喜びとは違う更なる喜びがあるように思いますがどうでしょうか。


62 :22:2008/09/25(木) 21:39:48 ID:K6CD3lFC
深いお話ですねえ・・・それを目指すから逆に偏った心になる私はまだまだ・・・

悟りと言うのは自我の終焉とよく目に付くけれども本当にそうなのか。
それは無我ではない、自分、自我があるから大変なんだ、自我を消して無我になるときっと幸せだという考えに行き着いた結果だろう。
自我にして無我であれば、自我も無我も区別していない。
すると自我を消すことが悟りではなく、自我にとらわれないことが悟りだと思います。
結局、悟っても自我は残ってるし、好き嫌いという区別も残っているのではないだろうか。
ただとらわれない、簡単に捨てられるのが凡人ではない非凡なとこと言えます。
また、自我がとらわれることなく簡単に捨てられるから、他人に奉仕することができる、逆に凡人はすぐにとらわれるから自分になにかしら(精神的にも肉体的にもの意味において)利益がないと奉仕できない、これが私が思う慈悲ですかねえ。

確かに自我がなくなれば、好きも嫌いも何もかもなくなるが、自我の終焉が悟りならそれって人間として生存するのは不可能ではないだろうか。
もしも、自我ではなく無我に行き着くことが悟りであれば、肉体精神否定の断食、睡眠を絶つ、禁欲等に走るのは悟りなのだろうが、これはある意味、うんこと飯を区別することなく食べろ、それが無分別・無我であり悟りと言っているのと同じだろう。
だって、腹減ったのに、食欲、食べたいという欲を打ち消したり、身体や精神が疲れきって休みたいのに寝ない(というか眠たいという欲を打ち消す)というのは、人間としての機能を否定することになり、肉体とて精神とて健全ではなくなると思いますねえ。


63 :22:2008/09/25(木) 21:57:34 ID:K6CD3lFC
そうなると肉体を維持することは不可能になります。
悟りが自我の終焉というのは、それは勘違いしている偏った考えから生み出されてるだけだと思いますね。


64 :たか:2008/09/26(金) 13:19:25 ID:gjPfS1IR
誰でもそうですが、22さんもそうですが、自我だ、無我だ、なんだかんだと言っている考えてるのを止めなさいといってるんです。
そんなことを今の段階で一生懸命考えていてもいつまでたってもスッキリした答えなど出ません。
もしスッキリしたいならまず常に考えてることをとめなさい、止めなさいと言ってるんです。
そして頭を空っぽにしなさいといってるんです。
ごちゃごちゃグルグル頭の中で回っていたのではすっきりするわっけなどないでしょう。
一日の中で数度、30秒間頭の中を空っぽにする、何も考えない時をつくることからまずは始めなさいといってるんです。
これをしないといつまでも同じことの繰り返しです。
たった30秒間ですよ、どこでだってできそうなものです。
声をだせといってるのでもないし、座禅をしろといってるわけでもない、チョットした合間に30秒間だけなら人目も気にしないでできそうなものです。
でもこれをしないんでしょう。
まずはそれからですよ。しないうちはいつまでたってもです。

65 :たか:2008/09/26(金) 13:29:58 ID:gjPfS1IR
捨てるというのは、言葉であれこれと考えてるのをやめることなんです。
これが解らないうちは捨てる捨てると何度いっても解ったことにはなりません。
言葉でわかろう理解しようとする気があるから時間がかかるんでしょう。
いくら頭がよくても駄目です。
頭の良し悪しではないんだから。
言葉で理解しようとするそれを止める、即ちそれ、捨てることに通じます。

66 :たか:2008/09/26(金) 14:09:06 ID:gjPfS1IR
仏法は三宝印、特に諸行無常、諸法無我これを知ることが大切です。
そんなことぐらい解ってらぁ、といわれそうです。
本当に解ってるんですか、問いたいですね。
諸行無常、諸法無我、あらゆる万物、一切合切すべてこれです。
ですから仏法ではこれを真理、真如という。
我々一人一人も同じくこれによって成り立っています。
空とは、まさにこのことです。
仏法とはこれをふまえた上でというところから始まるといってよいでしょう。
これをふまえるとは何か、空っぽにして、なるほどという感動からです。
維摩経は別名不可思議解脱の法門といわれるそうで、不可思議解脱、即ち、見性であり悟りというものです。
見性体験の中に、三宝印の教えがあるといえるのです。

この三宝印が基礎にありその上に自我というものがあって今いろいろと考えながら生きているのです。
自我というものは必要があって生まれてきたものですが、多くの問題や苦しみも引き起こします。
それを解決するため、いつの間にか自我で覆われたこの真理を自分の身体で心でもう一度確認しなければなりません。
確認することで、自我に捉われない拘らない生き方ができるのでしょう。
この確認することを、本来の自己、を知るというのでしょう。

52 KB
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

★スマホ版★ 掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50

read.cgi ver 05.04.00 2017/10/04 Walang Kapalit ★
FOX ★ DSO(Dynamic Shared Object)